「渡辺豪 鏡面 face」 ARATANIURANO

ARATANIURANO中央区新富2-2-5 新富二丁目ビル3階)
「渡辺豪 鏡面 face」
9/15-10/20



真っ白な展示室に浮かび上がっているのは、全く無個性で非人格的とも言える「顔」のアップでした。銀座、京橋界隈よりもほど近い、新富町のARATANIURANOで開催中の渡辺豪(1975~)の個展です。

ともかくあまりにも端正なために、かえって不気味にも見えてくる女性のポートレートが強く印象に残ります。それらが大きなライトボックスの中で、前に立つ鑑賞者など視界に入っていないかのように、淡々と目を見開きながらただ存在していました。また肌の白さだけは現実的でありませんが、その質感や眉毛の生え際に唇の皺、それに瞳孔の網膜などは、実在の人物を静止画像として映し出したものと思うほどリアルに出来ています。まるで今にもこの大きな目をまばたきして、口を開けて動き出すかのようです。

実際にこの顔は、渡辺がCGで作成(ただし皮膚だけは実物の画像を加工しています。)してデジタルプリントに起こした作品です。だからこそ、その無表情でかつ生気のない面持ちも納得出来るというものですが、さらにしばらく眺めていると、その顔がまるで近未来の人間の姿を予兆しているようにも思えてきます。白く、それこそ無菌室にでも浮いているような無意思的な顔は、人の動物的な部分が完全に喪失されているのです。

隣室の短い映像作品も見逃せません。こちらはCGで象られた女性が、まるで紙細工の人形を解体していくかのようにバラバラになる過程が映し出されています。目がポンと飛び出して肩が崩れ落ち、足が折れ、最後にはたんなる面と線だけに還元されていきました。

今月20日までの開催です。(10/13)
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「吉澤コレクション 伊藤若冲『菜蟲譜』」 佐野市立吉澤記念美術館

佐野市立吉澤記念美術館栃木県佐野市葛生東1-14-30
「吉澤コレクション 伊藤若冲『菜蟲譜』」
9/29-11/11



1999年、約72年ぶりにその所在が確認されたという伊藤若冲の幻の名作「菜蟲譜」を公開します。「関東の文人画展」と併催の「吉澤コレクション 伊藤若冲『菜蟲譜』」へ行ってきました。



一巻の画巻である「菜蟲譜」の長さは何と全11メートルです。よって作品はスペースの都合上、期間を入れ替えて半分ずつ紹介されていました。

現会期中に出ている前半は、わらびにはじまり、トウモロコシ、棕櫚、そして茄子などへと続く、約100種類もの野菜、果物の部分です。それらがうす塗りの墨で覆われた絹地にのびやかに配されています。さすがに見応えは十分でした。



まず一見して感じたのは、各モチーフがそれこそ「動植綵絵」のような、複雑怪奇な構図と細密極まる線の集合によって出来ているのではなく、むしろ逆に、柔らかな線を多用しながら、軽妙洒脱に、半ば可愛らしささえ感じる雰囲気で統一されているということでした。

ただもちろんそれでいても例えば葡萄には、鹿苑寺障壁画の「葡萄小禽図」を連想させる部分があるなど、他の作品でも見る若冲らしいデフォルメと遊び心に満ちた表現を認めることが出来ます。

野菜をたんに写実ではなく、あたかも擬人化するかのように愛情をこめて描くのがまさに若冲の真骨頂です。その意味では、図版で見る限りではあたかも「池辺群虫図」のような動きもある後半部の方がより楽しめるのではないでしょうか。(野菜から蝶が宙へと飛び立ち、視点を変化させて一気に虫の世界へと進む箇所などは実に見事です。)

これからのお出かけを予定されている方には、今月21日からの後期展示もおすすめします。(後期部分展示:10/21~11/11)





冒頭の立派な題字を記したのは、大阪で書家として活躍し、若冲とは禅を通しての友人関係にあった福岡撫山です。もちろん彼はこの作品の注文主としても知られていますが、おそらくは撫山の招待を受けた若冲が、そのお礼として描いたものではないかとも考えられています。

また前期展示では直接見られませんが、巻末の跋文も、当時大阪に住んでいた漢詩人、細合半斎の作です。つまりはともに大阪で活躍していた両人が、この作品の両端を挟むという形になっています。

以下は、この日の講演会で美術学者の河野氏が推論として提示していた話ですが、この作品を描いた頃の晩年の若冲は、ある種の大阪文化圏、つまりは当時(18世紀末)の大阪で文人画家や本草学者としても名高く、また出版なども手がけていたマルチな才人、木村兼葭堂(1736~1802)の文人サークルと深い交流があったのではないかということでした。

また「菜蟲譜」とそのサークルなどを通じて入ってきた本草学との関係も深く、例えば中国・明の時代に描かれた図巻、「花鳥草虫図鑑」のモチーフには、「菜蟲譜」と共通した特徴をあげることも出来ます。

