以前、将棋ペンクラブで、よりよい「将棋ペン倶楽部」を作るにはどうすればいいか、というアンケートがあった。その回答は後に会報に掲載されたのだが、その中で、ある作家が
「投稿者はアマチュアなのだから、会に掲載料を払うべきだ」
というような意見を述べていた。
投稿者のひとりとして、これは耳の痛い意見であった。ただ、「プロとアマの違い」について、私は
「同じことをしても、プロはおカネをもらい、アマはおカネを払う」
という考えは持っていた。
すなわち、プロとアマが将棋を指せば、アマがおカネを払い、プロがおカネをもらう。
プロが野球をすればおカネをもらい、アマが野球をすれば球場使用料でおカネを払う。ゴルフ等も然りだ。
モデルさんを写真撮影すれば、プロカメラマンはおカネをもらうが、アマカメラマンはおカネを払うのである。
その伝でいけば、アマが同人誌に投稿するなら、手数料としておカネを払う、という考えも一理あると思った。
だがその一方で、「将棋ペン倶楽部」は会員からの投稿で成り立っているのも事実だった。おカネを出して原稿を載せてもらうくらいなら、投稿などしない、という会員ばかりになったら、会報の発行自体が危うくなってしまう。やはり会員からの投稿は必要なのだ。
それに会員の投稿は、原稿料が一切出ない。これは棋士が書こうが観戦記者が書こうが、そうである。どんなにおもしろい記事を書いても、見返りは「掲載誌2冊」のみ。アマが原稿料で潤うことなどないのである。
さらに書けば、会員だって原稿を書く際、膨大な時間を費やしている。私の場合は、文章がヘタクソだから、(パソコン上で)書いては消し、書いては消しの繰り返しだ。結果〆切日も過ぎ、編集部に原稿を待ってもらい、心身共にクタクタになって、ようやっと原稿を送信するのである。アマだって、それなりに努力はしているのだ。
とはいえ、アマの原稿を編集部が無料で手直ししてくれるわけだから、御礼はしなければならない。それで私は、ペンクラブ大賞基金に、毎年1万円を寄付しているのだ。
では、そのおカネの取れる作家の書く将棋記事は、どうなのだろう。
誰でも思いつくものに、観戦記がある。古くは坂口安吾、近くでは山口瞳や斎藤榮、原田康子などなどなど。いずれも名稿を世に残している。
そんな今年の3月、第2回電王戦において、夢枕獏が、観戦記を披露してくれることになった。担当は第1局の「阿部光瑠四段VS習甦」と、最終第5局の「三浦弘行九段VS GPS将棋」で、豪華2本立てである。
注目の第1局をワクワクしながら読むと、冒頭で米長邦雄永世棋聖の話が出てきて、面喰らった。
夢枕獏は、氏の著「われ敗れたり」を読んで、感激のあまり泣いてしまい、普通の観戦記が書けなくなってしまったというのである。
何も観戦記を書く段になって「われ敗れたり」を読まなくてもと思うのだが、いやまあ、それはそれでいいのだが、そういう楽屋落ちというか裏話的なものを、観戦記に書かなくてもいいのではと思うのだ。
まあしかし、自身が「おれは書くことのプロだよ」と自信をのぞかせていたから、以降は相当おもしろいものを書いてくれるのだろうと、私は期待を寄せたのである。ところが…。
観戦記は米長永世棋聖の話が続く。夢枕獏も、「とりとめのない話が続くが…」と断っているから承知の上なのだろうが、これが本局と何の関係があるのだろう。
続いて何とかいう自著の話になり、いよいよ私は、何がなんだか分からなくなってきた。
待てよ、と思う。アマの即席観戦記者は将棋をじっくり観戦し、対局者の息吹を少しでも正確に読者に伝えようとする。しかしプロの作家は、そんな瑣末なことは考えないのではないか。観戦した将棋からイマジネーションを最大に膨らませて、作家独自のワールドを展開するのだ。そんなふうに、好意的に考えた。
本文は続く。以下もプロレスの話が出たり、サッカーの話が出たり、筆者がいったん眠ってみたり、文体が変わったり、もうメチャクチャである。
