hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

柚月裕子『チョウセンアサガオの咲く夏』を読む

2023年05月09日 | 読書2

柚月裕子著『チョウセンアサガオの咲く夏』(2022年4月6日KADOKAWA発行)を読んだ。

 

「佐方貞人」シリーズ、「孤狼の血」シリーズや、『盤上の向日葵』『慈雨』など数々のベストセラーで知られる柚月裕子。各種メディアへ発表した13年間の短編11編を集めた初のオムニバス短編集。

 

「チョウセンアサガオの咲く夏」

40歳過ぎの三津子は、認知症で寝たきりになった72歳になる母の芳枝を介護していた。もっぱら母を介護するだけの日々を送っていた三津子は、母の具合が悪くなると、かかりつけ医の平山がやってきて三津子を褒めたたえる。いつのまにか、賛辞が欲しくて、母の体調が悪くなることを……。
思い返すと、子供の頃、三津子はよく事故にあって、母が抱きかかえて平山のもと駆けつけて来ていた。(代理ミュンヒハウゼン症候群)

 

「泣き虫(みす)の鈴」

12歳の八彦は豪農で16人の奉公人がいる本多家で奉公している。いつも年長の正造にいじめられて、隠れて泣いていて、そんなときは母から唯一もらった鈴を鳴らして慰めていた。
ある日、旅の女芸人で目が不自由な瞽女(ごぜ)がやって来た。母親位の親方のハツエと、わずかに目が見えるトヨと10歳のキクだ。夜中、正造たちが3人の女をおそい、気づいた八彦は…。
「でも、どうしても泣きたくなったらこの鈴さならせ。おめえの代わりに泣いてくれる」

 

「サクラ・サクラ」

浩之は勤めている会社が外国企業に買収され、外国人上司に事あるごとに無能呼ばわりされ、自信を失っていた。休暇をとっていたパラオ共和国のペリリュー島には「ペリリュー神社」と日本語で書かれた鳥居と祠(ほこら)があり、現地の老人が、さくらの歌を歌っていた。
第一次大戦後、パラオは日本の委任統治領になっていたが、太平洋戦争がはじまると、重要拠点となり日本は統治に力を入れた。米軍が上陸する二日前、島民代表は日本軍に加わりたいと申し出た。日本軍守備隊長は……。その後、司令部から本土に「サクラサクラ」の暗号電文が送信された。

 

「お薬増やしておきますね」  精神科医の杉山鈴子はすっかり医師気取りの患者と話を交わす。

 

「初孫」「原稿取り」「愛しのルナ」 

 

「泣く猫」

真紀は警察から連絡を受けて17年も会っていない母・紀代子の住んでいたアパートに向かった。母は20歳で真紀を生み、55歳で死んだ。男ができると娘を捨てて、男と別れると児童養護施設に娘を引取りに来た。
香典を持って訪れてきた店で一緒だったというサオリが「弔問客なんて来ないだろう」、「あっ、大切なお客さんがいることを忘れていた。ごめんね」と言う。猫だった。泣き続ける猫。サオリは「あんなに可愛がられたマキが泣くのは当然でしょう」と言った。

 

「影にそう」「黙れおそ松」 

 

「ヒーロー」 シリーズの主人公・佐方検事の事務官・増田の高校の柔道部の親友の話

 

 

私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで、最大は五つ星)

 

柚月裕子ファンなら、初めての短編集は読まざると得ないだろう。

しかし、冷静に見ると、平均的でごく普通の短編集だ。

 

「泣き虫の鈴」「サクラ・サクラ」が泣かせるが、あざとい技が気になる短編もある。

「初孫」「原稿取り」のようにどこかで読んだような話もある。「黙れおそ松」のようにふざけすぎの話もある。

 

 

柚月裕子の略歴&既読本リスト

 

 

ちなみに、チョウセンアサガオ(別名エンジェル・トランペット)は我がブログにも7回ほど登場した。

本書の表紙にもあるが、こんな花だ。

2009年11月

2021年9月

 

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4月(4)の散歩

2023年05月08日 | 散歩

 

フレンチラベンダー。濃い紫の花穂の先についている薄紫の花びらにもみえるものは葉だという。 そんなこと言われて、じっと見ていると何か昆虫にも思えてきて、不気味。

 

ウスベニアオイ。花はハーブティになり、レモンを浮かべるとピンク色に変色するので人気という。

 

ジャーマンアイリス。

 

アザレア。ツツジ科ツツジ属で、西洋ツツジの別名もあるらしいが、葉も違うし、似てる?