作中に登場する野菜や果物というと、若冲の家業であった青物問屋との関係も頭に浮かぶところですが、実際に「菜蟲譜」を描く際に彼が影響を受けていたのは、これらの交流より受容していた中国の画なのかもしれません。

「菜蟲譜」がこの葛生の地で発見された当時、地元では「国宝級の発見。」として大きく湧いたこともあったそうです。(そもそもこの美術館が出来たのも「菜蟲譜」が発見されたからでした。)

また発見の翌年、2000年に京都国立博物館で開催されたかの伝説的な「若冲展」では、この作品が目玉としてチラシ表紙の一部も飾っています。これ一点のために、わざわざ佐野まで足を運ぶ方も少なくないのというのも決して誇張ではないかもしれません。

当面、館外に「菜蟲譜」を出品する予定はないそうです。若冲ファンにとって是非一度見ておきたい展示であるのは間違いありません。

11月11日まで開催されています。

前期(前半、野菜・果物部分):9/29~10/20
後期(後半、小動物部分):10/21~11/11

*関連エントリ(同時開催中の企画展)
「関東の文人画展」 佐野市立吉澤記念美術館
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「関東の文人画展」 佐野市立吉澤記念美術館

佐野市立吉澤記念美術館栃木県佐野市葛生東1-14-30
「関東の文人画展」
9/29-11/11



若冲の「菜蟲譜」の展示と合わせて開催されている企画展です。栃木県は佐野、葛生にある吉澤記念美術館の「関東の文人画展」へ行ってきました。

まずこの吉澤記念美術館について触れたいと思いますが、同館は2002年、当地の旧家として栄えた吉澤家のコレクションの寄託によりオープンした市立美術館です。小さな町のこじんまりとした施設ということで、一度に公開される品々は30点程度と少なめですが、その所蔵品は、江戸から近代の絵画や陶芸、そして日本画を中心とした現代絵画など約500点にも及んでいます。今回の展示では表題の通り関東の文人画ということで、谷文晁、渡辺崋山、椿椿山など全26点が紹介されていました。そのボリュームを東京の美術館にたとえれば、ちょうど泉屋博古館・分館程度といえるかもしれません。

 

印象深い作品を挙げていきます。まずは渡辺華山の流麗な墨絵「風竹図」(1838)です。即興的な感覚の笹が空間へ向って伸び、あたかも風に吹かれてサラサラという音を出しているかのような趣きある作品ですが、この日拝聴した講演会(*1)によれば画に添えられた中国・清の墨竹画家、鄭板橋の詩文にも注視すべき点があるとのことでした。というのも、この画自体が、当時華山がこの地で名主をつとめていた吉澤家の当主、吉澤松堂(1789-1866)に送ったものですが、そこに「風に吹かれる竹の葉音に民の辛苦の声を思う。」(展覧会冊子より。)という詩文が載せられています。これは要するに、民を常に考えて政に励めという一種の警句的な意味を持つ詩で、実際に松堂はこれを鑑みたのか、天保の飢饉の際、私財をなげうって救済に力を尽くしたことがあったのだそうです。またもう一つ付け加えると、後に華山は「蛮社の獄」にて体制に捕われますが、その時に松堂は椿椿山らとともに救済のための支援運動も行っています。一見、何気ない水墨画ではありますが、ひも解くとこのような当時の社会の状況も浮き上がってくる作品です。ちなみに松堂は、この「風竹図」と似た同名の作品を制作しています。もちろんそれも展示されていました。(上の画像右。左が華山。)



他に目を引くものとしては、椿椿山の写実的な花卉画、「花籠図」(1854年以前)が充実しています。まずは花びらや草木の精緻な描写に見入るところですが、そこには全く線が用いられず、(没骨法と呼ぶそうです。)色のトーンだけで艶やかな花々が巧みに表現されています。そう言えば、つい先日の泉屋博古館・分館の展示でも彼の大作が出ていました。花いっぱいの籠を上から吊るして、溢れんばかりに垂らす構図はほぼ同一です。

 

ご当地の画家としても興味深かったのは、小泉斐(こいずみあやる)の「鮎図」(1847)です。南画風の岩山の迫出した川面に鮎が泳ぐ様子はそれほど面白いものではありませんが、深い藍色を帯びた水の色みに優れた美感が感じられます。これは幕末の作品ということで、おそらくは後期の浮世絵に見るような西洋の絵具に近い染料が用いられているのかと思いますが、この鮮やかさはあまり他で見たことがありません。また、同じ鮎をモチーフとして作品としては島崎雲圃の「鮎図」(1800)も出ていましたが、こちらはそれより遡ること半世紀以上前のものであるからなのか、色合いも比較的落ち着いているように見えました。ちなみに両者とも現在の栃木県、益子、及び茂木町の出身です。こういった画家の作品を楽しめるのも、地方展覧会の魅力の一つだと思います。

「菜蟲譜」の展示については次回のエントリにまわします。11月11日までの開催です。(10/7)

