戦はますます激しくなるようで兵隊も鍛冶屋職人も足りなくてひいのような田舎出の者は労働力として求められていた。
ひいは作兵衛鍛冶屋に雇われた、名前を聞かれたので「中村のとおきち」と答えた、咄嗟だった、遠くから来たから「とおきち」と思い付いたのだ
その日から「とおきち」と呼ばれた。
兄貴分の職工が3人と作兵衛親方、親方の甥の5人の鍛冶工場だ、作兵衛親方はたたき上げの頑固一徹な職人、歳は40半ば、かなり歳の離れた女房と暮らしている
30そこそこのおかみさんは作兵衛親方と逆に優柔不断なちょっとした色気がある女だった。
甥の小兵衛は唯一読み書きそろばんができるインテリで、それを鼻にかける嫌な男だ、兄弟子たちは久しぶりの後輩の「とおきち」を待ってましたと虐める。
小柄で、ちょっと小利口で自分たちを見下げたような顔が気に入らない
「とおきちだと、おまえにはもったいない立派な名前じゃの、俺が名前を付けてやろう」と言って
「そうだな、お前の顔は猿じゃ、サルというのはどうだ」、それから兄弟子も甥も「サル」と呼ぶようになった。
世の中の無常と苦渋を舐めてきただけ、とおきちは強い、腹の中ですでに奴らを吞んでいる
身軽であるから梁などにも上るし機械の修理なども親方に仕込まれた
道具の扱いも器用だったからすぐに覚えた、都会で暮らすうちに言葉遣いも身だしなみも少しずつ覚えて猿は人間になりつつある。
一か月もたつと兄弟子たちも、とおきちの中に薄気味悪さを感じだした、いくら嫌味を言っても答える様子がない、時折鋭い眼光が威圧することもある、しかも時々得体のしれぬ危なそうな男たちと外で話しているのを見る
仕事を次々と覚えていくし、作兵衛親方も「とおきちを見習え」などと先輩である自分たちに言うようになった
インテリの小兵衛は読み書きができるのが自慢なのに、とおきちはどこで覚えたのか読み書きできるのだ、それは驚きであった
聞いても、とおきちは中村の百姓の出だ以外は何も過去を明かさない、物知りだし、「ああ見えて、どこかの武家の庶子ではないか」などという噂まで出てきた
小兵衛までもがそれを信じて、「とおきちさん」と呼ぶ始末だ
とおきちはあくまでも下手で小兵衛に話しかけた
「小兵衛様、お願いがございます」
「なに、なんですか?」うろたえている
「わしは学問がないのでどうかそろばんを教えてもらいたいのです」
「わしをからかっているのか! いや、からかわないでくださいよ」
「とんでもない、字は名前くらい書けますがそろばんが全く。恩にきますから」
「そこまで言うなら、教えてもいいが」
「わずかですが礼はします」と言って、三蔵からもらった、戦の戦利品のちょっと良いかんざしを渡すと小兵衛は驚いた。
それから三日に一度、計算を習うとめきめき上達して商店の丁稚ができそうなくらいになった。
ところが、とおきちがが入って2年後、突然作兵衛親方が毒を食らって死んでしまった、葬式が済み、おかみさんが後を継ぐことになった。