hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

マチス展に行って、ついでにパンダを拝んで来た

2023年08月07日 | 美術

 

ネットで予約して上野の東京都美術館でのマチス展を見に行った。

これほどマチスの生涯の作品が一度に見られる機会はもうないだろうと言われている。

8月20日までだそうだから、まだ間に合う。

上野駅の公園口に出て、動物園の方向に進むと、変わった建物のスタバがあった。ちょっと覗いてみたかったのだが、先を急ぐ。

 

9時半開館で、20分ほど前に着いたが、既に結構ならんでいる。

 

地下には若いころの作品が並ぶ。センスの塊のようなマチスも、色彩感覚は優れているがごく普通の作品を描いていた。

 

1階はフラッシュなしなら撮影可能。スマホを構える人が目立つ。へそ曲がりな私は、ごく好きな作品だけにする。

 

 

手前の右手の大きなこと。のびやかに、いかにも心地よい眠り。

 

私でも描けそうな気がするが、マチスは10回以上描いては消しているそうだ。

 

ゴタゴタいろんなものが描かれていて、どうかなと思うのだが、窓(額?)もあって、マチスらしく思えて好きな絵のひとつだ。

 

3階は老年期で身体が不自由になり、切り絵に変えてからの作品が並ぶ。ピントくるのも、こないのもあるが、ともかくマチスなのだとマチス信者の私は思う。

 

ヴァンスにあるマチスが作ったロザリオ礼拝堂の紹介コーナー、上映があった。

私は2014年に南仏に旅行したときに、この礼拝堂に入ったが、内部は撮影禁止でまともな写真がない。

代わりに(?)、その前日に訪れたニースにあるマチスの墓の写真を載せる。

いかにも重い墓石。後で亡くなったマチスの奥さんを埋葬するために、クレーンで墓石を持ち上げたそうだ。

 

東京都美術館を出て上野駅に向かう途中、隣の上野動物園の正門を見ると、11時前のせいか、列ができていない。「入って、パンダだけ見てみる? 子供のパンダがもうすぐ中国へ帰っちゃうじゃない?」と聞くと、暑さで元気のない相方も、「行ってみる?」と疑問形で返してきた。

 

公園口、正門から並ばずに入る。小学生の遠足以来だから70年ぶりだろうか。

65歳以上は300円と異常に安い。年間パスポートでも一般2,400円、65歳以上なら1,200円と安すぎる。

入ったところは東園で、パンダは西園と聞いて、そのまま「いそっぷ橋」を渡る。不忍池一杯のハスが見える。

 

西園に入り、橋を渡ってすぐのパンダの森に並ばずに入る。ガラスの向こうのパンダを見る。

初めて見るパンダはでかい! 確か、ジャイアントパンダという名だ。

ムシャムシャと笹の葉っぱなんか食べてる。ドレッシングもかけずに。

 

もう一匹はと見ると、木の陰ですねてる。

こちらも食事中。やはり、でかい! 熊ぐらいある。これが可愛いか?

どちらがどちらかわからないが、リーリーの体重は138.4kg、シンシンの体重は125.3kgだそうだ。

 

これで満足と、帰ろうと思ったら、行列が見えた。係りの人に聞くと、双子の子供パンダは約30分の行列だという。

せっかく70年ぶりに来たのだからと30分並んだ。周りで常連のマニア達が「今日は何時に来たの」「昨日はいなかったじゃないの」などあいさつしていた。いったい何している人達なのだ。

 

20人ほどの人数に分けられて、建物の中に入って、5分位観覧させていただく。

監視カメラの映像で個体を明確に識別するため背中に緑の印をつけているのがオスで、2歳(約762日歳)のシャオシャオで、それでも私とほぼ同じ体重の62.2㎏。

 

メス2歳(約762日歳)のレイレイは68.2㎏。

 

枝に腰かけていたのだった。

こちらが上野動物園提供のYouTub動画

 

 

あとは、アフリカのケープ地方に生息する体長約70㎝の中型ペンギン、ケープペンギンの傍を通り過ぎて、

 

ともかく、お気に入りのハシビロコウだけは見たい。

チョコマカしていて、「君! イメージが違う!」

 

そうそう、そのポーズで停まって! そう、その陰険な目つきのままで、しばらくお願い!