*1 開館5周年記念特別講演会「関東の文人画と吉澤コレクションの近世絵画」 講師:河野元昭(美術学者。秋田県立美術館館長)

*関連エントリ
「吉澤コレクション 伊藤若冲『菜蟲譜』」 佐野市立吉澤記念美術館
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「あるがせいじ 新作展」 ヴァイスフェルト

ヴァイスフェルト港区六本木6-8-14 コンプレックス北館3階)
「あるがせいじ 新作展」
10/5-27



細密な彫刻が生み出すのは、深淵でかつ圧倒的な一種の小宇宙でした。レントゲンでは約2年半ぶりとなるあるがせいじの個展です。



彼の作品を言葉で表すのはとても難しいのですが、ともかく非常に感心するのは、どのようにすればこの薄い紙にこれほど小さな穴があき、またそれをどうやって積み木細工のように組むのかということでした。もはや直径1ミリにも満たない極小の穴ならぬ粒が巨大なビルの窓のように並び、それらが縦横に増殖して合わさって、一個の巨大な建造物のような作品を作り上げています。そして、その窓と同じくらい細密に施された影のような紋様にも注目したいところです。実際のライトによって出来る影とほぼ同化しながら、作品に巧みな立体感を生み出すことに成功しています。遠くから見るとそれらの凹凸が平面的に見えてくるのも、この影と穴が絶妙な配置で入り組んでいるからではないでしょうか。濃縮された線と面の生み出す、錯視的な面白さもまた魅力の一つです。

白い紙だけという簡素極まりない素材で作られていながら、そこより生成するのは、有機的で複雑怪奇に膨張した一個の巨大都市でした。この三次元に交わるワンダーランドへ入り込むと、それこそ我と時間を忘れて見入ってしまいます。抜け出すことは容易ではありません。

普段、画廊に親しみのない方にも是非おすすめしたい展示です。今月26日まで開催されています。(10/6)
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「鈴木理策 熊野 雪 桜」 東京都写真美術館

東京都写真美術館目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内)
「鈴木理策 熊野 雪 桜」
9/1-10/21

今年度より写美ではじまった、「国際的に活躍する中堅作家」(展覧会チラシより。)を紹介するシリーズの第一弾です。1963年に和歌山で生まれ、最近では当地の熊野を撮り続けている写真家、鈴木理策の近作を紹介します。非常に見応えのある写真展でした。



ある意味で無機的な鈴木作品の特徴をあげるのは難しいのですが、どれも全体と細部が等しく浮かび上がってくるような、半ば写真の眼でしか見ることの出来ない光景が表現されています。例えば熊野の山の滝の筋や十勝の雪原は、その水しぶきや雪の粒が一つずつが浮き上がって静止しているかのように捉えられ、緑の眩しい木々も、その生命感や風の匂いを伝えずにただ泰然とあり、群衆のうごめく火祭りもその炎の赤だけが淡々と灯っていました。モチーフは紛れもなく大自然の光景ですが、そこにある美感は、半ば抽象を見る感覚に近いようにも思います。風景写真に相応しい表現ではないかもしれませんが、その雰囲気は哲学的であるとも言えそうです。



作品に魅力があるのはもちろんのこと、それを映えさせる展示空間がまた優れていました。今回紹介されているのは、主に熊野をモチーフにした「海と山とのあいだ」と吉野桜の「桜」、それに十勝の雪を捉えた最新作の「White」ですが、それぞれがまさに一つの場を作るかのように、ようはあたかもそこへ行ったかのような体験が出来るように展示しているのです。特に、熊野火祭りに見る闇の中の炎が、そのまま暗がりの中で瞬く白い雪の粒へと変化し、さらには輝かしい純白の雪や桜の世界へと導かれる様子は圧巻でした。各々の色と光を全身で浴びながら、写真を見るのではなく入っていくかのように楽しめる展示です。インスタレーションとして見ても高い完成度を誇っています。



鈴木の写真に示された情報の量は膨大ですが、そこより受ける印象は極めて研ぎすまされた純度の高い美の結晶でした。それにしてもこの華やかでなく、ストイックに輝く桜の存在からして特異です。これだけ咲き誇りながらも、ありがちな煩さが全くありません。

「鈴木理策 熊野、雪、桜/淡交社」

10月21日まで開催されています。これは強力におすすめします。(10/6)
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「政田武史 New Paintings」 WAKO WORKS OF ART

WAKO WORKS OF ART新宿区西新宿3-18-2
「政田武史 New Paintings」
9/15-10/13

まるで小さな木片を貼り合わせて作ったレリーフのような油彩画です。政田武史の新作個展を見てきました。



ともかく印象的なのはモチーフを象るそのタッチです。政田の絵画はおそらく一種の点描画とも呼んで良いと思いますが、その一つの点は長方形をした、半ば幾何学的な面になっています。そしてその個々の面が、隣り合う面と同系統の色を介しながら、絶妙なグラデーションを描いてモチーフを構成しているのです。また、タッチの間にある小さな余白が、各々の事物を鎖でつなぐかのように緩やかに結んでもいます。表現主義を思わせる鮮やかな色遣いと剛胆なタッチでありながら、不思議と対象が今にも崩れてしまうような『危うさ』を感じるのは、この余白によるものなのかもしれません。

