一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

船戸陽子女流二段の揮毫と、タイムマシンで未来から現在へ戻る方法

2009-09-06 00:26:30 | 将棋雑記
8月16日に石垣島から帰京して、21日、久し振りにLPSA金曜サロンに行くと、その日の指導対局担当の船戸陽子女流二段から、直筆扇子をいただいた。
第5回金曜リーグ優勝のご褒美で、私は船戸女流二段を指名していたのだ。しかし本人から直接頂戴するには、担当日が合わないといけない。今回はたまたま白扇が品切れだったのと、私が金曜サロンを2回休んだため授与式が延び延びになり、偶然船戸女流二段の指導日とかちあって、直々に扇子をいただけたというわけだ。
「Je t’aime. とは書きませんでしたから」
私に扇子を渡すと同時に、船戸女流二段が冷たく言う。
うっ…ひょっとしたらと淡い期待は抱いていたが、扇子を開く前に、早くもその楽しみを壊されてしまった。まあいい。そんな揮毫をもらったら、私のことだから、きっとみんなに見せびらかす。そうしたら、これから身の危険を感じながら生活しなければいけないところだった。
扇子には、英語で揮毫されてあった。フランス語が堪能の船戸女流二段のこと、当然ながら英語もペラペラなわけである。凡庸な私とは雲泥の差だ。もう、住んでいる世界が違うのだ。
なんと揮毫されてあったかは、ふたりだけの秘密なのでここには記さないが、英語に疎い私は、単語の意味をたどたどしく和訳していくのみ。たまらずご本人に助けを求めると、いろいろ説明してくださったが、要するに「1日1日を大切に生きろ」ということだった。あれ? 違ったかな??
ともあれこの直筆扇子は、私の宝物のひとつとなった。粋な揮毫をしたためてくださった船戸女流二段には、あらためて御礼を申し上げたい。
ところで、この揮毫で思い出したことがある。私がときどき引き合いに出している、長崎県の喫茶店のマスターの話だ。
人は齢を取ると、あのころは良かったなあ、と昔を振り返る。あの人は若くていいなあ、と羨ましがる。30代の人は20代の人を、40代の人は30代の人を、50代の人は40代の人を、羨望の眼で見る。この思いは幾つになっても変わらない。しかし過去は戻ってこないわけで、済んだことをあれこれ言っても仕方がないわけだ。
そこで考え方を変えてみる。自分の10年後を想像し、そこからタイムマシンで戻ってきたと考えるのだ。自分が現在40歳なら、10年先、すなわち50歳の未来から、タイムスリップしてきたと考える。その際に、50歳の自分は何をしていたかを自問自答することが肝心である。
なにしろ自分は10年間巻き戻って、もう一度人生をやり直せる機会を得たのだ。そう考えれば、10年後に向かって自分がいま何をなすべきか、おのずと答えはで出よう。すると、こんなのんびりした生活はしてられないぞと危機感を抱き、行動を起こせる、というわけだ。
船戸女流二段もこの論法に近いものを無意識に用い、猛勉強のすえソムリエの資格を取得したのかもしれない。
LPSAはどうだろう。LPSAも10年先の未来をしっかり覗き、タイムマシンでタイムスリップしたあと、その目標に向かって着実に活動しているように見える。
では私はどうか。マスターのタイムスリップ論を聞いたのは10年以上前だが、10年が経って、当時立てていた目標が達成できたとは到底思えない。
結婚ぐらいしているだろうとは思ったが、独身のまま。現在も仕事は大して覚えず、バイト君でもこなせるような仕事をしている。加えて最近は、会社の業績自体が芳しくない。毎日ダラけた生活を送り、情けないの一言である。
これからの10年、自分は何をなすべきか。もう一度10年後の自分を想像して、あらためて人生設計を立ててみようと思う。
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角館の美女(第2回)

2009-09-05 10:47:00 | 小説
(第1回掲載は7月31日)

