昨日速谷神社において新春に飾る注連飾りと注連縄つくりが地域の氏子達によって行なわれた。
稲藁のあくた取り、木槌で藁打ちなどの下準備から垂れ注連飾りと3人がかりで大小4本の注連縄、注連飾り小物や注連小縄などを分担して作製した。
昨日速谷神社において新春に飾る注連飾りと注連縄つくりが地域の氏子達によって行なわれた。
稲藁のあくた取り、木槌で藁打ちなどの下準備から垂れ注連飾りと3人がかりで大小4本の注連縄、注連飾り小物や注連小縄などを分担して作製した。
昨日紹介した明石地区の「立太子礼紀念奇巌塔岩」案内碑の脇に注連柱(しめばしら)がみられるが、この付近には神社は無く遠く離れた直線距離で約530m先にある明石大歳神社のものとみられる。
この注連柱は昭和2年(1927)に氏子達によって建立されたようで四字熟語の「五穀豊穣」「万民快楽」と刻されている。
明石地区の旧県道沿いに「立太子礼紀念奇巌塔岩」案内碑が建立されている。野貝原山にある塔岩への案内碑で「是ヨリ北約十五丁」とある。
昭和天皇(迪宮 裕仁親王)が大正5年(1916)11月3日に皇太子を継承する立太子礼の奉祝記念として地元の人達によって建立されたようである。
旧ナタリー沖の船上から見た屏風のように林立する高層マンション群で、対岸の宮島からも良く見える建造物である。
宮島の対岸の大野地区は「宮島・大野景観指定地域」とされて「景観の保全誘導や創造に積極的に取り組んでいく」と定められているようである。宮島の歴史的景観に似付かない都市景観と混在している地域である。
少しばかり椎茸栽培をしており我流であるが自家用に足りるくらいの椎茸が出来る。しかし次第にほだ木が腐食していくので毎年ほだ木を少しずつ補充している。
先日どんぐりの木(クヌギ)を伐採してほだ木を作ったが今年は少し多めになった。2月から3月ごろに種菌を埋め込む予定である。
以前紹介した松本切葉地大根で特徴のある切れ込みの深い葉と根の形は尻詰まりの形であるが片方のものは面白い奇形となったものである。
この大根は信州松本平地域で栽培されて漬物用にするようであるが大根おろしにすると強烈に辛くて繊維が硬く家族は見向きもしなかった。
ちゅーピーパーク南側駐車場ゲートの東側JR線路沿いにかつてのチチヤス牧場入口の門柱が残されている。 国道から山陽本線踏み切りを渡ってすぐの両側に門柱が建っていたが、踏切りが廃止となって陸橋経由と入口が変わっており現在は片側のみ残されている。
速谷神社斎館の脇に「立太子礼奉祝記念樹」碑が建立されており、隣接の樹木がその記念樹かは定かでない。
昭和天皇(迪宮 裕仁親王)が大正5年(1916)11月3日に皇太子を継承する立太子礼の奉祝記念樹として佐伯郡役所が植樹したもののようである。
時折宮島SAスマートICへのアクセス道路の拡幅について紹介しているが、現在市の関係する部分の一部が完了したようである。
画像は上り線部分の完了した工区であるが先端部の向う側はこれからであり、手前の県の関係する部分は現在土地買収中であり完成は相当先になるのであろうか。
元国立病院機構原病院時代に福利厚生施設として使用されていたテニス場跡でコートのライン跡がかすかに見え審判席が残されている。
現在ビニールハウスが設けられて何かが栽培されているようであるが、国の施設にはこのような優遇された福利厚生施設が整っていたようである。
原地区にあった元国立病院機構原病院の跡は現在老人保健施設ふれあいライフ原となっている。
入口にはかつての大きな門柱があり国立病院機構原病院、広島県立原養護学校と銘板が残されているが、現在それぞれに跡地の銘板が取り付けられていた。
以前紹介した佐伯区三宅の円明寺境内にある任(仁)助法親王宝篋印塔の前面に廿日市須賀町の住民が寄進した水鉢がみられる。
任(仁)助法親王宝篋印塔は元文2年(1737)に建立されており、この水鉢は宝暦9年(1759)に建立されている。どのような関わりがあって須賀町住民が建立したものかは定かでない。
折敷畑山~野貝原山を縦走した途中のつれづれを紹介している間に緑の山であった野貝原山系は紅葉して錦の山となった。
上平良地区から野貝原山を遠望すると山頂部にあるのうが高原ホテルの廃墟とアンテナの3本をみることができる。
旧レジャー施設のうが高原時代の周遊道路から泉水峠に向かう山道付近で植林地の間伐用の林道が重機で造られていた。山道が間伐用の林道に掘削されているので山道はどこだろうかと一瞬戸惑った。
山陽道側道から登り折敷畑山~野貝原山と縦走してここから川末に向かって下り自宅まで帰ったのであるが、日ごろの運動不足か表題のようにぶらりとはいかなかった。