ジャングルへパラシュート降下する様子や、防寒着を身に付け、白い草原を群れながら進む人々の光景などの奇怪なイメージが、先述の特徴的な描写によって不気味に浮かび上がっています。その感覚は、適当なたとえではないかもしれませんが、ブラウン管テレビの映像を走査線が確認出来るほど近づいて見ているかのようです。まさに目に焼きついてきます。

今週の土曜日までの開催です。おすすめします。(10/6)
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「岩尾恵都子展」 GALLERY MoMo

GALLERY MoMo港区六本木6-2-6 サンビル第3 2階)
「岩尾恵都子展」
9/29-10/27

鮮やかなグラデーションを描く色彩の渦の中に、シュールな感覚の『風景』が包み隠されています。岩尾恵都子(1968~)の新作個展です。



まず目に飛び込んで来るのは、緑や白、それに青などがストライプ状になって連なる色彩の一種の束です。それらが画面をスパッと切り取って分割するかのように流れ、どこか不安定にも見える空間を作り出しています。その構成は、今にも色彩が絵から飛び出し、それこそ滝を落ちる水の筋のように勢い良く押し出されてくるかのようにダイナミックでした。

この半ば抽象的な画面を、ある種の『風景』へと変化させているのは、そんな絵具の流れに一体化して今にも溶けてしまいながらも何とかその姿をとどめている人やモノの存在です。上に挙げた「京の夢、大阪の夢」(2007)では、色彩によって象られた切り立つ断崖のような面の上に腰掛ける、赤い服を着た一人の人物を確認することが出来ます。そしてそのような姿を絵の中で見出した時、そこで広がる場や空間のスケールの大きさを感じながら、同時に人の存在の儚さや寂しさを思うことにもなるというわけです。

岩尾は2000年のVOCA展で大賞を受賞しています。

今月27日までの開催です。(10/6)
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「五感×LIFE」 リビングデザインセンターOZONE

リビングデザインセンターOZONE新宿区西新宿3-7-1 新宿パークタワー3階)
「五感×LIFE」
9/27-10/9



小規模な展示ではありますが、私としては初台よりもこちらの方が楽しめました。暮らしにおける「五感」をテーマにした現代アートのミニ企画展です。新宿パークタワー内OZONEで開催中の「五感×LIFE」へ行ってきました。



何と言っても一番見入るのは、ダイニングテーブルにさりげなく置かれている雨宮庸介のリンゴのオブジェです。一見しただけではまさに本物と見間違うほどに精巧に出来ていますが、良く目を凝らして見るとその一部が奇妙なほど変形していたり、また液体と化して溶け出したかのようにテーブルに張り付いています。ありふれた日常の生活に潜ませたそのシュールなリンゴの姿に、一種の驚きを覚えるような作品です。



水と炎のコラボレーション、アトリエオモヤのインスタレーションもまた美感に優れています。炎をイメージさせる羽型のオブジェを透明パイプの中で上下させる小松宏誠、そして水の入ったチューブをいくつも並べて、その中に発生する気泡にて多様な紋様を描く鈴木太朗の各作品は、それぞれ時間を忘れてのんびりと見入ってしまうような心地良いインスタレーションです。ふかふかのスポンジも敷きつめられた色彩鮮やかなテントの作品、ひびのこづえの「Dreaming」から見るそれらもまた格別でした。



東京ガスのショールームでもあるOZONEの展示と言うことで、ガスをモチーフとした尼子靖の「Flame」が会場を飾り立てています。白いフリスピー型をした支持体に、まさに青白い炎を連想する数枚の葉をつけたオブジェが、仄かな風を受けながらゆらゆらと揺らめいていました。普段見慣れたガスの炎も、アーティストの豊かな想像力を経由すればこのように新鮮な姿へと変化するわけです。

9日まで開催されています。入場は無料です。(10/6)
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「メルティング・ポイント」 東京オペラシティアートギャラリー

東京オペラシティアートギャラリー新宿区西新宿3-20-2
「メルティング・ポイント」
7/21-10/14

オペラシティらしい、空間を大胆に使ったインスタレーションが展開されていましたが、全体的に見るとかなり希求力に欠けていたと思います。開催中の「メルティング・ポイント」へ行ってきました。