東北旅行から帰京すると、私はフィルムを現像に出した。幸運にも、「角館の美女」は3回も撮影させていただいたが、プリントされてきた3枚を見ると、奇跡的に、すべて素晴らしい出来だった。
このときの旅行は8月25日から9月3日までの10日間だったが、私は雨男で、9日雨に降られた。唯一雨が降らなかったのが角館を訪れた9月2日で、私は天の計らいに感謝した。
私は礼状とともに、その写真を送る。「私はあなたに一目ぼれをしました」としたためようと思ったが、どうしても書けなかった。
旬日を経ず、郁子さんから返事がきた。
「角館でのご遊行はいかがでしたでしょうか。また角館にお越しの際は、ぜひお寄りください」
と書いてあったと思う。全体的に落ち着いた文面で、大人の香りがする。文字も綺麗だった。
「また角館にお越しの際は、ぜひお寄りください」
飛び上がりたいほど嬉しい言葉だったが、これを額面どおりに受け取るほど、私は純粋ではない。さすがに社交辞令だったろう。それにしても「ご遊行」は初めて聞く言葉だった。学のある女性なんだな、と思った。
郁子さんのことは頭から離れなかったが、まだ私は日本各地を旅行したかったし、見聞を重ねるうち、郁子さんとの出会いも懐かしい記憶に昇華すると思っていた。
ところがその後何回旅行をしても、郁子さんの存在は、私の頭の片隅に、しっかり刻みこまれていた。
東北旅行の1年半後、私はある広告代理店に就職した。私は内定をもらうと、バイトとして新卒のみんなより一足先に働くことになった。当時はバブルの全盛期で、会社はネコの手も借りたいほど忙しかった。私は夜間の大学に通っていたので(昼の大学に受かる学力がまったくなかった)、バイトが可能だったのだ。
そのバイト中、中途入社してきた女性に、私は一目ぼれをした。将棋女流棋士の高群佐知子さんに似た古風な容貌で、それから私は、彼女…Yさんと毎日顔を合わせることが楽しみになった。
私は好きな女性の前だとアガッてしまい、まったく話をすることができない。それでも晴れて正社員になると、同期の男性社員をダシにYさんを飲みに誘ったりして、それなりに充実した毎日を送っていた。ただそんなときも、郁子さんの残像は、つねに私の脳裏にあった。
しかし「遠くの女性より近くの同僚」である。私はYさんの誕生日に、彼女の歳の数だけバラの花を買い、自作の小説に自分の想いをこめて、彼女に贈った。しかしそれから、彼女の私に対する態度が固くなった。
同じころ、世間ではバブルが崩壊し始めていた。私はある企業の広告担当代理として営業を続けていたが、その企業の成長は順調で、どんどん社員が増えていく。結果、私たちの部署の存在意義が希薄なものになっていた。その企業は、すでに自社の社員で営業が賄える体制になっていたのだ。
それに反して私の会社全体の業績も悪化し、私たちの部署もリストラの対象となった。もちろん残留する道も残されてはいたが、会社に必要とされていないのに、ミジメにしがみつくのは厭だった。
私は退職を決意する。退職日は7月9日とした。退職を決めたほかの社員は、夏のボーナスをもらうべく、もう1ヶ月勤める人が多かったようである。しかし私は、そんな空虚な雰囲気の中で仕事はできない。とにかく「イチ抜け」をしたかった。ただしその前に、私にはやることがあった。Yさんへの「正式な告白」である。
七夕の夜、私は彼女に電話をかけ、想いを告げた。そのときの彼女の言葉が、私を奈落の底に突き落とした。
「私があなたを嫌っていることを、あなたは気付いてると思ってた」
私は自分を嗤うしかなかった。Yさんに誕生日プレゼントを贈ったときの彼女の反応、その後の数々の言動から、もう脈はないな、と自覚はしていたのだ。それなのに、心のどこかで、一縷の望みを持っていた。しかしそれは哀しい勝手読みだった。
もう自玉は受けなしなのに、まだ指せるともがいていた自分が、可笑しかった。
バッサリと即詰みに討ち取られた翌日、友人ふたりに誘われてカラオケに行った。もちろん私の失恋残念会である。私は喉をからして歌う。すると、涙がどんどんあふれてきた。
涙はどこから出てくるのだろう。自己嫌悪の渦の中、涙は枯れないものなんだな、と思った。
7月9日、退職の日。Yさんはもちろん出社していたが、こちらは合わせる顔がない。思い返せば、私はいままでYさんに粘着的に迫り、さんざん不快な思いをさせてきた。これはその罰なのだ。
別の意味で苦痛の1日が終わると、私は同僚に別れを告げ、一足先に会社を去った。
その後私は、親戚のおじが経営する鉄鋼会社に勤めることになった。この会社も事業拡張の失敗から大幅なリストラを断行したが、力仕事を期待していた若手社員までもが退職してしまったため、失職してブラブラしている私に、声がかかったというわけだ。
ここでの仕事は面白くなかった。広告代理店では好きなように仕事をさせてもらってきた。職場に華やかさもあった。しかしここではほとんど人と接触することもなく、黙々と力仕事をするのみである。環境の激変で神経的にも参り、帰宅するとすぐ仮眠する日々が続いた。だが、ヒトと交わらないことが気楽だと感じたことも事実である。もともと人づきあいが苦手な私には、こうした仕事が性に合っていたのかもしれない。
やがて仕事にも慣れてくると、思いだすのは角館の美女、郁子さんのことである。彼女はいま、どうしているのだろう。
男なんて勝手なものである。Yさんに振られて、今度は郁子さんの存在が頭の中で大きくなっていたのだ。
もう一度会いたい――。
しかしあれから、もう6年近くが経っていた。当時の女性の平均初婚年齢は25.7歳だった。彼女の美貌なら、結婚していてもおかしくない。いや、結婚していないほうがおかしい。でも、一目だけでもいいから、彼女に会いたかった。
ある日、私は彼女あてに、手紙と自作の小説を投函した。唐突の感は否めないが、「私はあなたが好きだったので、もう一度会えませんか――」という趣旨の手紙だ。小説は「角館の美女」というタイトルで、この中に郁子さんへの気持ちをしたためた。つまりYさんへ迫った同じ手口を使ったのである。この迫り方、いまの私なら「待った」をしたい気分である。当時は私も若かったというしかない。
手紙の返事は、当然ながら来なかった。しかしこの結果は覚悟していた。それで私も自分の中で一区切りをつけ、彼女を諦めるつもりだった。
ところが、そうはならなかった。彼女を吹っ切るつもりが、一向に彼女を忘れることができない。手紙を投函してから3ヶ月後、私はついに角館を訪れることにした。この6年間、一度だけゴールデンウィークの時期に訪れたことがあるが、そのときは角館の町に流れる、檜内川沿岸に植えられた全長2キロの桜並木を愛でるだけだった。
今度は彼女に会うためだけに、角館へ行く。それは周りから見れば愚かなことだったのだろう。しかし当時の私のバカな行動は、それはそれで褒めてやりたいと思う。
角館へ赴く前に地元の本屋に入り、彼女の所在地を大まかに把握した記憶がある。
いよいよ角館へ向かう。盛岡で田沢湖線に乗り換え、角館で下車する。駅前通りを突きあたったところを曲がる。彼女の家は近そうだ。
とある工場で働いていた方に声を掛け、彼女の家を聞いてみる。すると意外にもご存じで、おおまかな所在地を教えてもらう。どうも、地元ではけっこう有名な家だったようだ。
田沢湖線の線路を越え、県道に出る。私は無意識に歩を進めると、ある一軒家が目に入った。私は引かれるように、その前に立つ。
表札に、3名の名前が記されてあり、その中に「郁子」という名前があった。
「あった…!!」
私は目を大きく開くと、心を落ち着けるため、深呼吸をした。それを5分くらい続けたろうか。やがて手と足の指先が痺れてきた。過呼吸になったのだ。
この家で郁子さんは生まれ育った。そして、表札に名前があるということは、いまも彼女はこの家で生活していることを意味する。
私はもう一度家の全体を見回す。中に人はいるのだろうか。玄関の戸を開けるのが怖い。心臓が口から飛び出しそうだ。しかし私は彼女に会いにきたのだ。ここで引き返すわけにはいかない。
私は思い切って、戸を開けた。
「ごめんください」
すると、
「…はい」
と返事があった。女性の声だった。
(つづく。次回掲載は未定)
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金曜サロン・神田真由美女流二段③