 

シャクナゲ(石楠花)

 

てんこ盛りのツツジ

 

そびえ、覆いかぶさるモッコウバラの大株。

 

葉はバラのようですが、Google Lensは「フヨウ属」とおっしゃっています。札は、撮影禁止でなく、駐車禁止。

 

こちらは間違いなくバラです。「スープニールドゥ アンネフランク」

 

黄色いバラ。

 

いずれも私には、バラとしかわかりません。

 

ピラカンサ。以前赤い実がなっていました。

 

「ドトール」で一服。

 

ここはスタバと違って長時間利用は禁止。

 

私はアップルパイ?

 

相方は、ミルフィーユ……。

 

7千歩の散歩もここで疲労回復。しかし、ダイエット効果は一瞬で雲散霧消どころかおつりがたっぷり。

 

 

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我が食卓の歴史 

2023年05月07日 | 個人的記録

 

1940年代(小学校入学まで)

食事に使っていたちゃぶ台は、丸テーブルの四隅の足を折りたたむことができて、使わない時は部屋の隅に立てかけてあった。食事は八畳間で、父は床の間の前、母は台所側、私は母の向かいの廊下側に座った。出てくるのはスイトン、グリンピースが多く、たまに出てくる薄い雑炊にも米はほとんどなく、筋張ったさつまいもが幅をきかせていた。まれに登場する米飯は、細長く、パサパサし、小石混じりの外米だ。当時を考えると、母は大変だっただろうが、私はともかく毎日腹ペコだった。

 

1950年代(高2まで)

居間の掘りごたつの上が食卓になった。お米は米穀手帳による配給米で、布団でくるんだお櫃(ひつ)から茶碗に移すご飯は今思うと美味しいものではなかった。ある日、珍しく肉が少しだけ登場した。あっという間に食べてしまった私を見て、母が言った。

「何かお腹が一杯になっちゃったわ。俊ちゃん、これ食べてくれる?」

母が腹一杯でないことぐらいはわかっていたが、つい箸をのばした。

飯と味噌汁と煮魚など主菜の3品だけの食事がほとんどだったと思う。

 

1960年代(高校、大学、就職)

父母共に年とっていたので、煮物など年寄食だった。それがいやで、何かというとアルバイトで得た金で外食して、やたら脂っこい唐揚げをよく食べた。ひどい油なのにと、今は思うのだが。

新宿へ出た時は西口のたそがれ横丁の鯨カツ屋へ寄った。ある日、カウンタで食べていると、階段をカッカッと勢いよく登って来て、大きな声で「鯨カツ一丁!」と声を掛けた女性がいた。いなせな女性に惚れそうになった。

 

1970年代(結婚)

社宅のダイニングキッチンにあるテーブルと椅子で二人向かい合って食事した。おなじみのない料理が出て来て楽しみだったのだが、新聞ばかり見ていて、具体的に覚えているのは安く水っぽい西友豆腐ともやしが多かった。ともかく金がなく、女房には苦労をかけた。

 

1980年代(母と同居し息子誕生)

テーブルに四脚の椅子が並び、3人共に幼い息子を見て、何やかやと話題にしながら食事が進んだ。メニューは3世代を揃えるのは無理なので、子供向けと中高年向けの2種類になった。母が90歳を超えた頃からは3種になった。

 

1990年代(2.5人の頃)

母がいなくなり3人になったが、我々夫婦も年寄り食を好むようになり、息子は別メニューのままになった。やがて大学へ進んだ息子は朝食べずに出かけ深夜帰宅することが多くなり、食卓を共にするからこそ家族なのにと思うようになった。

 

2000年代~今日まで(2人に戻り)

そして息子は結婚し家を出て、5人座れるテーブルに2人だけになった。ヤル気がでないためか、品数はわずかで簡単な料理が並ぶようになったが、私もアッサリ食、少々で満足するようになった。

食事の支度が遅くなり、そして辛そうで、「私に定年はないの?」と嘆く相方に、考えて見ればそれもそうだなと、昼飯は暇な私の分担になった。
やがて、TVをのんびり眺めている私の傍で、一人でバタバタと夕飯の支度する相方の気持ちが、50年経ってようやくわかるようになり、夕飯の下ごしらえなどを手伝うようになった。「二人ですると早いのね」と少し楽しそうな様子に、「確かに料理って、話しながらするものかもな」と思うこの頃です。