さて、まずはこの「メルティング・ポイント」という聞き慣れない言葉は何なのかということですが、これは「融点」、つまりは「異なるものが同時に存在する場所であり、作品が空間や人に作用し、変化していく様子を象徴的に表した」(チラシより。)という意味で使われた言葉なのだそうです。となると、三名の作家による、各々異なった表現の「融点」を探ってみたくなるところでしたが、今回の展示からその要素を見るのは大変に困難でした。むしろあれこれ考えるより、クレジットされている三名、ジム・ランビー、渋谷清道、エルネスト・ネトの単なるグループ展と捉えれば、そう違和感なく見ることが出来たと思います。少なくとも、肩肘凝らず、それこそ『作品が人に作用する』ような体感的に味わえる展示であったのは事実でした。



目当てのネトのインスタレーション、「それは地平で起るできごと、庭」(2001/2007)が今ひとつ物足りなかったのも、この展覧会をあまり楽しめなかった要素の一つだったかもしれません。二層にわたる布状の巨大なレイヤーに、何やら洞窟のような空間をつくっていたのはいつものことでしたが、今回はネトの作品に特徴的な嗅覚と触覚に訴えかける部分がまるでありませんでした。確かに宙に吊るされたレイヤーの間の穴へ首や顔を出して、あちこち見回してみるのも悪くありませんが、もっと大きく包み込まれるような場で、例えばレイヤーを通す淡い光などを全身で感じてみることにこそネトの作品の醍醐味があるのではないでしょうか。相当のスペースを用いた展示ではありましたが、その割にはやや大味な印象が否めませんでした。(ちなみに上の画像はチラシよりとったものですが、展示作品とは全く異なります。)



個々の作品としては、紙製の装飾的なドローイング風オブジェを手がける渋谷清道に一番見応えがあったと思います。率直に申し上げると、靴を脱いであがり、巨大な壁にて遮られているまるで迷路のような展示空間にそれほどの魅力は感じませんでしたが、円やアラベスク、それに雪の結晶のような真っ白なペーパークラフトは、ペンキやアクリルの絵具の質感とも相まって、さながら一個の精巧な刺繍を見るような深い味わいがありました。出来れば、今度はこの作品だけ個別に見てみたいと思うほどです。

同時開催中の収蔵品展は、本展とは打って変わっての重厚な日本画の連続でした。どちらかと言えばそちらの方が充実していたかもしれません。

今月14日までの開催です。(10/6)
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東京国立近代美術館コレクションより (2007年9月)

先々月、東博の常設展を私の拙い写真でご紹介したことがありましたが、今回は竹橋の近代美術館のそれを挙げてみたいと思います。ちなみにこの美術館では常設展に限り撮影が可能ですが、まず先にその旨を受付に申し出る必要があります。ご注意下さい。


川上涼花「鉄路」(1912)
全く未知の作家でしたが、この閉塞感漂う構図と筆遣いには惹かれました。燃えるようなタッチにて丘を進む線路を力強く描いています。


古賀春江「海」(1929)
和製シュルレアリスム作家(と呼んで良いのでしょうか。)、古賀春江の代表作です。なかなかまとまって見る機会がありません。一度、回顧展に触れてみたいものです。


パウル・クレー「花ひらく木をめぐる抽象」(1925)
近美では数点のクレーを所蔵しているようですが、その中ではこれが一番美しい作品です。モチーフの妙はもちろんのこと、厚紙を使ったその質感も見事だと思います。


ジャン・アルプ「地中海群像」(1941)
行く度に、思わず撫でたくなってしまうようなアルプの彫刻です。見る方向、角度によってその表情が驚くほど変化します。(後ろから撮ってみましたが、この方向だと二人の男女が楽しくダンスをしているように見えませんか。)何度見ても飽きません。


須田国太郎「蔬菜」(1932)
サーモンピンクにも照る重厚なマチエールが心に迫ります。ここで見た須田の回顧展は格別でした。


中村研一「北九州上空野辺軍曹機の体当りB29二機を撃墜す」(1945)
戦争画です。今回の常設で一番衝撃を受けた作品かもしれません。モネを思わせる美しい空に見ることが出来るのは、何と錐揉みして落下する二機の戦闘機の姿でした。その美しさと画題のミスマッチはある意味で犯罪的ですらあります。


松本竣介「Y市の橋」(1943)
いつもついつい時間をかけて見入ってしまう作品です。4点確認されている「Y市」でも特に優れているのではないでしょうか。


徳岡神泉「赤松」(1956)
何となしに福田平八郎の世界を思わせます。抽象的で控えめな松林です。静寂に包まれます。


リチャード・セラ「オルソン」(1986)
ドローイングかと思いきや、シルクスクリーンの作品でした。焦げ跡のような黒い面がシャープに空間を横切っていきます。


ジュリアン・オピー「日本八景より(国道百三十六号線から見る雨の松崎港)」(2007)
オピーの新作ビデオインスタレーションです。ぼんやりと眺めるのが一番よさそうです。


マックス・エルンスト「つかの間の静寂」(1953)
「崩壊感覚」(ギャラリー4)に出ている作品です。これは一推しです。

この他、川端龍子の「草炎」などにも強く惹かれましたが、照明の写り込みも激しく、うまくおさめることが出来ませんでした。また戦前戦後の大家の作品だけでなく、丸山直文や上に挙げたオピーなどの現代アートを楽しめるのも良いところだと思います。

