「yottinちゃん、あなた若くなったんじゃないの」
70に近い私を、未だにyottinちゃんと言う女性、それでもすぐに「いやだあ、社長さんなのにねえ、ごめんなさいね」
「ずっと、そう言ってたから、クセになってるのよね、ごめんなさいね」
「別にyottinのままでいいですよ」と私
店のフロントでそう言ったのは、60数年前に私を担当してくれた当時の幼稚園の保母さんFさん
当時は20歳そこそこのおねえさんだった。 その後、市役所職員と結婚して、旦那様は教育長にまで
なられた。
父が魚屋の店をもって引っ越した近所にこのF先生は住んでいて、直にお客様になった
父は彼女のことを「yottin先生」と呼んで、請求書も「yottin先生」、昨日もF先生とその思い出話で
盛り上がった、F先生も80歳を過ぎたが健在で、同級生女子4人で毎月同級生月例会を我が店で行っている
11時から3時過ぎまで、昼食を挟んで語り明かしていく、杖を頼りにやっと歩いている人もいるが
この月例が待ち遠しいという
F先生の旦那様も元気で、まだ軽登山くらいはやる元気があるが、先日免許証を返上して「不便になった」と
嘆いていた
この旦那様も俳句に詩吟、登山、同人誌などかなりの文化人で、地域の区長さんも勤めたがその時には
障害児の我が子の為に奔走してくださった恩人でもある。
この家との繋がりは少しある、F先生のおねえさんは、父が魚屋を営んでいたとき、20年近くずっと
店番に来てくれていた、彼女の夫は25歳頃に3人の娘を残して、仕事中に事故で亡くなった
それ以後、女手一つで下宿屋をやりながら子を育て、昼間の閑時間にわが家の店番をしてくれていた
その後、下宿していた県庁職員と再婚して、新潟市へ行ったけれど、その後、私も新潟市で店に住み込み修業
に出た。 月3回の休みには、F先生のおねえさん(「おばさん」と呼んでいた)のアパートへ遊びに行って一日を過ごした
預金通帳と印鑑も、おばさんに預けて、給料をもらうと半分の1万円をおばさんに預けて貯金してもらった。
そんなことで安月給ながら、3年間で当時の30万円貯めたのだからなかなかのものだ。
そのおばさんも60歳くらいで亡くなり、県庁のおじさんも落胆して憔悴、1年待たずに亡くなってしまった
まるで私の両親同様の最後であった。
でも妹のF先生は健在で元気いっぱい、もう10年は間違いなく、おつきあい出来そうだ。