「今が一番幸せな時なんじゃない」と、いつでも思う私は、家族に恵まれてきて、能天気のままとなりそうなのです。

 

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4月(3)の散歩

2023年05月05日 | 散歩

 

杉並区松庵の「松庵梅林公園」へ行った。

案内板によれば、

松庵はかって茅(かや)の生えた原野で、幕府御用の茅刈り場だったが、江戸の大火で茅葺(かやぶき)屋根が禁止されたため、寛文年間(1661~1672年)に松庵新田や松庵村として開村された。

村は、五日市街道に接する間口が36mで、奥行き450mの短冊状に地割され、名主に2区画、開拓民に1区画与えられた。

松庵梅林公園は所有者(多分窪田氏)の厚意により2022年に開園した。

ちなみに、松庵神社の傍らの看板には、江戸時代に松庵という医者がいたので松庵の地名となったという説もあると書いてあったような記憶がある。

 

何もない公園に見えるが。

 

(ボランティアの?)花咲かせ隊が常に花壇を花いっぱいにしている。

 

こちらには、ずらりとツツジ。

 

名札には「ヒトツバタゴ」とあったが、調べると「一つ葉田子」で、別名「ナンジャモンジャノキ」。

 

子供や大人用の運動器具がいろいろ設置されている。

 

トランポリン? 幼児と年寄りは禁止。

 

手前はぶら下がり健康器?

 

馬鹿にしていたが、しっかりつかまっていないとふらふらして結構危ない。

 

手と足でジャングルジム?

 

 

以下、散歩中の花々。

アザレアとのお告げ。

 

クンシラン

 

コデマリ

 

キンギョソウを中心とする花壇

 

これでもかとばかりのモッコウバラ。

 

そびえるシャクナゲ。

 

白い花がちらりとしかないドウダンツツジ。

 

大きなハナミズキ

 

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8年ぶりのラトリエ・デュ・グー

2023年05月04日 | 食べ物

 

吉祥寺エクセルホテル東急の裏通り(西一条通り)のルミナス吉祥寺1Fにある「ラトリエ・デュ・グー(L'atelier du gout)」でランチした。

以前は良く行っていたのだが、我がブログを検索すると、前回はディナーだが、2015年8月なので8年ぶり。

今回は、木曜日の11時半。予約なしで最後の席に滑り込んだ。

 

安くて美味しいこの店は狭いのだけが欠点で、コロナ中は遠慮していた。

2人席が近接して5つ、カウンターに4人の14人で満杯となる店だ。

シェフはフランスで修行したという女性一人。以前はスタッフも全員女性だったが、今回は2人とも男性。

 

頼んだのは二人とも本日のランチセット(1,800円)。ちなみに2009年には1,600円だったからかなり頑張っている。

 

ダックスフントの見覚えのあるナイフレスト。

 

2015年のディナーにも登場していました。ちょっとカワイイじゃないと、楽天で調べてみたら¥440でした。そんなものいちいち調べるな!

 

私の前菜はサクラエビとほうれん草のキッシュ。サラダ一杯。

 

私のメインは、チキンソテー、ハチミツと醤油のソース。女性シェフとも思えない豪快な盛り。でも味は極上。

 

相方はオニオンスープと、

 

マダイのソテー、バターケッパー……

 

二人ともコーヒーとシャーベット。

 

二人で4千円足らず、相変わらずコスパ最高! ちょっと隣の席が近いけど。

 

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三鷹台から玉川上水を遡り、井の頭公園へ

2023年05月03日 | 散歩

 

井の頭線三鷹台駅を降りて、緩やかな坂を南に上る。登り切ってさらに行くと、玉川上水を横切る。宮下橋だ。駅から500m。(Google Map計測による(以下同文))。

 

橋から下を覗き込むと神田上水の水面が見える。結構深く不気味。

 

神田上水の左岸(上流から見て左側)を上流へ遡る(北西方向、井の頭公園へ)。日を反射している水面がわずかに見える。

 

左岸の散歩道。ベンチで一休み。

 

750mほどで井の頭橋へ。

 

橋から覗き込むと水面が良く見えた。両岸は急峻な石垣で落ちたら簡単には上がれないだろう。昔はもっともっと水流が激しかったという。落ちた生徒を助けようとして命を落とした「松本訓導(小学校の先生)殉難の碑」が井の頭公園にあった。

 

左岸の散歩道を行く。

 

白い花?実?