「所蔵作品展『近代日本の美術』」は、10月21日までの開催です。
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「崩壊感覚」 東京国立近代美術館

東京国立近代美術館千代田区北の丸公園3-1
「崩壊感覚」(常設展示 ギャラリー4)
8/18-10/21



「崩壊するもの」(*1)のイメージを、洋の東西を問わず20名の作家、計45点の作品にて探ります。小品中心ではありますが、いつもの『ギャラリー4』の展示と同じように充実していました。見応えは十分です。

構成は以下の通りです。

1、「解体する世界像」:戦争による破局と、その後の世界。ピカソ、クレーなど。
2、「自然と人工物のせめぎあい」:遺跡、廃墟のイメージ。風化されたもの。荒木高子、斎藤さだむ。
3、「溶け出す自己」:心理的な意味での崩壊。駒井哲郎、吉田克朗ら。
4、「記憶・建築・写真」:過去の時代を呼び覚ます建築物。石内都、中川政昭。
5、「カタストロフィとの遭遇」:未曾有の災害。阪神大震災など。宮本隆司ら。



それぞれの内容については会場での小冊子を見ていただきたいのですが、トップバッターのクレー「破壊と希望」(1916)からして魅力的な作品が続いています。無数の線が半ば殺伐した感にて錯綜する空間の中を、まるで怪物のような人物が浮き上がっていますが、上空には淡い色彩による星も瞬いていました。これは、クレーが一次大戦後の世界をキュビズムの手法によって表現したものだということですが、煌めく星に託された未来への希望を見る作品なのかもしれません。

 

「2」のイメージでは、一台の自動車が風化して、それこそ今にも自然にのまれようとする様を捉えた斎藤さだむの「草(木)」(1988-97)、そして同じく草木が今度はしおれて生命力を失い、単なる事物と化した野見山暁治の「枯れた葉」(1971-72)などが印象に残りました。また風化、廃墟を連想させるものでは、「4」のセクションから、いわゆる赤線地帯の廃墟を写真に収めた石内都の「連夜の街」(1978-80)シリーズも見入る作品です。その荒れ果てた建物に、かつての賑わいと、一種の艶の残滓を見るような気がしました。ここには確かに過去の記憶と、今まさに消えて行く『崩壊』の過程が記録されているようです。



事物ではなく、人の崩れ去るその瞬間を描いたような駒井哲郎の「崩壊感覚」にも心打たれます。まるで激しい風雨のような線描に襲われているのは、一人の人間の姿でした。それはもはや人であることを確認するのが困難なほど崩れ、そして溶けてさえいますが、ここにもがくような苦しみと、この激しき流れに逆らって何とか生きようとする力を見出すことも出来るでしょう。ちなみに人の『崩壊』を示す作品としては、「5」で見る阪神・淡路大震災後の神戸を記録した宮本隆司の「神戸1995」(1995)も同一です。折れ曲がった電柱や、くしゃくしゃになってしまった建物群は単なる『廃墟』ではありません。かの時間に、この場所で生きていた一人一人の記憶を辿るべきなのです。



エルンストの素晴らしい一枚が展示されていました。これを見るだけでも行く価値のある展覧会だと思います。

10月21日までの開催です。おすすめします。(9/30)

*1 観る者の郷愁を誘う打ち棄てられた建物、戦争や災害による破局の光景、時間の経過とともに風化し、朽ちていく物質の姿など。(展覧会小冊子より。)
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「平山郁夫 祈りの旅路」 東京国立近代美術館

東京国立近代美術館千代田区北の丸公園3-1
「平山郁夫 祈りの旅路」
9/4-10/21



平山郁夫の名や絵はあちこちで見聞きしますが、これほどまとまった形で作品を見たのは初めてです。初期作より最新作まで、全80点にて平山の画業を概観します。

 

ともかく見入ったのは、主に第1章「仏陀の憧憬」で紹介されていた、画業初期の釈迦をテーマとしたいわゆる『仏画』の数々でした。金も目立つ日本画の顔料をふんだんに用い、まるで刺繍のような立体感のあるマチエールにて、重みのある仏の姿をいくつも描いています。特に、背景の金箔も覗く鬱蒼とした草木に囲まれた仏を捉えた「行七歩」(1962)や、弟子の取り囲む中で釈迦の入滅した様を描いた「入涅槃幻想」(1961)は見事でした。シンボリックな白鳩の舞う空の下で、影絵のように座る弟子たちと金色に映える小動物たちが、朧げに横たわる釈迦を静かに見つめています。この描き込まれ、塗り固められた濃密極まる画面に、大観ならぬ平山流『朦朧体』が合わさった時、画題より浮かぶ静謐な雰囲気を実に効果的に伝えてくれるようです。これは素直に吸い込まれます。





