長尾為景が宇佐美と和睦して以来、越後は戦も起らず穏やかになった
しかし為景は、かって上杉と戦を行った時、敗れて越中の国士を頼って落ち延びたが、逆に裏切られて危うくなり、佐渡へ逃れたことがあったが、その時の越中勢のことをずっと恨みに思っていた。
天文七年三月、ついに越中退治を屋形の上杉兵庫頭定実に告げて、軍勢を整えて、宇佐美駿河守と両大将となって越中国へ乱入した。
まず唐人兵庫、山下佐馬介が籠る、松倉の城へ宇佐美駿河守が二千騎で攻め寄せて、ひたひたと城際まで攻め寄せて攻撃を始めたが、越中勢は少しも屈する気配がない
矢石を飛ばして抵抗する、やがて城門が開き、山下佐馬介が郎党二百騎を率いて寄せ手の中に攻め寄せた。
越中勢は左右、前後当たるところで切りまわり、両軍互いに揉み合えば手傷死人多くなり、ついに勝敗はつかず、その日は共に引き上げた。
その後は城方は堅く門を閉じたまま出てくることがなく、互いに弓、鉄砲を放ち合うだけであった。
城方は加勢を頼むべく、越中国内各地に密使を走らせた、小出、魚津、滑川の城から後詰が発ったと聞いた為景は、それに対して備えた。
宇佐美駿河は「他国での戦、味方は地理を知らず、敵は地理を知って自在に動き回っていかなる謀をするか見当もつかぬ、速やかにこの城を落して、我らの根城とするのが賢明である」と言って、五百騎を道に伏せ、僅か二百騎を率いて弱弱しく攻めかかれば、城中よりこれを見て、唐人兵庫は「越後勢、恐れるに足らず」と兵を三段に分けて攻め寄せて来た。
宇佐美勢は劣勢、たちまち散々に打ち破られて逃げ惑う、唐人兵庫は勢いに乗って「この機に乗じて突き崩せ」と遮二無二攻めかかって来た
そのころ合いを見て、宇佐美の五百騎の伏兵は一斉に、敵の伸びた真ん中に突きいれると、驚いた越中勢は混乱となって、我先に城へ逃げ帰る
しかし宇佐美の精兵は逃がさず、付け入れば柵を壊し、城戸を破って城内に攻め込み縦横無尽に切りまわれば、山下佐馬介を始め四百の郎党、一人残らず本丸に火を放って自害した。
この混乱に乗じて、唐人兵庫は搦め手より逃れ出て、小出の城に逃げ込んだ。