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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 140 秀吉と小早川隆景の駆け引き

2023年01月30日 17時37分39秒 | 貧乏太閤記
 数日たって秀吉は真剣に秀頼の将来を考え始めた、何といっても自分の後継者として関白職にまで上げた秀次が一番の問題だ。
秀吉が考えたのは、自分の目が黒いうちに秀次から権力を奪い、秀頼に天下を渡すことである。
秀次はまだ24.5歳だ、秀頼は生まれたばかり、さすがに秀頼に政権運営は無理だ、少なくともあと10年は秀次で行くしかない、
だが自分はどうなる10年後は65.6か、まだいけそうな気はする、だが万一もあるし、もし秀次がかっての織田信雄のように有力大名に利用されるかもしれない、秀吉には甥の秀次がいかにも危うく見える
そこまで考えると、徳川家康、伊達政宗などが目に浮かんできた
今はまだ、前田利家殿、子飼いの宇喜多、加藤清正、福島正則らが居るから安定していると言えよう、だがもう一枚有力な力が必要だ
だが秀次が盤石になれば、今度は秀頼が危うくなる、秀次の力を限定すれば、徳川や伊達が出張る
「家康にはちょっと領地をやりすぎた」、関東250万石のことだ、秀吉の直轄地よりも大きな領土を持っている、
秀吉はあまりにも大盤振る舞いしすぎたのだ
それは秀吉の根本的な弱さであった、自分が織田信長の一兵卒である時に、家康はすでに信長の同盟者として三河30万石の大名だったのだ。
足元にも近づくことが出来ない大物であった、それがいまだに家康に対するコンプレックスになっている。
ほかにも前田利家に90万石、蒲生氏郷にも92万石、毛利は120万石、秀長の遺領大和100万石は甥の秀保に与えたが、秀次の弟だ。伊達、宇喜多、小早川、島津なども50~60万石を与えている
秀次も近江、尾張、伊勢100万石なのに、秀吉自身も畿内に100万石ほどあるだけで、前田、蒲生並みであった、これもみな過ぎたる気配りなのだ。

「毛利を我が物にするか!」ひらめいた。
毛利輝元は40過ぎたが男子が居ないのだ、ここに秀吉の一族を当てはめれば
毛利120万石は完全な親族となる。
(だれぞいたか?) 考えた「そうだ、ねねの甥の木下秀俊が良い」
早速、ねねの兄の木下家定に問い合わせると
「あれは五男坊でございますから、願ってもないありがたいお話です、だが勤まりましょうや、120万石の太守が」
「ははは、気にすることはない、毛利中納言はまだ若い、あと10年ほど頑張ってもらい、その間に秀俊は主君の道を学べばよいであろう。
この時、秀俊は11歳であった。
 秀吉は、安国寺恵瓊を呼んで、秀俊の毛利家の養子の打診を命じた
数日が立って、安国寺恵瓊が大坂に戻ってきて言うには
「毛利家養子縁組の件について、小早川隆景さまが大坂に参って殿下と直接、お話したいとのことであります」と書状を渡した。
「朝鮮から戻り、領国経営の立て直しの途中であり、旅程を加味して1か月の猶予をいただきたい」とのことであった。

 一か月後、小早川隆景が秀吉を訪ねて、大坂城にやって来た
秀吉がまだ信長家臣だった1582年には、備中高松城で対決していた両者であったが、今は天下人秀吉と、それを支える権大納言隆景と変わっていた
秀吉は56歳、隆景は60歳になった。
「この度は、わが本家の主、毛利輝元に太閤殿下のお子である豊臣秀俊さまを養嫡子にとの、勿体なきお言葉をいただき、主、輝元も感涙しております。
しかしながら我が弟、穂井田元清の次男が、すでに輝元の養嫡子として入っておりますので、ご辞退させていただくしかございません。
まことに失礼なことと存じながら、あえて申し上げさせていただきます
毛利一族として、太閤殿下との深き絆をより深くしていただければ、これほどの喜びはありませぬ
そこで、輝元のご養子となされるつもりでありました豊臣秀俊さまを、この私めの養嫡子としていただけますなら、これほどの喜びはありません
伏してお願い申し上げます」
秀吉も驚いた意外な提案を、小早川隆景が持ち込んできた
(毛利本家を儂に乗っ取られることを察して、隆景め苦心の一手を打ってきたというわけか、さすが毛利元就の息子じゃ、よお見透かして居るわ、仕方あるまい、小早川とて毛利を支える一番の名家だ、隆景めに花を持たせるしかあるまい)秀吉は苦笑いした。
中国地方で大内氏に仕えていた一領主であった毛利元就は、一代で中国十か国を切り取って支配した男である
次男、三男を吉川家、小早川家の養子に入れて結果的には乗っ取った、これが吉川元春、小早川隆景である。
信長も同じことをやっている、伊勢の神戸家に織田信孝を養子に入れ、次男の信雄を北畠に入れて、両方とも乗っ取ったのである、戦国大名の常とう手段である、それを隆景は秀吉から未然に防いだのだった。
「大納言、そなたは秀俊を嫡子に迎えると申すが、そなたには秀包(ひでかね)という立派な跡取りがいるではないか、それはどうするつもりじゃ」
「ああ、秀包でございますか、あれはもともと拙者の弟であり養子でございました、しかも殿下からすでにご領地をいただいておりますから、独立させるには何ら困ることはありません、秀俊さまがわが子となれば、すぐにでも廃嫡いたします」
「なるほど、息子かと思ったが弟であったのか、知らなんだわ
儂の人質となっておったが、儂は息子と思って、あらゆる戦に連れて行ったものじゃ、なかなか勇敢であったし手柄も立てた、だから大名としたのである、此度の朝鮮でもたいそうな働きをしたそうじゃな」
「殿下、話は変わりますが、この度、若君が誕生されまことにおめでとうございます」
「うむ、儂もこの齢で思いがけぬ天からの授かりものであった」
「いやいや、殿下、これからでありますぞ、まだまだ3人でも5人でも、お子を作りなさいませ」
「ははは、歳じゃ無理であろう、まもなく儂もそなたと同じ六十になるばかりじゃ」
「まだまだ、お若い、わが父、元就に秀包が生まれたのは71歳でありましたぞ」
「なんと、それは素晴らしい、それを聞いたら、なんだか元気が出てきて、やれそうな気がしてきたぞ」
「それはよろしい、是非、弟君をおつくりくだされ」
このようにして、秀吉の養子だった木下秀俊は、小早川隆景の養子となって小早川家を継ぎ、のちに小早川秀秋と名を改めた。
一方、毛利本家に後継ぎとして養子に入った、穂井田秀元には、秀吉が命じて故、豊臣秀長の娘を正室として娶らせた。
これで毛利家の子には豊臣家の血が混じることになった、秀吉もただでは起きない食わせ物であったのだ。




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