井上ひさしの演劇だけを上演するこまつ座。静岡県は、5月後半から6月はじめにかけて巡演する予定であったが、COVID-19 のためにほとんど中止となった。浜松は5月22日からであったが、一ヶ月ほど遅れての公演となった。
座席は、横、前後ろを空けるようにして、「距離」をとっての観劇となった。観劇の風景も、COVID-19 以前とは、まったく変わってしまった。今までのように演劇を見られなくなってしまったということがとても残念である。
また劇団も全国で中止が決まり、経営的にも苦労しているはずだ。
さて私はこの劇をずっと前に見ている。私は集英社文庫で、この戯曲を持っているが、奥付をみたら1988年刊行であった。おそらくそれ以前にどこかで見て、よかったので購入したのだと思う。
こまつ座はいつも見応えがある。今回も、である。演劇は、もちろん戯曲をもとにして上演される。戯曲の完成度が高いと自ずから上演される劇も良いものになる。井上ひさしの戯曲は言うまでもなく完成度が高い。
今回見ていて、あらすじはほぼ頭に入っていたが、細部にはこんなところがあったのかと驚いたことがある。
ひとつはオデオン堂の息子が軍隊から脱営して逃げまわるのだが、最初は九州の炭鉱に入り込む。そこで朝鮮人労働者と一緒になり、朝鮮人が強制的に連れてこられたこと、賃金が支払われていないことを知るのである。それが語られていた。
また「帝国の道義」ということばがあった。大日本帝国の戦争政策には「道義」がないことを、脱営した息子と傷痍軍人である妹の夫がほぼ同時に語るのである。
井上ひさしの戯曲は、明るく、楽しい。しかしそのなかに問題とすべき現実が入りこんでいる。戦時体制下の統制や動員、そのなかでの密告の横行、物不足、しかし戦争で儲けている者たち、そして企業整備令によるオデオン堂の廃業・・・
楽しいが故に、よけいにそうした現実が明瞭になる。最後の場面、市川春代の「青空」という唄を楽しそうにうたうのだが、それを空襲警報が中断させる。
戦争は明るく、楽しい日常を奪う、いや破壊するのである。
7月の観劇は、加藤健一事務所である。加藤健一事務所の劇は、加藤健一自身が楽しむためのものでしかない。加藤が静岡県出身だということからしばしば上演されるのだろうか。加藤が選んで上演する劇は、表層的な人間関係のみが面白おかしく演じられるだけで、見た後すぐに消えていく、記憶に残らない。
久しぶりに中心街に行ったが、浜松市民のほとんどはマスクをして、秩序正しい行動であった。
座席は、横、前後ろを空けるようにして、「距離」をとっての観劇となった。観劇の風景も、COVID-19 以前とは、まったく変わってしまった。今までのように演劇を見られなくなってしまったということがとても残念である。
また劇団も全国で中止が決まり、経営的にも苦労しているはずだ。
さて私はこの劇をずっと前に見ている。私は集英社文庫で、この戯曲を持っているが、奥付をみたら1988年刊行であった。おそらくそれ以前にどこかで見て、よかったので購入したのだと思う。
こまつ座はいつも見応えがある。今回も、である。演劇は、もちろん戯曲をもとにして上演される。戯曲の完成度が高いと自ずから上演される劇も良いものになる。井上ひさしの戯曲は言うまでもなく完成度が高い。
今回見ていて、あらすじはほぼ頭に入っていたが、細部にはこんなところがあったのかと驚いたことがある。
ひとつはオデオン堂の息子が軍隊から脱営して逃げまわるのだが、最初は九州の炭鉱に入り込む。そこで朝鮮人労働者と一緒になり、朝鮮人が強制的に連れてこられたこと、賃金が支払われていないことを知るのである。それが語られていた。
また「帝国の道義」ということばがあった。大日本帝国の戦争政策には「道義」がないことを、脱営した息子と傷痍軍人である妹の夫がほぼ同時に語るのである。
井上ひさしの戯曲は、明るく、楽しい。しかしそのなかに問題とすべき現実が入りこんでいる。戦時体制下の統制や動員、そのなかでの密告の横行、物不足、しかし戦争で儲けている者たち、そして企業整備令によるオデオン堂の廃業・・・
楽しいが故に、よけいにそうした現実が明瞭になる。最後の場面、市川春代の「青空」という唄を楽しそうにうたうのだが、それを空襲警報が中断させる。
戦争は明るく、楽しい日常を奪う、いや破壊するのである。
7月の観劇は、加藤健一事務所である。加藤健一事務所の劇は、加藤健一自身が楽しむためのものでしかない。加藤が静岡県出身だということからしばしば上演されるのだろうか。加藤が選んで上演する劇は、表層的な人間関係のみが面白おかしく演じられるだけで、見た後すぐに消えていく、記憶に残らない。
久しぶりに中心街に行ったが、浜松市民のほとんどはマスクをして、秩序正しい行動であった。