「孤独地獄」を読む。
地獄の中に「孤独地獄」というものがあるそうな。地獄は別の世界にあるのだが、この「孤独地獄」は、
・・・何処へでも忽然として現れる。云わば目前の境界が、すぐそのまま、地獄の苦艱を現前するのである。
「孤独地獄」は誰にでも経験するものではないかと思う。しかしそれが現前するのは思春期のはじめである。強烈な孤独を感じ、それに苦しめられるという経験は、私にはあった。だがいわば「孤独地獄」を乗りこえてからは、そのような孤独に苦しむことはなくなった。
芥川の「孤独地獄」には、それに陥った吉原の花魁に出入りする坊主、年齢は中年から老年に入る当たりだろうか。こうある。
自分は二三年前から、この地獄へ墜ちた。一切のことが少しも永続した興味を与えない。だから何時でも一つの境界から一つの境界を追って生きている。勿論それでも地獄は逃れられない。そうかといって境界を変えずにいれば猶、苦しい思をする。そこでやはり転々としてその日その日の苦しみを忘れるような生活をしてゆく。しかし、それもしまいには苦しくなるとすれば、死んでしまうよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのは嫌だった。今では…
坊主の身でありながら花魁のもとに通うのは、「孤独地獄」から逃れるためであったのか。
しかしこの坊主も、仏道に精進すべきとしかいいようがない。坊主は仏道に生きる者として、「孤独地獄」に入り込むことはあってはならないのではないか。
「鼻」の禅智内供といい、この坊主(名は禅超)といい、仏の道に生きる者として、情けない。いずれも禅宗系の坊主のようだ。
芥川は、禅宗の坊主によい思いを持っていなかったのではないか。
私も禅宗である曹洞宗の坊主には良い思いをもたない。この宗派の坊主は、カネに執着する。仏の道に仕える者として、邪道を生きている。
地獄の中に「孤独地獄」というものがあるそうな。地獄は別の世界にあるのだが、この「孤独地獄」は、
・・・何処へでも忽然として現れる。云わば目前の境界が、すぐそのまま、地獄の苦艱を現前するのである。
「孤独地獄」は誰にでも経験するものではないかと思う。しかしそれが現前するのは思春期のはじめである。強烈な孤独を感じ、それに苦しめられるという経験は、私にはあった。だがいわば「孤独地獄」を乗りこえてからは、そのような孤独に苦しむことはなくなった。
芥川の「孤独地獄」には、それに陥った吉原の花魁に出入りする坊主、年齢は中年から老年に入る当たりだろうか。こうある。
自分は二三年前から、この地獄へ墜ちた。一切のことが少しも永続した興味を与えない。だから何時でも一つの境界から一つの境界を追って生きている。勿論それでも地獄は逃れられない。そうかといって境界を変えずにいれば猶、苦しい思をする。そこでやはり転々としてその日その日の苦しみを忘れるような生活をしてゆく。しかし、それもしまいには苦しくなるとすれば、死んでしまうよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのは嫌だった。今では…
坊主の身でありながら花魁のもとに通うのは、「孤独地獄」から逃れるためであったのか。
しかしこの坊主も、仏道に精進すべきとしかいいようがない。坊主は仏道に生きる者として、「孤独地獄」に入り込むことはあってはならないのではないか。
「鼻」の禅智内供といい、この坊主(名は禅超)といい、仏の道に生きる者として、情けない。いずれも禅宗系の坊主のようだ。
芥川は、禅宗の坊主によい思いを持っていなかったのではないか。
私も禅宗である曹洞宗の坊主には良い思いをもたない。この宗派の坊主は、カネに執着する。仏の道に仕える者として、邪道を生きている。