満足して、そのまま池之端門から出て、千代田線根津駅、このあたりで生まれたはずだが、から帰った。

 

 

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一穂ミチの略歴と既読本リスト

2023年08月06日 | 読書2

 

一穂ミチ(いちほ・みち)

1978年生まれ。大阪出身で在住。現在も会社勤めの合間に執筆している。

2007年『雪よ林檎の香のごとく』でデビュー。以後、様々な筆名でBL系短編小説50編以上発表

BL(ボーイズラブ)ジャンルで活躍。
2014年『イエスかノーか半分か』以後、シリーズ化
2016年「きょうの日はさようなら」が第8回天竜文学賞候補
2021年『スモールワールズ』で一般小説デビューし、第43回吉川英治文学新人賞を受賞、2022年本屋大賞第3位。第165回直木賞にノミネート、山田風太郎賞候補。
2022年『光のとこにいてね』が第168回直木賞候補、2023年本屋大賞にノミネート
2024年『ツミデミック』で第171回直木賞受賞

その他、『パラソルでパラシュート』『砂嵐に星屑』『うたかたモザイク』など

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一穂ミチ『光のとこにいてね』を読む

2023年08月05日 | 読書2

 

一穂ミチ著『光のとこにいてね』(2022年11月文藝春秋第一刷発行)を読んだ。

 

文藝春秋BOOKS

一穂ミチ、最新長篇にして文句なしの最高傑作

第168回直木賞候補作&2023年本屋大賞第3位

(略:誇大宣伝)

……

――ほんの数回会った彼女が、人生の全部だった――

古びた団地の片隅で、彼女と出会った。彼女と私は、なにもかもが違った。着るものも食べるものも住む世界も。でもなぜか、彼女が笑うと、私も笑顔になれた。彼女が泣くと、私も悲しくなった。
彼女に惹かれたその日から、残酷な現実も平気だと思えた。ずっと一緒にはいられないと分かっていながら、一瞬の幸せが、永遠となることを祈った。
どうして彼女しかダメなんだろう。どうして彼女とじゃないと、私は幸せじゃないんだろう……。

――二人が出会った、たった一つの運命
  切なくも美しい、四半世紀の物語――

 

「本の話」の「直木賞候補インタビュー「女性同士の運命的な愛の物語」」より引用

……二人の女性の四半世紀にわたる愛の物語である。BL(ボーイズラブ)小説でも熱い支持を受けてきた一穂さんだが、女性がメインの話を書きたいという思いがあった。

「今作は、シスターフッド小説ではありません。彼女たちは、同じ方向を向いているわけではなくて、お互いだけを見ている。非常に閉じた関係の二人なんです。ともに乗り越える壁も、手を取り合う戦いもないんですね」

 母親にこっそり連れ出された先の団地で、果遠(かのん)という少女に出会った小学二年生の結珠(ゆず)。同じ年の二人は、結珠の母親が「ボランティア」と称して秘密の行動を取るのを待つ間に、団地で遊ぶ仲となる。

 裕福な家庭だが、家族に顧みられることのない結珠と、母子家庭で、隣人女性の飼うインコだけが慰めの果遠。

……

 互いを必要とし合っていたのに、自らの意思と反して、突然の別れを迎えた二人は、進学先の高校で再会を果たす。お互いの成長と感情の変化に戸惑いつつも、新しい関係を築こうとするが、ふたたび引き離されてしまう。

 やがて、小学校教師になった結珠は、体調を崩して休職してしまう。夫と移住した先で、またしても運命的に出会ったのは、結婚し、夫と、娘と三人で暮らす果遠だった。

 運命に翻弄されてきた結珠と果遠の関係。ふたりは、真に望む人生をつかみ取ることができるのか。

 

第一章
5歳の小瀧結珠(ゆず)と校倉果遠(あぜくら・かのん)の7歳で出会った。果遠が「そこの、光のとこにいてね」と言ったのに、結珠は母親に引っ張られてその場を離れ、二人は離れ離れになる。

 

第二章
結珠が通うお嬢様学校の高校に、外部からの新入生・果遠がいた。美人だった。結珠は忘れていたことにしていた記憶が、突然、栓を抜かれたように勢いよく噴き出して、めまいがする。果遠は結珠が着ていた制服から学校を割り出していたのだ。

 

第三章
29歳の二人は本州最南端近くで、互いにパートナーを持った状態で再会する。

 