私はプロ作家の本領を何とか理解しようと務めるのだが、どうやっても無理。我が頭のアホの哀しさ、この文の良さがまったく分からないのだ。ただ、この文章はとても私には書けない、ということだけは分かった。さすがはプロの観戦記と、結局私は恐れ入ったのである。
続いて第5局。今度は凡人にも理解できる「ふつう」の観戦記を書いてくれるだろうと、私は期待した。ところが…。
冒頭に、過去4局の対戦結果が記されたが、これ、誰でも知っていることである。第1局も同じパターンだったが、なんか、無理に字数を稼いでいる気がして、あまり好感は持てなかった。
さらに違和感を覚えたのが「神々の戦い」という記述である。まあたしかに三浦九段は、七冠王の羽生善治を倒した強豪ではあるけれども、「神」ほどの棋力でないと思う。ちょっと崇めすぎではないか。
さらに不可解なのがアマ強豪・小池重明の登場で、なぜ彼が出てきたのかよく分からない。
ところで私は社会科が大の苦手で、高校の「政治経済」のレポートなどは、筆が進まなくて難儀したものだった。それでも何とか升目を埋めようと、政治経済とは微妙に話題をズラし、当たり障りのない文章で行数を稼いだのである。
プロの作家にこんなことをいうのはアレだが、ちょっと第1局にも第5局にも、同じニオイを感じてしまったのである。
危惧したとおり、以下も小池重明の話が延々と続く。「プロより強いアマチュア」なんて書いているが、そんなアマチュアはいません、と訝りながら先に進む。
以後も、なぜか第4局の感想なんかが出てきたりして、第5局のほうはどうなっているんだ、と疑問を抱く有様であった。
そして気が付けば、総論のような形で、観戦記は終わっていた。……。もはや、呆気に取られるしかない。
そうか…。これがおカネの取れるプロの記事なんですね。これでおカネがもらえるとは、なんて素晴らしいシステムなんだろう。羨ましい!
…しかしこの程度なら、「将棋ペン倶楽部」において、無償で書かれた投稿のほうがはるかにおもしろい…と思うのはバチ当たりで、私の見方が浅いということなのだろう。おのが読解力、まだまだである。
とにかく将棋も文章も、奥が深い。それが分かったことが、これらの観戦記を読んだ、唯一の収穫であった。
「投稿者はアマチュアなのだから、会に掲載料を払うべきだ」
というような意見を述べていた。
投稿者のひとりとして、これは耳の痛い意見であった。ただ、「プロとアマの違い」について、私は
「同じことをしても、プロはおカネをもらい、アマはおカネを払う」
という考えは持っていた。
すなわち、プロとアマが将棋を指せば、アマがおカネを払い、プロがおカネをもらう。
プロが野球をすればおカネをもらい、アマが野球をすれば球場使用料でおカネを払う。ゴルフ等も然りだ。
モデルさんを写真撮影すれば、プロカメラマンはおカネをもらうが、アマカメラマンはおカネを払うのである。
その伝でいけば、アマが同人誌に投稿するなら、手数料としておカネを払う、という考えも一理あると思った。
だがその一方で、「将棋ペン倶楽部」は会員からの投稿で成り立っているのも事実だった。おカネを出して原稿を載せてもらうくらいなら、投稿などしない、という会員ばかりになったら、会報の発行自体が危うくなってしまう。やはり会員からの投稿は必要なのだ。
それに会員の投稿は、原稿料が一切出ない。これは棋士が書こうが観戦記者が書こうが、そうである。どんなにおもしろい記事を書いても、見返りは「掲載誌2冊」のみ。アマが原稿料で潤うことなどないのである。
さらに書けば、会員だって原稿を書く際、膨大な時間を費やしている。私の場合は、文章がヘタクソだから、(パソコン上で)書いては消し、書いては消しの繰り返しだ。結果〆切日も過ぎ、編集部に原稿を待ってもらい、心身共にクタクタになって、ようやっと原稿を送信するのである。アマだって、それなりに努力はしているのだ。
とはいえ、アマの原稿を編集部が無料で手直ししてくれるわけだから、御礼はしなければならない。それで私は、ペンクラブ大賞基金に、毎年1万円を寄付しているのだ。
では、そのおカネの取れる作家の書く将棋記事は、どうなのだろう。
