「崩壊感覚」 東京国立近代美術館

東京国立近代美術館千代田区北の丸公園3-1
「崩壊感覚」(常設展示 ギャラリー4)
8/18-10/21



「崩壊するもの」(*1)のイメージを、洋の東西を問わず20名の作家、計45点の作品にて探ります。小品中心ではありますが、いつもの『ギャラリー4』の展示と同じように充実していました。見応えは十分です。

構成は以下の通りです。

1、「解体する世界像」:戦争による破局と、その後の世界。ピカソ、クレーなど。
2、「自然と人工物のせめぎあい」:遺跡、廃墟のイメージ。風化されたもの。荒木高子、斎藤さだむ。
3、「溶け出す自己」:心理的な意味での崩壊。駒井哲郎、吉田克朗ら。
4、「記憶・建築・写真」:過去の時代を呼び覚ます建築物。石内都、中川政昭。
5、「カタストロフィとの遭遇」:未曾有の災害。阪神大震災など。宮本隆司ら。



それぞれの内容については会場での小冊子を見ていただきたいのですが、トップバッターのクレー「破壊と希望」(1916)からして魅力的な作品が続いています。無数の線が半ば殺伐した感にて錯綜する空間の中を、まるで怪物のような人物が浮き上がっていますが、上空には淡い色彩による星も瞬いていました。これは、クレーが一次大戦後の世界をキュビズムの手法によって表現したものだということですが、煌めく星に託された未来への希望を見る作品なのかもしれません。

 

「2」のイメージでは、一台の自動車が風化して、それこそ今にも自然にのまれようとする様を捉えた斎藤さだむの「草(木)」(1988-97)、そして同じく草木が今度はしおれて生命力を失い、単なる事物と化した野見山暁治の「枯れた葉」(1971-72)などが印象に残りました。また風化、廃墟を連想させるものでは、「4」のセクションから、いわゆる赤線地帯の廃墟を写真に収めた石内都の「連夜の街」(1978-80)シリーズも見入る作品です。その荒れ果てた建物に、かつての賑わいと、一種の艶の残滓を見るような気がしました。ここには確かに過去の記憶と、今まさに消えて行く『崩壊』の過程が記録されているようです。



事物ではなく、人の崩れ去るその瞬間を描いたような駒井哲郎の「崩壊感覚」にも心打たれます。まるで激しい風雨のような線描に襲われているのは、一人の人間の姿でした。それはもはや人であることを確認するのが困難なほど崩れ、そして溶けてさえいますが、ここにもがくような苦しみと、この激しき流れに逆らって何とか生きようとする力を見出すことも出来るでしょう。ちなみに人の『崩壊』を示す作品としては、「5」で見る阪神・淡路大震災後の神戸を記録した宮本隆司の「神戸1995」(1995)も同一です。折れ曲がった電柱や、くしゃくしゃになってしまった建物群は単なる『廃墟』ではありません。かの時間に、この場所で生きていた一人一人の記憶を辿るべきなのです。



エルンストの素晴らしい一枚が展示されていました。これを見るだけでも行く価値のある展覧会だと思います。

10月21日までの開催です。おすすめします。(9/30)

*1 観る者の郷愁を誘う打ち棄てられた建物、戦争や災害による破局の光景、時間の経過とともに風化し、朽ちていく物質の姿など。(展覧会小冊子より。)
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