「すべてが光の中にいた」と終わる。

 

 

私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め、 最大は五つ星)

 

子供、高校生、結婚後と時を経て再会を繰り返す、奥深い絆で結ばれた二人の女性の物語。

 

二人の女性の成長譚としては面白かったが、二人の女性の間の複雑な心理描写には、おじいさんは立ち入りたくない。

著者は「シスターフッド小説ではありません」と言うが、ガサツな私にはそうとしか思えない。

 

 

 

一穂ミチの略歴と既読本リスト

 

「本の話」に川上弘美との対談があり、執筆の背景が語られる。写真の一穂ミチは斜め後ろからの顔だけ。いまだに会社員と兼業で、職場には小説を書いていることは知られていないためなのだろう。

 

 

弁(わきま)えて

 

 

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私と計算

2023年08月04日 | 昔の話

 

私は算数も数学も才能はないのですが、好きでした。ロマンがあって、面白いですよね! でも、単純計算は嫌いでした。

小学生の夏休みの宿題で、大量の計算問題が出ました。やり方は分かっているのに同じ事を繰返しても意味がないと単純に考え、答えの欄にでたらめな数値を延々と書いて提出しました。
休み明けに答え合わせがあり、順番で答えを読み、皆が「あってます」と唱和する。私の番になり、でたらめの答えをそのまま読むと、皆が「違ってます」と声をあげる。「いけねえ」と頭を書きながら座りました。

その場はしのぎましたが、罰は社会に出てからやってきました。電卓がどこにでもある時代になっても、手計算、暗算は必要で、私は早くできず、ちょっとしたハンデになっています。

 

 

以下、計算機の話

研究所務めだったので計算機はとくに若いときは良く使ったが、コンピュータの専門家ではないので、以下、利用者からみた計算機の昔話をしたい。

そろばん
子供の頃、母が使っていたそろばんが5つ玉だった。見ていると、下の段の5つ目の玉は動くことが無い。
「その玉はどうしてあるの?」と聞くと、母は困った顔をして、「そうねえ」と言うばかりだった。小学校で買わされたそろばんは4つ玉だった。いまだに、なぜ昔々のそろばんは5つ玉だったのかわからない。

計算尺
最近の人は計算尺なるものをご存知なのだろうか。30cmくらいの長さの板状の計算道具で、桁数は暗算で求め、有効数字3桁ほどの乗除算を素早く求めるのに使う。2つの数の掛け算がlogをとると足し算になることを利用している。工学系の計算に便利で、1970年ぐらいまで良く使った。
もっと有効桁数が必要な場合は、7桁の常用対数表という丸善から出ていた冊子をめくって対数計算で乗除算の答えを求めた。

タイガー計算機
数値をセットして、ハンドルを回すと答えが出る手回し計算機械だ。中味は歯車の固まりで、論理機械の傑作、究極の姿だと思う。加算減算もできるが、乗算は123*456なら、123をセットし、まずハンドルを6回転し、桁送りしてから5回転し、さらに4回転すると答えが得られる。面白いのは除算で、除数をセットしハンドルをマイナス回転していくと、チーンと音がしたら1回転戻す。大学の研究室で、大勢並んで計算していると、あちこちでチーン、チーンと音がしたのを思い出す。
概算を求めるときは計算尺で、正確な値はタイガー計算機を使ったものです。

ファシット計算機
タイガー計算機の歯車をモータで回すような仕組みのもので、AC電源が必要だった。会社に入ったらタイガーがファシットになっていて、やはり金があるところは違うなと思いました。

計算尺、タイガー計算機、ファシット計算機ともに、電卓が出てきてあっと言う間に駆逐されました。

電話機での関数計算
あまり一般的ではなかったと思いますが、電電公社(現NTT)のセンタ(多分、DRESSか、DEMOSといったと思います)に接続し、電話機からダイヤル入力し、音声で回答を得る方法がありました。

具体的には、接続状態で、プッシュホンのダイヤルの組合せで計算したい関数を登録します。あとは計算したい数値を入力すると合成音声で回答が聞こえます。

例えば、実験結果の分散値などを求めるのに便利でした。私は、右に置いたデータ用紙を見ながら、左の電話機ダイヤル上で、左手でブラインドタッチでデータ入力をして、電話機に差込んだイヤホーンで回答を聞いて、右手で結果を用紙に書き込んでいました。
このおかげで、電卓にとって代わったときに、電話機と電卓のキー配置が異なるため、しばらく電卓入力に苦労しました。電話機は当時CCITTという通信関係の国際機関が標準を決め、計算機はISOが標準を決めていたので、両者のキー配置が異なってしまったのです。

電卓
継電器と言われるリレーを用いたリレー式計算機と言うものがあったようですが、私には記憶がありません。1960年代にはトランジスタを使った電子式計算機が登場、普及しました。70年代に入ると、LSIが使われ、AC電源から電池に代わったので一気に普及し、四則演算は電卓と決まりました。

関数電卓
SIN、COS、ルート、指数など関数が使える手の上に乗る電卓がYHP(現HP)から1970年ごろ販売され、手にしたときは驚きでした。今でも端が少し立ち上がった黒っぽい薄いきょう体に、ずらっと並んだ小さなキーと赤いLED表示を思い出します。センタの大型計算機と電話機の組合せが、小さな関数電卓に完全にやられたと思いました。

大型コンピュータ
メインフレームと呼ばれる大型コンピュータはIBM360がもっとも有名です。私の属する研究所にはIBM360を追って開発されたNECのNEACなど(富士通のFACOM、日立のHITAC)があり、専属のオペレータがいる計算機室の棚にプログラムを時間までに置いておくと、夜計算機にかけ、翌日プログラムリストと計算結果が打ち出された紙が棚に置いてあるというシステムになっていました。

プログラムは、FORTRANという数式ほぼそのままのような言語で書きます。FORTRANはBASICとほぼ同じような言語です。コーデイングシートに手書きして、英文タイプライターのような端末から入力すると、確か80カラムの穴が開いたIBMカードが1ライン、1枚できます。このカードをライン数だけ束にしたのがプログラムになります。紙テープに落とすこともできたと思いますが、テープだと順序を入れ替えるなどの訂正が容易でないので使いませんでした。

このカードの束の端面にマジックで斜め線を書いて順序を分かるようにしていました。カードの束を棚に入れておくと、オペレータが計算機にかけて結果のプリントアウトを棚に入れておいてくれる。一日一回の計算依頼しかできない。どこかバグがあれば、一日が無駄になる。

受付時間ぎりぎりで廊下を走り、転んでカードをばらまき、整える時間がなく、だめなのはわかっていたが、そのまま棚に入れた。プログラムリストを紙に打ち出してもらえるので、翌日カードをそろえるのが楽なのであえて「Fatal Error」をもらった覚えがある。
繰り返し計算させてある値の範囲に収束させるプログラムで、収束条件を厳しくしすぎて、と言うか発振条件だったので、数時間計算機を無駄走りさせたこともあります。

μCマイクロ・コンピュータ
1971年、μCマイクロ・コンピュータが登場した。私の場合は、マイコンを主に機器の制御に使ったので、マイクロ・コントローラといった方が良いかもしれない。数式そのもののようなFORTRANを使って数値計算プログラムを作っていた身には、計算機の構造を理解し、アキュムレータだの、レジスターだのを頭においてプログラムを書くのは足し算一つでも大変だった。当時は確か単純な4ビットCPUだったのですが。

プログラマーに作ってもらい、使いながら一部を自分で変更するのがせいぜいでした。しかしながら、実験装置の制御は従来作りこみで固定だったのを、マイコン制御にして、状況にあわせてプログラムで変更できるのはたしかに便利でした。

初期のパソコン
1977年ごろ8ビットCPUを持つトレーニング用組立マイコンキットTK80が販売され、いたずら程度にさわっていました。
1980年ごろ、アタリ社のパーソナルコンピュータで、確か磁気テープからプログラムをロードして、テーブルテニスや、インベーダのゲームで遊んだ覚えがあります。
1983年に8ビット機の統一規格「MSX」が提唱され、各社対応パソコンが販売されました。個人的に購入し、ROMで出来たゲームソフトを買ったり、簡単なゲームを作って遊んだりしたが、すぐあきてしまった。また、この規格も半導体のすさまじい進歩によって、あっという間に時代遅れとなってしまった。

ワープロ
ワープロは、親指でシフトするOASYSキーボードでブラインドタッチで入力していた。不思議と、パソコンに向かい最初の1,2文字打つと、自然にQWERTY配列でブラインドタッチできる。
私の場合、紙に書いたものをワープロで清書するという使い方は少なく、内容や文章を考えながらワープロを打つことが多い。したがって、入力速度はそんなに厳しく要求されないが、ブラインドで打つと、目がディスプレイを見たままになるので、考えが中断されない。

大学で自由選択科目だったが、英文モールス信号を聞き英文タイプを打つ授業をとった。会社に入って、英文で論文を書くとき、下書きの英文を目で見ながら、モールスに直しつぶやく。すると、手が自然と動き、キーと打つ。そんな、英文、モールス、キーを繰り返していると、人間とは不思議なもので、いつのまにか、間が抜けて、英文、キーになっていた。

そして、現在へ
IBM-PCが1981年発売になってから現在までの進展は私には一瞬に思える。
パソコンOSもMS-DOSからWindows3.1、95、2000、XPと複雑で重くなっていったが、ハードの速度、記憶容量が飛躍的に向上して行ったので使い勝手はたしかに良くなっていった。XPで安定性も増した。自宅のパソコンもいったい何代目なのかわからなくなった。

退職した現在では、メール、ブラウザの他は、主にワードを使い、エクセルを時々、会社でよく使ったパワーポイントは使う場がない。あとは、Paint Shop Proで遊び、HTMLでホームページを作るくらいで、プログラムとは縁遠い世界にいる。

 

「想えば遠くに来たもんだ」

 

 

ほとんどが、2006年6月17日の「計算機昔話」の再掲でした。

 

 

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凪良ゆう『汝、星のごとく』を読む

2023年08月03日 | 読書2

 

凪良ゆう『汝、星のごとく』

 

講談社BOOK倶楽部の内容紹介

2023年本屋大賞受賞作

 

その愛は、あまりにも切ない。

正しさに縛られ、愛に呪われ、それでもわたしたちは生きていく。
本屋大賞受賞作『流浪の月』著者の、心の奥深くに響く最高傑作。


――わたしは愛する男のために人生を誤りたい。

風光明媚な瀬戸内の島に育った高校生の暁海(あきみ)と、自由奔放な母の恋愛に振り回され島に転校してきた櫂(かい)。
ともに心に孤独と欠落を抱えた二人は、惹かれ合い、すれ違い、そして成長していく。
生きることの自由さと不自由さを描き続けてきた著者が紡ぐ、ひとつではない愛の物語。

――まともな人間なんてものは幻想だ。俺たちは自らを生きるしかない。

 

 

瀬戸内海の小さな島で、17歳の高校生、井上暁海(あきみ)と青埜櫂(あおのかい)は出会った。

この島で生まれ育った暁海の父は恋人・林瞳子(とうこ)の家へ通う。井上家の事情は島の人々の噂の種で、母は心に変調をきたした。瞳子はオートクチュール刺繍で生計を立てていた。暁美は、母に悪いと思いながら刺繍に興味を持ってしまった。

 

この島にやってきた青埜櫂(あおのかい)は母子家庭で、母親は恋人・あーくんを追ってこの島にやってきて、島で唯一のスナックを営み、おっさんどもは鼻の下を伸ばし、おばちゃんたちには冷たい目で見られている。彼女は男なしでは生きられない〟タイプなのだ。
櫂は投稿サイトで知り合った久住尚人と漫画の原作と作画で共感し、編集者の植木さんに導かれて力をつけていく。

 

ともに困った母親の面倒を見ざるを得ないという共通の厳しい家庭事情を抱える二人は惹かれ合い、母親のこと、自分たちの将来に悩み、語り合う。島で唯一の味方は、結ちゃんを育てているシングル・ファーザーの化学の北原先生だけだ。

 

二人は島と東京に別れ、そらぞれが別のパートナーと付合い、それでも……。そんな二人が30歳を超えるまでの姿を描いていく。

 

 

瞳子は櫂に言う。

「私も奥さんももう腹は切ってる。あとは男がとどめを刺すだけ。そこで男が怖がって逃げたら、死にきれずに女がのたうち回ることになるじゃない」……
「あとでもっと苦しくなるのに、ひとときだけでも優しくされたい?」
「きみのそれは優しさじゃない。弱さよ」

 

 

私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め、 最大は五つ星)

 

ときどきあることなのだが、読み終わったときには「これは五つ星だ!」と思ったのだが、落ち着いて、付箋だらけのこの本をパラパラと読み返してみると、二人が島と東京に別れてから、それぞれ浮気したり、迷ったりする部分が長すぎて、ダレル。最後も唐突で、よくあるパターンだと言えば言える。

まあ、四つ星かな。

 

プロローグで、「月に一度、わたしの夫は恋人に会いにいく。」と始まる。

これだけで、元BL(Boys Love)作家の「普通でない恋」の話じゃないのかなと推測できてしまった。それにしても北原先生はないよな。

 

 

凪良(なぎら)ゆうの略歴と既読本リスト

 

 

 

夕星(ゆうつづ):《古くは「ゆうづつ」とも》(本書では(ゆうづつ))。夕方、日没後、西の空に明るく輝く星(金星)のこと。「宵の明星 (みょうじょう)」 。
太陽が昇る前に東の空に明るく輝く星・金星は、「明けの明星」。

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昔の言葉が出てきます

2023年08月02日 | 昔の話

国電を降りると、テクシーで家に向かう。前を行くギャルの柳腰が気になり、追い越して振り向くと、バックシャンだった。「ガチョーン!」

格子戸を開けて、玄関で、こうもり傘を置いて、シャッポを脱ぎ、襟巻きをはずし、ズックを土間に脱ぎ捨てる。居間のちゃぶ台とおひつをチラッと見て、奥の間に入り、国防色のズボンを脱ぎ、股火鉢で暖まりながら、「ああ、俺ってナウイなあ」と思う。


国電:JRが国有鉄道(国鉄)だったので国電という。私の親父は省電と言っていた。鉄道省だったから。
テクシー:タクシーに乗らずテクテク歩くこと。親父はタクシーを円タクと言っていた。1円で乗れたから?
ギャル:軽薄だが元気な若い女性のこと。ギャル曽根って知らない?

バックシャン:後姿だけが美しい人。シャンはドイツ語で美しいこと

ガチョーン:クレージーキャッツの谷敬のお得意のギャグネタ。「えっ!クレージーキャッツを知らないの? ガチョーン!」って使うんだよ。

格子戸:細い木を縦と横に組んだ扉や引き戸。風や光を通すので解放的。
シャッポ:元はフランス語。帽子のこと。
ちゃぶ台:畳に座って食事するとき使う、折りたためる4脚を持つ低いテーブル。怒ったとき、ひっくり返すもの。
おひつ:炊いたご飯の木製の入れ物。保温するため小さな布団でくるむこともある

 

2006年6月の「昔の名前が出てきます」の再掲でした。

 

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高瀬乃一『貸本屋おせん』を読む

2023年08月01日 | 読書2

 

高瀬乃一著『貸本屋おせん』(2022年11月30日文藝春秋発行)を読んだ。

 

舞台は文化年間の江戸浅草。幼くして天涯孤独の身の上になり、本が好きで、女手ひとつで貸本屋を営んでいる“おせん”が、本にまつわる事件を次々に解決していく。
江戸時代の豊饒な読本文化に驚かされ、彼女のいわば捕物帖も、裏の裏と次々明かされる秘密に、ついつい読み進めてしまう。

 

満場一致でオール讀物新人賞を受賞した「をりをり よみ耽り」の世界を5篇の連作とした作品。

 

 

おせん:父・平治が幼い時から本を読み聞かせてくれたおかげで、本好きが高じて今は、うず高く積んだ貸本を背負って得意先を回る梅鉢屋という名の貸本屋を一人で営んでいる。禁書「倡門外妓譚」の試し摺りを持つ。

平治:“おせん”の父。腕の良い彫師だったが、幕府の禁書「倡門外妓譚」を彫って、版木を壊され、指を折られて、自死した。

登:“おせん”と同じ長屋に住む幼なじみで、嫁になれと迫る。野菜の振り売り。

喜一郎:“おせん”が最も信頼する地本問屋(出版社)・南場屋六根堂の主人。

 

「をりをり よみ耽り」

井田屋正兵衛:日本橋の足袋屋の隠居で亀戸村の子供たちに本を読み聞かせている。

燕ノ舎:町方に目を付けられる厄介な絵ばかり描いていた元絵師。元武家で本名は藤吉郎。かなりな本持ち。

熊吉:木戸番、荒物売り。

 

