来年の「熱狂の日」はモーツァルト!?

今日の朝日新聞朝刊文化面に、「クラシック活性化にヒント 熱狂の日音楽祭に30万人」というタイトルの記事が掲載されていました。内容は、今回の「熱狂の日」を「大成功」として位置づけた上で、それをクラシック業界の今後にどう繋げるのかを問うものです。その中に「来年も5月4日~6日、モーツァルトをテーマに開催が決定。」と書かれていました。まだ公式のアナウンスがありませんので何とも言いようがありませんが、2006年の「熱狂の日」はモーツァルトということでほぼ決定の模様です。これは今から楽しみです。

公式HPにも記事にも載っていましたが、主催者側のアンケート(解答430人。)によれば、来場者の約半数以上がクラシックビギナー(年のコンサート回数が一回から二回以下。)の方だったそうです。また、来年も参加したいと答えた方は何と全体の95%以上だったとか。主催者側としても、予想以上のチケットの売れ行き(目標を3万5千枚上回った。)や、このようなアンケートの声に自信を持って来年の企画に取り組むのでしょう。今年の不備をカバーしながら、是非とも息の長い企画としていただきたいものです。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )

原美術館 「タピエス - スペインの巨人 熱き絵画の挑戦」 4/30

原美術館(品川区北品川)
「タピエス - スペインの巨人 熱き絵画の挑戦」
3/30~5/29

先日、原美術館でアントニ・タピエスの個展を見てきました。国際巡回展であるこの展覧会は、日本では原美術館のみの開催です。タピエスはまとまった形で紹介されることが少ないと聞きました。今回は貴重な機会なのかもしれません。

さて、タイトルに「熱き絵画の挑戦」とありますが、私には「熱き」という言葉の説明されるような要素を殆ど感じとることが出来ませんでした。もちろん、だからと言って、冷たくて無機質な印象を受けたわけではありません。むしろ、土着的な人懐っこさから生まれる素朴な表情と、原始宗教での信仰の対象となりそうな、言わばアニミズム的な世界観をイメージさせられます。言わば、作品には、それぞれの精霊や霊魂が宿っているような、神秘的な気配すら漂っていました。

また、タピエスの作品を「絵画」と定義するのも無理があるように思います。もちろん、カンヴァスに絵具という構成も多いのですが、その質感はもはや絵画を大きく超えていて、何かのオブジェのような印象を受けます。「熱き絵画の挑戦」とは一体何を意味するのでしょうか。先入観をあまり持たないで作品と対峙した方がより面白く味わえそうです。

彼の作品は、観る者をジワジワとその世界へ引き込む力があります。しかし、その作品を言葉で説明するのはかなり難しいことだと感じました。(私の語彙力のなさを棚に上げて偉そうに語っていますが…。)作品を前にして、そこにある形や素材、そして全体の質感などを丹念に一つずつ追いかけていき、その上で、作品と触れ合うように鑑賞する。デリケートな扱いを要求します。「美術」として構えて、その「意味」や「意義」を見出そうとすると、面白くない作品として捉えてしまう恐れがあるかもしれません。あくまでも自然体で鑑賞したいものばかりです。

「白のレリーフ」(1959年)は、カンヴァスから湧いて溢れるような「白」が印象的でした。全体からはどことない寂しさが発せられていますが、不思議にも広がりを感じるのに限界を思わせる作品でもあります。また、「赤い十字架のある絵画」(1954年)は、画面の上部で傾く赤い十字架と、それを受けるかのような下部の「黒」の関係が謎めいていました。祈りなのかそれとも絶望なのか…。これなどは「熱き」どころか「諦念」すら感じました。さらに、「もの派」を思わせるような「四つ」(1992年)も、安らぎの境地が微かに漂う気配です。パンフレットの表紙に載っている「鏡と紙吹雪」(1970年)は、置かれている部屋から立ち去る時に後ろ髪を引かれるような作品でした。一番見入っていたかもしれません。紙吹雪に覆われて反射することを殆ど拒否した「鏡」に何を見出すのか。その辺が問われそうです。

見ているときは淡い印象に終始しながらも、見終わってからしばらくすると作品の雰囲気が何度も思い起こされます。余韻の強く残る世界です。何年か経った時には全く違った印象を受けるかもしれません。もし機会があれば、この余韻が消えないうちにもう一度見たいと思います。見る側の感性がこれほどまでに作品へ投影するのも珍しいのではないでしょうか。作品との「共鳴」や「対話」の重要性を考えさせられた展覧会でした。
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )