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高島市の安曇川町にある「藤樹神社」に参拝に訪れた折に「藤樹書院」と「中江藤樹記念館」で説明を聞いてようやく概要がつかめました。
「藤樹神社」は1922年に近江聖人・中江藤樹のために建てられたという神社で、中江与右衛門命(藤樹)を御祭神として祀られているといいます。
明治の学者が祀られているというのには不可思議さを感じますが、日本での陽明学の始まりとする中江藤樹の思想を慕い影響を受けた信奉者と、藤樹の出生地の安曇川町の小川村の方々の誇りによるものが大きいようです。
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中江藤樹は小川村の農家の長男に生まれたものの、武士であった祖父の養子となって100石の禄をはんだといいます。(父は武士を継がなかった)
外様大名の武士であった藤樹は鳥取県米子や愛媛県大洲へと領地替えがあった後、大洲藩を脱藩して故郷である安曇川へ戻ったといいます。
脱藩というと聞こえが悪いのですが、藤樹は安曇川に残した母の事が気がかりであり、また自分の健康上の問題(喘息)もあって脱藩を願い出ていたようですが、叶わず。
大洲藩としても有能な学者であった藤樹を手放すことに躊躇があり、また大洲藩内のお家の中のもめ事などによって藤樹の願いは叶わずやむなく脱藩したとされます。
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小川村に戻った藤樹は、酒の小売りなどをしながら生計をたて、訪れる弟子や集落の人に学問を教えていたといいますが、1648年に41歳の時に生涯を閉じる。
後述しますが、江戸時代が終焉を迎える頃、藤樹の陽明学に影響を受けた人物らが歴史を作っていく時代がやってきます。
神社の境内に入ると樹高20m・幹周4.8mで樹齢400年以上といわれる「ダマの木」が聳え立ちます。
境内にはかつて「万勝寺」という比叡山の三門三千坊の一院があったといいますが、大きな勢力だったがゆえに織田信長の兵火によって焼亡したといいます。
したがってこのダマの木は「万勝寺」の境内だったころからあったものと考えられているようです。
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「ダマの木」はずいぶんと痛みが見られるのが痛々しくもありますが、葉がよく茂っており生命力の強さを感じます。
苔むした木の根元にはいつの時代のものか地蔵石仏がひっそりと安置されていました。
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ダマの木の横には「庚申塔」という江戸時代の石造品があり、舟形光背の中には「見ざる・聞かざる・言わざる」の三匹の猿が陽刻されています。
“見ざる”は読み取れますが、“聞かざると言わざる”は劣化していて確認しにくい状態になっています。
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さて神社に戻って...。参道には2つ目となる中鳥居があり、奥には拝殿が見えます。
本殿へは横から回ってお参りすることになりますが、道は枯山水の砂紋のような箒目があり、毎日整備されているかのように乱れの少ない状態でした。
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本殿を拝所から拝み神社を後にしましたが、神社の御利益は学問の神として祀られているため、絵馬などには合格祈願の願いが書かれたものが多く見受けられます。
神社の創建には渋沢栄一が多大な寄付をすると共に、藤樹神社創立協賛会顧問に就任して財界知己への寄付の呼びかけを行ったといいます。
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神社の境内には「中江藤樹記念館」がありますが、まずは「藤樹書院」へと向かいます。
藤樹書院は故郷・小川村に帰った藤樹が開いた私塾で、かつて庭に大きな藤の木があり、その木にちなんで藤樹の名で呼ばれたのだといいます。
当初あった書院は1880年の大火で焼けてしまい、現在の建物は1922年に建てられたもので国の史跡に指定されています。
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陽明学は、元は孔子の儒教から派生したもので、日本には儒教から派生した朱子学が江戸時代に採用されたといいます。
朱子学は身分差や上下関係などの序列を重要視した一面があったといいますから、統治する側からは秩序を保てる体制作りに役に立ったのでしょう。
対する陽明学は、知の積み上げという面を持つ朱子学とは違って、心ありき・心を磨くことを大事にし、学びと行動が一致することを重要視したといいます。
その行動力ゆえに権力者には疎まれて迫害を受けることもあったといい、陽明学に影響を受けた人物としては大塩平八郎・吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛・佐久間象山など歴史の変革者が多くみられます。
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藤樹書院に着いた時はまだ時間が早く閉まっていたのですが、係の方がすぐに開けますということで開けてもらって中へ入れせてもらいました。
係の方からは約1時間に渡って説明をしていただき、また隣にある施設の「良知館」でもお茶を飲みながら説明を続けていただきました。
かなり詳しく説明していただけたので、分からなかった陽明学や藤樹の事がずいぶん理解出来るようになったのは実にありがたかった。
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驚いたのは藤樹書院の中に位牌を並べたような祭壇があったことです。
聞くと、これは「神龕(がん)」といい、儒教のしきたりでお祀りするものだそうです。
仏教での位牌より早くからあったといい、学問的な要素の強い儒教にも宗教的な側面があるのは意外なことでした。
「神龕(がん)」の蓋を外すと中に名前が書かれていて棺桶のようになっています。
「祭式」という行事の時には海山の幸を供えて祭典が行われるといい、神龕の横に開けられた穴から魂が抜けて、魂が訪れるといいます。
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祭壇の上に掛けられた扁額は、寛政8年に光格天皇より藤樹書院に対して下賜されたもので、金箔の残る額の字は右大臣・藤原忠良の筆になるもの。
平成から令和に代わる時に論議のあった生前退位は記憶に新しいところですが、最後に生前退位した天皇が光格天皇だったことから名前に聞き覚えがある方もおられるかと思います。
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「藤樹書院」の書は、九州肥後細川藩の老臣・三淵家の養嗣子の分部昌命が贈ったものといい、その後も細川藩当主の直系である細川護熙さんも藤樹書院を訪れて見事な書を送られています。
中江藤樹の教えには「五事を正す」として「貌(顔つき)」「言(言葉づかい)」「視(まなざし)」「聴(よく聞く)」「思(思いやり)」があります。
人が当たり前のことが当たり前に出来ないのは今も昔も同じなのでしょう。
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最も印象に残ったのは「到良知」の透かし彫り。
「到良知」は“人は誰でも良知という美しい心を持って生まれてくるが、次第に醜い欲望の心が起きて良知を曇らせてしまう。
欲望に打ち勝って鏡のような良知を磨き、正しい行いをするのが大事”という。
近年では儒教や陽明学発祥の中国から訪れる方が多いそうで、中国から入ってきた儒教思想を日本から逆輸入している現象が起きているといいます。
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藤樹書院から藤樹神社までの帰り道に、玉林寺という寺院の境内外にある中江藤樹のお墓にも立ち寄りました。
藤樹は儒教の方ですから寺院の境内内ではなく、境内外の敷地に墓標があります。
変わっているのは、墓石の後方に小山が盛られているところで、これは儒教式だということです。
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最後に訪れたのは「中江藤樹記念館」でしたが、ここでも約1時間ほど館内の説明をしていただけました。
こちらにも中江藤樹の生涯を示す史料が豊富に保管されており、大塩平八郎の文書など珍しいものが多く展示されてありました。
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「藤樹書院」で“これだけの資料があるのですから入館料を取ったらいかがですか?”と聞くと、これまで集落で守ってきたと自負している長老たちが許さないだろうと言われていました。
藤樹書院は14名ほどのボランティアが年中無休でお世話にあたられ、説明をされている方の他にも砂紋を直されている方、草木の手入れをされている方の姿があります。
この地の方が如何に中江藤樹を敬愛されているかがよく伝わってきます。