「版木どろぼう」

南場屋に保管されていた人気の曲亭馬琴の新作の版木がなくなった。新作は御公儀が目をつけそうな、二年前の永代橋崩落の真相を語るもので、話が広がることを恐れた南場屋喜一郎は“おせん”に調査を依頼する。“おせん”は地本問屋の伊勢屋、彫師の六左衛門と探りを入れ、たまたま新作の話を聞きつけた岡っ引きの甚左に疑いを持つ。

 

「幽霊さわぎ」

団扇問屋・七五三屋の主人・平兵衛が亡くなった傍らで、若い女将の志津が手代の美男・新之助と房事に耽っていたところ、平兵衛が目をむいて一瞬生き返り、大騒動になった。店を辞めた新之助は、古馴染みの善吉の宿に世話になっていたが殺される。美人で名高い女将・志津は実は‥‥。

隈八十(くまやそ):良くない噂のある貸本屋

 

「松の糸」

刃物屋・うぶけ八十亀の色男の惣領息子・公之介が、老舗の料理屋・竹善の出戻り娘・お松に恋した。お松は、源氏物語の幻の帖『雲隠(くもがくれ)』を探してくれたら一緒になるという。“おせん”はありえない依頼を受ける羽目になる。お松の言う『雲隠』とは‥‥。

 

「火付け」

吉原の妓楼・『桂屋』は浅草の町中にある。火事で見世(店)を焼かれて、再建するまで吉原外に仮宅を構えることができたためだ。結果、御公儀に冥加金を納めなくてよいし、新しい客も増え、焼け太りになった。
お針子として桂屋に身売りされた小千代は、主人の善十郎から張り見世に出るように言われて脱走した。“おせん”は貸していた本を持ったままの小千代を追い、その“おせん”を追う者がいた。

 

 

私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め、 最大は五つ星)

 

江戸の町を、貸本を担ぎ、馴染みを訪ね歩く貸本屋に注目し、主人公にしたのが、なんといっても成功の第一点だ。

 

理不尽な御公儀の処罰で評判の彫師だった父を亡くし、孤児となりながら、周囲の助けもあって、本を背負い貸本屋として自立する「おせん」。向こう気の強さ、負けず嫌いの性格が魅力的で、ついつい身を入れて応援しながら読んでいる自分に気付く。
癖が強く、友人にはしたくないが、読むには魅力的な人物も多く登場し、話を盛り上げる。

 

新人賞受賞後の第一作なのに、読み進めるとこれで治まったと思う裏に、また裏が現れる。どうしてなかなか。

 

時代小説執筆が初めてとは思えない奥行きのある江戸の町、人、文化の描き方。当時、世界でも頭抜けて識字率が高かった江戸の人々の本を愛する文化、800以上あったという貸本屋による読本供給システムなど、江戸の世相、文化も良く分る。

巻末に17冊の江戸の庶民の生活や、出版事情のわかる参考文献が並び、著者の勉強ぶりがよくわかる。

 

これだけ誉めて四つ星なのは、話の流れが多少、類型的かな、と思えたため。

 

 

高瀬乃一(たかせ・のいち)

1973年愛知県生まれ、名古屋女子大学短期大学部卒。

2020年「をりをり よみ耽り」(本書所収)で第100回オール読物新人賞受賞しデビュー。

 

小説を書くようになるきっかけをインタビューで語っている

40歳になる直前のことでした。たまたま三女が生まれた翌年に、東日本大震災を経験しまして。人間いつ死ぬかわからないなと感じ、ちょうど人生の折り返し地点だし、悔いのない生きかたをしようと小説を書き始めました。三沢って何もないところで(笑)、子育てで外にも出られないし、私自身もちょっと病気をして家にいる時間が長くて、時間を見つけてはパソコンに向かいました。まったくの独学で、それこそ漢数字と算用数字をどう書きわけるのかもわからないところから、ひとつひとつ自分なりに調べて書いていきました。

そして、5回目の投稿でオール讀物新人賞を受賞した。

こうも語っている。

東京の地理になじみがないので、具体的な町の描写が難しかったですね。……大きな古地図をAmazonで買って、ことあるごとに眺めるようにしました。……藤沢周平さんの小説を読んで、『獄医立花登手控え』の主人公・立花登が歩く道筋を古地図で見たりしていると、なんとなく浅草から日本橋はこれぐらいの距離感で歩けるんだなとわかってくる。……

 

 

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