さて、乱暴な括りではありますが、それ以降、70年代から近作のシルクロードの作品などはどれも今ひとつ感じるものがありません。これらは一般的に、非常に見通し感のあるワイドな構図にて、例えば当地の文物などが比較的細やかなタッチで描かれていますが、その分、私の惹かれた初期の作品に見るような『ものの重み』が殆ど失われてしまっているのです。また、まるで蛍光色を用いたようなカラーリングも、率直に申し上げればかなり苦手な印象を受けました。空の青や炎の赤、それに砂漠の黄などが非常に鮮やかに配されていますが、その色の濃さが増せば増すほど、絵全体が空疎に、ようは対象の事物の気配が色に埋没して消えてしまうような気がします。近作になるほど画面は大きく、そして主題も壮大にはなっていきますが、残念ながらそれらには初期作にあった一種の力強さを見るこが出来ませんでした。さらにもう一つ付け加えると、その構成感、つまりはモチーフの配置に居心地の悪さを感じたのも事実です。「マルコ・ポーロ東方見聞行」(1976)では、それこそ東方の地を制圧して進むような彼らの姿があまりにも唐突でおどろおどろしく、また早い頃の作品ではありますが「藤原京の大殿」(1969)も、その都が大地から浮き上がって見えるような奇異な感触を、また『平和への祈り』(作品ガイドより。)を託して描かれたという「平和の祈り - サラエボ戦跡」(1996)も、背景の荒廃した街と前景の少年たちがまるでバラバラに切り離されているように見えてなりませんでした。ちなみにこのような表現であるながら、私は半ば造形美に徹した「流水無間断」(1994)の方が面白いと思います。川辺の光景をそれこそ其一風に図像化して描いたと見れば、そう居心地の悪さを覚えることもないというわけです。

あいにくの天候だったせいか、思っていたよりも会場は空いていました。11月からは、平山の出身地である広島へ巡回するそうです。

10月21日まで開催されています。(9/30)
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10月の予定と9月の記録 2007 ( + 抱一其一記念切手)

ここ2、3日でぐっと秋らしい気候になってきました。毎月恒例の私的スケジュール帳、「予定と振り返り」です。

10月の予定

展覧会
「メルティング・ポイント」 東京オペラシティアートギャラリー( - 10/14)
「鈴木理策:熊野、雪、桜」 東京都写真美術館( - 10/21)
「谷文晁とその一門」 板橋区立美術館( - 10/21)
「BIOMBO/屏風 日本の美」 サントリー美術館( - 10/21)
「ヴェネツィア絵画のきらめき」 Bunkamura ザ・ミュージアム( - 10/25)
「没後50年 川合玉堂展」 山種美術館( - 11/11)
「関東の文人画展」 佐野市立吉澤記念美術館( - 11/11)
「開館30周年記念展1 工芸館30年のあゆみ」 東京国立近代美術館工芸館(10/6 - 12/2)
「フェルメール《牛乳を注ぐ女》とオランダ風俗画展」 国立新美術館( - 12/17)
「特別展覧会 狩野永徳」 京都国立博物館(10/16 - 11/18)
「神坂雪佳 京琳派ルネサンス」 細見美術館( - 12/16)
「現代美術の皮膚」 国立国際美術館( - 12/2)
「開館50周年 特別記念展 後期」 逸翁美術館(10/27 - 12/9)
「第59回 正倉院展」 奈良国立博物館(10/27 - 11/12)

コンサート
新国立劇場 「タンホイザー」10/8 - 24


9月の記録

展覧会
「山口晃展 今度は武者絵だ!」 練馬区立美術館 (1日)
「川瀬巴水 木版画展」 礫川浮世絵美術館 (1日)
「京都五山 禅の文化展」 東京国立博物館 (8日)
「都市のフランス 自然のイギリス/若冲とその時代」 千葉市美術館 (9日)
「仙がい・センガイ・SENGAI - 禅画にあそぶ - 」 出光美術館 (9日)
「ル・コルビュジエ展」 森美術館 (9日)
「磯辺行久展」 東京都現代美術館 (15日)
「月を愛でる」 UKIYO-E TOKYO (15日)
「インカ マヤ アステカ展」 国立科学博物館 (22日)
「BIOMBO/屏風 日本の美」 サントリー美術館(22日)
文承根+八木正 1973-83の仕事/1970年代の美術」 千葉市美術館 (29日)
平山郁夫 祈りの旅路/崩壊感覚」 東京国立近代美術館 (30日)

ギャラリー
「第2回竹ノ輪展」 幸伸ギャラリー (8日)
「森村泰昌 1985-1998」 高島屋東京店 美術画廊X (15日)
「小林正人 Light Painting」 シュウゴアーツ (15日)
「工藤麻紀子展」 小山登美夫ギャラリー (15日)
「李禹煥 展」 SCAI (22日)
「ICHIKENTEN」 藝大美術館・陳列館、正木記念館 (22日)
「金沢健一展」 上野の森美術館ギャラリー (22日)