 

ニセアカシアとGoogle Lens訓導はおっしゃっている。

 

明星通りの「新橋」に着いた。井の頭橋から700m。この橋を右に行くと明星学園中学校だ。

 

以下の看板の地図だと玉川上水を上から下へ進んで来たことになる。まもなく公園に入る。

 

左側に井の頭公園第二公園を見る。

 

旗が立っていて、我々と同じ年頃の仲間が固まっている。まだやっている人がいるんだ、ゲートボール。

 

第二公園の西側は小鳥の森(バードサンクチュアリ)で、そのさらに西側には三鷹の森ジブリ美術館がある。私は「となりのトトロ」は大好きなのにジブリ美術館には行ったことがない。

 

 

モグラの穴、発見! 子供の頃、庭でしょっちゅう見たが、掘っても叩いてもモグラを見つけられなかった。

 

瀟洒な建物の織物工房の脇にロウバイの木が立つ。かって新聞で紹介され見に来たのだった。2月、3月には黄色い花を咲かせていたのだろう。今は若葉が美しい。

 

玉川上水は江戸への飲料水供給のために建設されたが、その一部を三鷹牟礼の農業用水に使用するための分水が行われたという。写真のせいでなく看板が汚れているのです。

 

このあたりになると、水面がはっきり見えてくる。

 

一帯は井の頭公園の西薗だ。

400mトラックのある井の頭公園競技場。トラック手前を急ぐ老人と、フィールドを走る保育園児。

 

競技場脇のほたる橋まで、三鷹台上の宮下橋から計2.4㎞。

この後、玉川上水は吉祥寺通りの万助橋の下を通って三鷹へと続く。

「松本訓導殉難の碑」の東側を通って駐輪場から井の頭公園通りを渡り、御殿山に入る。吉祥寺通りに出て、吉祥寺駅へ。この日は1万歩を越えた。

 

 

 

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ムレスナティーでランチ

2023年05月01日 | 食べ物

 

MLESNATEA TOKYO(ムレスナティー東京)は、セイロン島の紅茶だけを輸入し続けて36年、紅茶販売、レストランを経営している。MLESNATEA東京は、東京とは言いながら井の頭公園脇(吉祥寺南町1-12-12、)にあり、他に代々木上原、東京駅に店がある。

 

吉祥寺通りと井の頭通りの交差点を南へ数分、井の頭公園への入り口の脇にムレスナティー東京の入口がある。

実はここ2013年7月16日に報告した芙蓉亭(2020年5月閉店)の跡地で、上の写真と比較すると、看板を書き換えただけで、ほぼそのままだとわかる。

 

建物もそのまま。

実は2021年に一度入りかけて、値段を見てあきらめたのだが、今日はそのリベンジ。

 

入口にちょっと盛りを過ぎたボタンがあった。

 

紅茶リストが配られる。

フルーツ84種、花26種、アールグレイ26種、キャラメル41種、Black tea 28種で計200種以上。

 

スタッフが上の表から選んだお茶をこのカップに次々と注いでくれる。

1時間半の食事中、約6分に一回、15回程度違う紅茶を少しずつ注いでくれた。少しずつにしてもらったが、終わってみるとよく飲めたものだと思う。しかし、名前はひとつも覚えていない。

 

ソーサーの裏を見ると、このカップセットはムレスナティー専用のセットで、「2025年のコレクション、永遠に」というのが気になる。

 

結局、頼んだのは「アフタヌーンティーセット[ムレスナティーフリー付]」を1つと、もう一人の分として「ムレスナティーフリー」と「ホットコンチネンタルロイヤルミルクティー」。

 

 

バスクチーズケーキ、パウンドケーキと、「バニラアイス」と「キャンベルシャーベット」で、奥のボールは「スノーボール」

 

スコーン3種と、下はスコーンに付ける生クリームと完熟果物を使用したコンフィチュール。

 

ホットコンチネンタルロイヤルミルクティー

 

水だし〇〇紅茶。

 

色柄が鮮やかな分厚いお皿。

 

裏には、ポーランド製のハンドメイドとある。

 

紅茶にもいろいろ違いがあることしか分からなかったが、二人で7千円足らずならたまにはまあ良いかなという感じ。

いろいろな紅茶を数台のテーブルに注ぎまわるためだろうか、各テーブルほぼ一斉スタートの予約制だ。

1階にはずらりと種々の紅茶が並び、紅茶だけ飲める席もあった。

 

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