「ラミアの白い凧」 国際交流基金フォーラム アラブ映画祭2005 4/24

国際交流基金フォーラム(港区赤坂)
「ラミアの白い凧」
(2003年/レバノン/ランダ・シャハル・サッバーグ監督)
4/24(アラブ映画祭2005

こんにちは。

赤坂の国際交流基金フォーラムで「ラミアの白い凧」という映画を見てきました。4月14日から24日にかけて同フォーラムで開催された「アラブ映画祭2005」でのレバノンの作品です。国境線によって分断された村での悲劇的な愛を描いた佳作でした。

砂と岩が延々と広がるゴラン高原の村は、イスラエルとレバノンの国境線によって分断されています。そこがこの映画の舞台です。有刺鉄線と軍隊と地雷の存在が、村の自由な往来を阻害します。双方に取り残された親族や友人は、緩衝地帯越しに拡声器で連絡を取り合っています。にわかには信じがたい光景です。レバノン側に住む16歳の少女ラミアは、イスラムの掟なのか、ほぼ強制的に、村の長老会議によって、イスラエル側のもう一方の村に住む従兄のところへ嫁がされます。そして、この過程のやり取りももちろん拡声器によって行なわれますが、それをイスラエル側のとあるアラブ人兵士(問題を単純化出来ない要素がここにあります。)の若者が聞き、彼女に淡い恋心を寄せます。ラミアは結局、従兄である夫と反りが全く合わずに元々住んでいた村へ帰ります。しかしそこで先ほどの兵士と出会うことになるのです。二人の運命は一体どうなるのか…。結末は暗示的に「悲劇」として迎えられます。

この映画の最大の良さは、この村を取り巻く厳しい状況が、そこに住む逞しい人々の生活によって生々しく描かれていることです。「分断の悲劇」とは、残念ながら未だこの地上から消え去らない現実として存在していますが、その意味や背景を深く考えさせる要素をこの映画は持っています。ラミアは「分断の悲劇」の象徴として生き、最後には現実に押しつぶされるかのように消えて行きます。タイトルの「凧」とはラミアの意思なのかもしれません。糸の付いた「凧」は、あくまでもそれを揚げる人間によって拘束されています。しかし、糸がプッツリと切れると、凧は意思を持つように大空高く舞って自由を満喫すると同時に、すぐに地上へ落ち、動くことすら叶わなくなります。ラミアの恋も人生も、まさにそんな「凧」の生き様に近いものがあります。映画の冒頭には、村の子どもたちが地雷と有刺鉄線の近くで凧揚げを楽しそうにするシーンが登場しますが、その姿と「凧」としてのラミアが重なってくる時に、また悲しみが増すのではないかと思いました。

2月に「西ベイルート」を見た時にも書きましたが、今、レバノンやイスラエルをを取り巻く情勢は大きく動いています。ゴラン高原一帯は、歴史的にも紛争を繰り返してきた厳しい地域ではありますが、ラミアの悲劇を繰り返すことだけは何とか避けて欲しいと願うばかりです。
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