2009-09-04 00:43:19 | LPSA金曜サロン
7月31日のLPSA金曜サロンの夕方は、神田真由美女流二段の担当だった。
前局では四間飛車で挑んだが、右四間飛車から巧妙に仕掛けられ、手も足も出ず完敗した。勉強のためと己の意地で、もう1回飛車を振りたいところだが、アマチュアがプロを相手に意地を張ってもしょうがないので、今回は居飛車でいくことにした。
なおこの日は植山悦行七段が所用のため休みで、手合い係はイケメンS氏と大野八一雄七段が務めていた。背後のホワイトボードには大野七段揮毫の色紙が並べられており、女流棋士との指導対局の勝利者賞と聞いた。いや、大野七段との指導対局で勝ち星を得た場合の賞品だったかもしれぬ。
私はこの夜、東京都下の立川で所用があったのだが、イケメンS氏が神田女流初段との対局を早めに付けてくれたので、女流の先生に2局教えていただけることができた。こうしたさりげない配慮が嬉しい。イケメンS氏が、ふだんもキッチリと業務をこなしていることが想像できる。
将棋は相居飛車から私の横歩取りとなった。これに対して神田女流二段は、オーソドックスに飛車を△8四に引く。中原囲いにもせず、△7二金。以下後手から角を換わり、桂を跳ね合ったのが以下の局面である。例によって駒の配置を記す。

