「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」 千葉市美術館・市民美術講座(Vol.1)

千葉市美術館(コレクション理解のための市民美術講座)
「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」
9/29 14:00~
講師 松尾和子(美術館学芸員)

参加してから約一ヶ月も経ってしまいましたが、内容を以下に記録しておきたいと思います。千葉市美術館の市民美術講座、「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」です。講演では、まず抱一の作品をスライドで紹介し、その上でタイトルにもある、彼が200年前に行った「光琳百年忌」の話へと移っていきました。Vol.1では前半部、つまりは抱一の系譜、及び作品紹介の部分をまとめてみます。


酒井抱一の系譜

1761年 姫路藩主酒井雅楽頭忠恭の三男忠仰の次男として、江戸神田小川町の酒井家別邸にて生まれる。本名、忠因(ただなお)。
1772年(12歳) 兄忠以が家督を継ぐ。
1782年(21歳) 兄に同行して初めて上洛する。また9月、初のお国入り。
1790年(30歳) 忠以急逝。甥の忠道が家督を継ぐ。
1797年(37歳) 出家。法名、「等覚院文詮暉真」。
1809年(49歳) 下谷根岸大塚村に転居。「鶯邨」号を用いる。
1815年(55歳) 光琳百年忌。法会、遺作展を開催。
1817年(57歳) 庵居に「雨華庵」と命名。この頃より次々と主要作が生まれていく。
1819年(59歳) 妙顕寺の光琳墓の修復に着手。
1828年(68歳) 雨華庵にて没。築地本願寺に埋葬される。


代表作一覧



・「松風村雨図」(1785)
 最初期の浮世絵。渋めの色遣い。(=「紅嫌い」と呼ばれ、この時期に流行した。)
 酒井家に伝わる作品。兄忠以の着物と同じ衣の巻物が用いられている。

・「美人蛍狩図」(1788)
 涼を求めて佇む女性。豊春風。完成された画風である。



・「立葵・紫陽花に百合図押絵貼屏風」(1801)
 初めての光琳風の作品。立葵に見るたらし込みの多用は乾山風でもある。
 これより「抱一」の号を使うようになった。

 

・「絵手鑑」(文化、文政期。1804~1829)
 全72図の画帖。(一種のアルバム。)表紙、箱の内書きも本人の直筆。
 谷文晁風の山水画、南宋画の花鳥画などの影響が顕著。
 若冲の拓版画「玄圃瑶華」に倣う。(全11図)
 →拓版画のモノクロを彩色のカラーに置き換えている。また若冲画に見る一種の『穴』を塞ぐなど、抱一らしいアレンジも見られる。(図版左抱一、右若冲。)

・「四季花鳥図屏風」(1816)
 鮮やかな金屏風に、四季の花や鳥を明晰なタッチで描いている。たらし込みは少ない。



・「四季花鳥図巻」(1818)
 全2巻。四季花鳥図屏風で見せたメリハリのある描写はなく、柔らかく、また流線型を多用した優美な感覚にて四季の花鳥を描いている。非光琳的。

・「三十六歌仙図色紙貼付屏風」(文化、文政期。1804~1829)
 酒井家に伝わった名品。
 描かれた絵の上に色紙を貼ったのではなく、あくまでもはめ込まれた形にて配されている。(=色紙の下は余白。)
 高価な金と純度の高い顔料が用いられている。
 →酒井家関連の慶事に使われたのではないか。



・「老子図」(1820)千葉市美術館蔵
 千葉市美術館のコレクションでも人気の作品。(ボランティアの人気投票で上位を得たこともあり。)
 老子引用の画賛が書かれている。
 「鶴の足が長いからといって切ろうとするのはまずい。」
 →自然のものにはあるがままの姿があるのだから何事も本来のままが良い。
 *「抱一」(=自然のままであるもの。)号も老子からとられたのではないかと言われている。



・「夏秋草図屏風」(1821~1822)
 抱一の代表作。
 光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描かれている。注文主はその所有者の一橋家。
 →夏草=雷神、秋草=風神
 近年下絵(出光美術館蔵)も発見され、作品研究が大いに進展した。
 長らく原形をとどめていたが、解体修理された昭和49年に風神雷神図と切り離された。
 秋草の「すだれ効果」=葉の裏に隠れる花々。すかして百合を見る趣向。

・「蔓梅擬目白蒔絵軸盆」(1821)
 抱一の意匠、原羊遊斎の蒔絵。
 梅の木に目白が二羽の構図。余白を用いて蔓を大胆に配している。光琳的なデザインではない。
 神田の材木商のために制作された。

・「十二ヶ月花鳥図」(1823)
 掛軸装で4種確認されているが、中でも三の丸尚蔵館所蔵の作品が高名。
 季節感を平易な描写で親しみ易く示す。=「抱一様式」 

・「羅生門之図」千葉市美術館蔵
 千葉市美術館に近年寄託された作品。
 即興的なタッチで羅生門を描く。(=注文主の前で描いた可能性もあり。)
 八百善(江戸一の料理屋。抱一と関係が深く、八百善の紹介された冊子「江戸流行料理通」の表紙には彼の絵が掲載されている。)に代々伝わっていた。

前半部は以上です。本題の前振りということなのか、突っ込んだ話は殆どありませんでした。メインの「200年前の展覧会=光琳百年忌」については、次回Vol.2のエントリでまとめます。

*関連エントリ
「酒井抱一 - 200年前の展覧会 - 」 千葉市美術館・市民美術講座(Vol.2)
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )