「平山郁夫 祈りの旅路」 東京国立近代美術館

東京国立近代美術館千代田区北の丸公園3-1
「平山郁夫 祈りの旅路」
9/4-10/21



平山郁夫の名や絵はあちこちで見聞きしますが、これほどまとまった形で作品を見たのは初めてです。初期作より最新作まで、全80点にて平山の画業を概観します。

 

ともかく見入ったのは、主に第1章「仏陀の憧憬」で紹介されていた、画業初期の釈迦をテーマとしたいわゆる『仏画』の数々でした。金も目立つ日本画の顔料をふんだんに用い、まるで刺繍のような立体感のあるマチエールにて、重みのある仏の姿をいくつも描いています。特に、背景の金箔も覗く鬱蒼とした草木に囲まれた仏を捉えた「行七歩」(1962)や、弟子の取り囲む中で釈迦の入滅した様を描いた「入涅槃幻想」(1961)は見事でした。シンボリックな白鳩の舞う空の下で、影絵のように座る弟子たちと金色に映える小動物たちが、朧げに横たわる釈迦を静かに見つめています。この描き込まれ、塗り固められた濃密極まる画面に、大観ならぬ平山流『朦朧体』が合わさった時、画題より浮かぶ静謐な雰囲気を実に効果的に伝えてくれるようです。これは素直に吸い込まれます。





さて、乱暴な括りではありますが、それ以降、70年代から近作のシルクロードの作品などはどれも今ひとつ感じるものがありません。これらは一般的に、非常に見通し感のあるワイドな構図にて、例えば当地の文物などが比較的細やかなタッチで描かれていますが、その分、私の惹かれた初期の作品に見るような『ものの重み』が殆ど失われてしまっているのです。また、まるで蛍光色を用いたようなカラーリングも、率直に申し上げればかなり苦手な印象を受けました。空の青や炎の赤、それに砂漠の黄などが非常に鮮やかに配されていますが、その色の濃さが増せば増すほど、絵全体が空疎に、ようは対象の事物の気配が色に埋没して消えてしまうような気がします。近作になるほど画面は大きく、そして主題も壮大にはなっていきますが、残念ながらそれらには初期作にあった一種の力強さを見るこが出来ませんでした。さらにもう一つ付け加えると、その構成感、つまりはモチーフの配置に居心地の悪さを感じたのも事実です。「マルコ・ポーロ東方見聞行」(1976)では、それこそ東方の地を制圧して進むような彼らの姿があまりにも唐突でおどろおどろしく、また早い頃の作品ではありますが「藤原京の大殿」(1969)も、その都が大地から浮き上がって見えるような奇異な感触を、また『平和への祈り』(作品ガイドより。)を託して描かれたという「平和の祈り - サラエボ戦跡」(1996)も、背景の荒廃した街と前景の少年たちがまるでバラバラに切り離されているように見えてなりませんでした。ちなみにこのような表現であるながら、私は半ば造形美に徹した「流水無間断」(1994)の方が面白いと思います。川辺の光景をそれこそ其一風に図像化して描いたと見れば、そう居心地の悪さを覚えることもないというわけです。

あいにくの天候だったせいか、思っていたよりも会場は空いていました。11月からは、平山の出身地である広島へ巡回するそうです。

10月21日まで開催されています。(9/30)
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