上手 女流二段 神田真由美:1一香、1三歩、2二銀、3二金、3三桂、4三歩、5二王、5三歩、6三歩、7一銀、7二金、7三歩、8一桂、8四飛、9一香、9三歩 持駒:角、歩2
下手 一公:1七歩、1九香、2六飛、3六歩、3七桂、4七歩、4八銀、4九金、5七歩、5九玉、6七歩、7六歩、7八金、8七歩、8八銀、8九桂、9七歩、9九香 持駒:角、歩2

ここで上手は△2五歩と打った。対してはふつうに飛車を引くところかもしれないが、私は上手の陣形を咎めたくて、強く▲2五同桂と取ってみた。
以下△2四飛▲3三桂成△2六飛に▲3二成桂が詰めろになるのが、上手の壁形を衝いた自慢の読みで、上手は△6二銀の1手が必要となった。
そこで私の手番となったのだが、上手に△2九飛成が廻ると、△6九飛などの手があり下手が忙しい。現在は2枚換えでいちおう駒得ではあるが、早い攻めが要求されるところなのだ。
ここで私は▲8四桂と打った。△9五角なら▲7七角と打ち返し、△8四角なら▲2二角成で、なんとか指せると思った。
実戦は神田女流二段が別の手を指し、その後も難しい攻防が続いたのだが、なんとか幸いすることができた。
これでこの日は指導対局で2連勝。しかもイケメンS氏の機転のおかげで、立川に向かうには十分な時間ができた。私はサロンを辞したあと、新宿でいったん下車し、8月に沖縄へ行くための、飛行機会社の株主優待券を購入した。
そして約束の時間に、立川で知人と合流。しかし、何か忘れ物をしたような…。あっ、色紙をいただくのを忘れた!! …いや、あれが勝利者賞だったとは正式に確認していない。ただの「飾り」だった可能性もある。ま、色紙はまたの機会ということで。
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金曜サロン・藤田麻衣子女流1級④

2009-09-03 00:14:11 | LPSA金曜サロン
旧い話になるが、7月31日のLPSA金曜サロンは、昼が藤田麻衣子女流1級、夕方が神田真由美女流二段の担当だった。
藤田女流1級との指導対局では前局、ピンク攻撃を受けながらも、平手6戦目にして初白星を挙げることができた。その日は当初北海道へ旅行するつもりだったのだが、取りやめにして本当に良かったと、幸せな気分に浸ったのを覚えている。
かつて大山康晴15世名人は、「タイトルは、獲って、防衛して初めて一人前」と言った。その伝で言えば、指導対局も1回勝っただけではダメだ。連勝して初めて、その実力を認めてもらえるのだ。
7月31日は、東京・将棋会館でLADIES HOLLY CUP・井道千尋女流初段VS山口恵梨子女流1級の公開対局があったが、その観戦を振って、駒込での藤田女流1級との指導対局を優先したのだった。
指導対局開始。この日は私の☗四間飛車に、藤田女流1級の☖左6四銀戦法だった。藤田女流1級は公式戦やLPSA公認棋戦などで居飛車穴熊を採用することがあるが、生意気を言わせてもらえば、藤田女流1級は急戦が棋風に合っていると思う。聡明な藤田女流1級のこと、あらゆる定跡を頭に叩き込んで臨めば、たいていの将棋で優勢になれる気がする。
本局は思いきりよく☖7五歩と仕掛けてこられたが、☖4二金上と☗9八香の交換が入っている。これがのちの変化にどう影響するか。☗9八香では☗3六歩と玉の懐を拡げたかったのだが、26日に行われた社団戦の1局目で、☖7四歩を突いたために☗8六桂で玉のコビンを狙われ、逆転負けの一因となってしまった。それが頭にあって、どうしても☗3六歩を突けなかったのだ。これが実戦心理である。
☖7五歩~☖8六歩~☖7二飛~☖7七角成に、すぐ☗同桂と角を取らず☗7三歩と飛頭に叩くのが習いある手筋。以下数手進んで、上手が☖5八馬と金を取らず、☖7五馬と引いた手がやや甘かったか。
局面の説明は省くが、私は9一で手にした香を☗3三香と打つ。これに☖同金と取ったのが敗着となった。以下☗4一銀☖4二王☗5二銀成☖同王☗4一角で、なんと上手王が即詰みになってしまったからだ。
「アレッ? 詰んじゃった…」
と藤田女流1級。
いつもはこちらがココセのような手を指して即詰みに討ち取られていたのに、珍しいことがあるものだ。しかし勝つときはこんなものである。
なお☖3三同金では危ないようでも王で取る手が正着で、以下☗2一竜なら☖4四王の早逃げが好手。これで上手の王は捕まらなかったと思う。1手すけば☖3九銀の反撃があり、これには玉が端へ逃げる1手で、下手は相当に危険な状態だったのだ。
最後はやや呆気なく、僥倖の勝利だったが、やはり勝てれば嬉しい。これでまたひとつ借金を減らすことができた。植山悦行七段は以前から「1局勝てば流れが変わりますよ」と激励してくださっていたが、はたして今後もその流れが続くだろうか。次の対局で勝利すれば、苦手意識(と、アマチュアが言うのもおかしいが)を払拭できそうだ。
なおこの勝利で、扇子サインラリー3本目の、初サインを得ることができた。最初の揮毫者が藤田女流1級とは縁起がいいが、この日は白扇が品切れで、名前の揮毫は後日となった。残念。
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「将棋ペンクラブ」への情熱