コンサート
「NHK交響楽団第1598回定期公演」 モーツァルト「ピアノ協奏曲第24番」他/プレヴィン (8日)
「読売日本交響楽団第494回名曲シリーズ」 シューマン「交響曲第4番」他/スクロヴァチェフスキ (25日)

9月もあちこち歩きましたが、一推しとなれば間違いなくコルビュジエとBIOMBO(まだ感想が書けておりませんが…。)だと思います。後者は計7回にも及ぶ展示替えの全てを追っかけることは出来ませんが、有り難くも貴重なチケットを戴くことが出来ました。もう一度見に行きます。

栃木の佐野にある吉澤記念美術館で「関東の文人画展」が行われていますが、併催のコレクション展に若冲の「菜蟲譜」が出ているそうです。またメインの企画展にも、現在、板橋で開催中の谷文晁などの名が挙がっています。普段ならなかなか佐野まで足を伸ばせませんが、今回は嬉しいお誘いもいただけました。合わせて楽しみたいと思います。

今月のハイライトは月末に予定している永徳展になりそうです。時間に余裕のある行程とはいきそうもありませんが、ちょうど奈良博の正倉院展も始まります。上記の他、関西圏の展覧会をいくつか廻ってくるつもりです。

ところで昨日、民営化された日本郵政グループから、「民営会社発足記念」なる琳派の記念切手が発売されました。モチーフは、ともに出光美術館の所蔵する抱一の「十二ヶ月花鳥図」と、其一の「四季花木図屏風」です。江戸琳派と言えばやはり「銀地」といきたいところですが、それはさて置いても艶やかな金色に映える図柄等、実物は想像以上に良く出来ていました。ちなみに一シート、800円(80円切手10枚)です。既に完売となった郵便局も多いと聞きますが、まだ残っている所もあると思います。なるべく早めにご覧になられることをおすすめします。



それでは今月も宜しくお願いします。
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「1970年代の美術」 千葉市美術館

千葉市美術館千葉市中央区中央3-10-8
「1970年代の美術 - 『文承根+八木正 1973-83の仕事』展 理解のために - 」
9/23-11/4

一応、所蔵品展(=常設展)扱いの展示ですが、その内容は企画展に連動しています。主に「もの派」をはじめとした、1970年代の日本の現代美術の動向を見る展覧会です。李禹煥、清水九兵衛、村岡三郎などの名が挙がっていました。(全35点。)



まずこの展示で嬉しかったのは、李禹煥のドローイングが全部で9点も出ていたことでした。もちろんそれらは例えば今、SCAIで開催中の個展で見るような、ある種ストイックな美を見せる作品(近作の「照応」など。)ではなく、60年代後半から70年代にかけてのいわゆる「もの派」の系譜として語られる「突きより」(1973)や「点より」(1974)などの作品です。キャンバスへ穴を無数にあけただけの前者は、言わば作品自体が単なる『もの=紙』でしかないことを再確認もする、まさに「もの派」的意義の強い作品ですが、後者に見る美しい膠の連続した点の連なりは、李がそのような『もの』を越えた美意識を持っていることを感じさせています。

 

広々とした展示室で目立っていたのは、高松次郎の「錆びた大地」(1977)と福島敬恭の「無題1」(1979)の二点の大作でした。床に寝転ぶかのように展開する「錆びた大地」は、鉄を用いた一種の彫刻ではありますが、その幾何学的な形と、無味乾燥にも見える重々しい鉄板の物質感、さらにはワイヤーで跳ね上がったその運動などが各々観念的に浮き上がってきます。また、まるで電話ボックスの囲いような福島のオブジェも存在感のある作品です。そこに見る凹凸とカラーリングは、企画展で紹介されている八木のオブジェと共通する要素も感じられました。素材と大きさはまるで異なっていますが、このミニマリズム的な気配は同一です。



最後にあった、半ば装置ともいえるオブジェ、村岡三郎の「貯蔵 - 蝿の生態とその運動量 - 」(1972)も印象に残ります。村岡の作品は、その硬質感のある素材(鉄の箱や酸素ボンベなどを用いることもあります。)とは裏腹に、いつも奇妙な生々しさを感じることが多いのですが、今作も、作品の中で育てられたという蝿の死骸をそのままさらして、不気味な感触を漂わせていました。蝿の死とともに、装置自体の死(既に、蝿の出入りした穴は閉ざされています。)も連想させる作品です。

全体的に、文や八木と直接的に結びつく部分(例えば、八木の実家は、京都・五条坂にあった清水九兵衛のアトリエの近くにあり、八木自身も清水の作品を見て感想を残しているそうです。)は希薄でしたが、美術館のコレクションにて同時代の美術の潮流を見せるには最適な内容だと思います。一般的に、常設展と企画展は全く切り離されることも多いのですが、こうした形での展示は相互の理解を深めることにも繋がりそうです。

11月4日まで開催されています。(9/29)

*関連エントリ
「文承根+八木正 1973-83の仕事」 千葉市美術館
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