誰でも思いつくものに、観戦記がある。古くは坂口安吾、近くでは山口瞳や斎藤榮、原田康子などなどなど。いずれも名稿を世に残している。
そんな今年の3月、第2回電王戦において、夢枕獏が、観戦記を披露してくれることになった。担当は第1局の「阿部光瑠四段VS習甦」と、最終第5局の「三浦弘行九段VS GPS将棋」で、豪華2本立てである。
注目の第1局をワクワクしながら読むと、冒頭で米長邦雄永世棋聖の話が出てきて、面喰らった。
夢枕獏は、氏の著「われ敗れたり」を読んで、感激のあまり泣いてしまい、普通の観戦記が書けなくなってしまったというのである。
何も観戦記を書く段になって「われ敗れたり」を読まなくてもと思うのだが、いやまあ、それはそれでいいのだが、そういう楽屋落ちというか裏話的なものを、観戦記に書かなくてもいいのではと思うのだ。
まあしかし、自身が「おれは書くことのプロだよ」と自信をのぞかせていたから、以降は相当おもしろいものを書いてくれるのだろうと、私は期待を寄せたのである。ところが…。
観戦記は米長永世棋聖の話が続く。夢枕獏も、「とりとめのない話が続くが…」と断っているから承知の上なのだろうが、これが本局と何の関係があるのだろう。
続いて何とかいう自著の話になり、いよいよ私は、何がなんだか分からなくなってきた。
待てよ、と思う。アマの即席観戦記者は将棋をじっくり観戦し、対局者の息吹を少しでも正確に読者に伝えようとする。しかしプロの作家は、そんな瑣末なことは考えないのではないか。観戦した将棋からイマジネーションを最大に膨らませて、作家独自のワールドを展開するのだ。そんなふうに、好意的に考えた。
本文は続く。以下もプロレスの話が出たり、サッカーの話が出たり、筆者がいったん眠ってみたり、文体が変わったり、もうメチャクチャである。
私はプロ作家の本領を何とか理解しようと務めるのだが、どうやっても無理。我が頭のアホの哀しさ、この文の良さがまったく分からないのだ。ただ、この文章はとても私には書けない、ということだけは分かった。さすがはプロの観戦記と、結局私は恐れ入ったのである。
続いて第5局。今度は凡人にも理解できる「ふつう」の観戦記を書いてくれるだろうと、私は期待した。ところが…。
冒頭に、過去4局の対戦結果が記されたが、これ、誰でも知っていることである。第1局も同じパターンだったが、なんか、無理に字数を稼いでいる気がして、あまり好感は持てなかった。
さらに違和感を覚えたのが「神々の戦い」という記述である。まあたしかに三浦九段は、七冠王の羽生善治を倒した強豪ではあるけれども、「神」ほどの棋力でないと思う。ちょっと崇めすぎではないか。
さらに不可解なのがアマ強豪・小池重明の登場で、なぜ彼が出てきたのかよく分からない。
ところで私は社会科が大の苦手で、高校の「政治経済」のレポートなどは、筆が進まなくて難儀したものだった。それでも何とか升目を埋めようと、政治経済とは微妙に話題をズラし、当たり障りのない文章で行数を稼いだのである。
プロの作家にこんなことをいうのはアレだが、ちょっと第1局にも第5局にも、同じニオイを感じてしまったのである。
危惧したとおり、以下も小池重明の話が延々と続く。「プロより強いアマチュア」なんて書いているが、そんなアマチュアはいません、と訝りながら先に進む。
以後も、なぜか第4局の感想なんかが出てきたりして、第5局のほうはどうなっているんだ、と疑問を抱く有様であった。
そして気が付けば、総論のような形で、観戦記は終わっていた。……。もはや、呆気に取られるしかない。
そうか…。これがおカネの取れるプロの記事なんですね。これでおカネがもらえるとは、なんて素晴らしいシステムなんだろう。羨ましい!
…しかしこの程度なら、「将棋ペン倶楽部」において、無償で書かれた投稿のほうがはるかにおもしろい…と思うのはバチ当たりで、私の見方が浅いということなのだろう。おのが読解力、まだまだである。
とにかく将棋も文章も、奥が深い。それが分かったことが、これらの観戦記を読んだ、唯一の収穫であった。