2009-09-02 00:35:00 | 将棋ペンクラブ
29日(土)午前、珍しく私あてに電話があった。将棋ペンクラブ幹事のW氏からである。次号掲載予定の、私の原稿内容についてだった。原稿の件ではいつもメールでやりとりしているので、電話でのそれは珍しい。
「あのー、原稿の最後のほうで、カギカッコが最初のしか付いてませんよね。あれ、閉じなくていいんですか?」
「ああ、あれ、閉じてませんでしたか?」
「いま、戴いたワープロ見てるんですけど、閉じてませんでした」
「…そうか、あれは回想という設定なんで、最後に現実の世界へいきなり戻される、って感じを、カッコを閉じないことで表現したかったんですけど」
「……」
「やっぱり閉じたほうがいいですね。でも直せますか?」
「大丈夫です」
「じゃあ閉じましょう! 閉じてください!」
というやりとりをした。
季刊「将棋ペン倶楽部」の編集は、幹事が手分けをして行っている。もちろん専任というわけではなく、みなさんほかに職業をお持ちだ。だから冊子の発行に関しては、無償での労働ということになる。さらにいえば、投稿者にも謝礼は出ない。過去に観戦記者の田邊忠幸氏や、代表幹事の湯川博士先生の連載があったが、いずれもギャラなしの寄稿だったと聞く。恐らく原田泰夫九段や西本馨七段の連載も、無償だったはずである。当然ながら私も、原稿掲載に関して謝礼は一切もらっていない。しかし全国にその原稿が渡る以上、私も七転八倒し、ないチカラを振り絞って奮闘しているのだ。
幹事の心はただひとつ、「将棋のよりよい文章」を世に示したい、その一心である。そこに営利追求は介在しない。
3月に将棋ペン倶楽部最新号の発送作業を手伝わせていただいた日の夜、湯川先生と酒席をともにしたとき、湯川先生は、
「ペンクラブの書き手はアマチュアだよ。だけど人様から会費をいただいている以上、ボカァそれに見合った文章を載せたい。だからみんなに何度でも書き直してもらって、文章の質を向上させたいんだよ」
と熱っぽく語られていたものだった。
今回のW氏の電話も、「文章に少しでも疑問があれば執筆者本人に質し、完璧な出来にしたい」という職人魂の表れからだったと思う。その情熱に、私は畏敬の念を抱く。そしてこうしたスタッフばかりの団体だからこそ、私も安心して原稿が書けるのだ。
ちなみに私はW氏に原稿を送信したら、その内容は忘れることにしている。そして発行された最新号を、夜のとある喫茶店で、新鮮な目で読むのだ。これを至福の時間という。
次号秋号の発行は今月上旬である。自宅に送られてくる日を、私は指折り数えて待っている。
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