昨日、録画しておいた米映画「天国の奇跡」を見た キリスト教の宣伝みたいな映画だが
女の子の病気をテーマにした、ほのぼのとする映画でもあった
神様の存在を純粋に信じていた少女に奇跡が起きて、難病が治癒するという単純なストーリー
神の存在など全く信じないジャーナリストは最愛の娘を癌で失ってしまう、それが伏線になっている
少女の魂はあの世に行って、神と対話し、そして生き返る
私の血縁の祖父は、私の祖母の家(茨城県)に婿として入り、父が生まれた
しかし血縁の祖父は父が2~3歳の時に、祖母と、祖母のの義父と折り合いが悪くなり離婚して出て行った
血縁祖父はそこで、わが家と縁が切れてしまったのだが、東京へ出て再婚し世田谷の成城に間借りして住んでいた
戦争が激しくなって生まれ故郷のこの町に、着の身着のままで帰ってきたのだ
その再婚相手は山形出身の人で、敬虔なプロテスタントであった
東京はともかく、この田舎町にも小さな教会があったが、血縁祖父の再婚相手はすぐに通いだした
しかし田舎町故、信者も少なく彼女は教会の中でも経験者として重宝され、今も牧師さんは彼女を開拓者と
賞賛する。
彼女はもう亡くなって30年くらいになるだろうか、豪雪の冬だった
彼女が亡くなる前に残した言葉は「**さん(病弱な自分の一人息子、彼女は息子を「さん」付けで呼んでいた)
を頼みます」だった
彼女は癌で亡くなったのだけれど、苦痛と闘うのを見た人が「痛くない?大丈夫?」と聞くと
「天国で神様に会えるのだから、痛さなんか我慢できるよ」と山形訛りで言っていたという
あの映画の少女と全く同じだと思った
あの映画のハイライトシーンの一つに、モネの「睡蓮」の絵がクローズアップされる
少女は吸い込まれるようにその絵の虜になる、それは後日彼女が行った天国そのものだった
私は国立西洋美術館で「モネ展」を見た、だがもしかしたら「コロー」だったかもしれない
記憶がごちゃごちゃになっている
モネを見たのは女房殿の父親だったかもしれない、画集を見せてもらった気がする
睡蓮の咲く、小沼の風景と色彩は確かに不思議な安らぎの世界を映している
キリスト教にもきらびやかで荘厳な貴族宗教カトリックと、アメリカ開拓移民等の間に起こった
形式を簡略化した大衆宗教プロテスタントという大きな違いがある2つのキリスト教
日本の朝廷や武家の永遠の安寧を願うに寄与した禅宗、戒律も修行も厳しい世界
文盲で宗教もない救われぬ大衆を簡単な経文で救おうとした門徒(日蓮宗、浄土宗、浄土真宗など)
旧教、新教の構造としては似ている
*言葉と知識不足による謝りはお許しください
戦後間もない東京隅田公園での「蟻の町のマリア」と讃えられた北原怜子さんは、上流家庭の娘だったが
戦後溢れた浮浪児たちの暮らしを守ろうとしてバタヤ集落に身を投じた
我が身を振り返らず、苦しむ人々に愛をもって接する心こそキリスト教の本来の姿
彼女はカトリック信者だった
血縁祖父の妻は、プロテスタントだった、私も彼女を知っているが、まさにプロテスタントだった
血縁祖父の頭は、ずば抜けて良く、親戚の間では「良い家柄に生まれれば、校長先生か学者にでもなれただろう」と
言われていた。 残念ながら生涯をリヤカー一台での「ぼろ買い」、今で言う廃品回収業で終わった
その妻は「あねさんかぶり」をしてリヤカーの後押しをしていたのだ
そんな貧しい暮らしだったが、回収した百科事典や美術書を読みあさり、地域の山に埋もれた古道の石碑を
探し当てて碑文を収集したりして、その修学欲を満たしていたのが血縁祖父だった
わが家の(別れた妻の)1200年に及ぶ家系を調べたのも血縁祖父だった、その1000字ほど書き残した文を
頼りにネット時代を活用して私がそこに出てくる名前の一人一人を徹底的に調べ上げて250年前までを
明らかにしたのだった、全ては血縁祖父のその一文にある。
「おまえは、祖父にそっくりだ」と父はよく言ったものだ、それは決して褒め言葉ではなく、生涯働き続けた父が
貧しく、しかし気楽に生きた血縁祖父に対する罵詈雑言であった。
明治のジョンレノンそっくりな血縁祖父は、その再婚妻のもとで俄プロテスタントになった、一人息子には
プロテスタントの洗礼を受けさせて信者にした。
血縁祖父には全く宗教観はないから、偽プロテスタントを誰も信じない、大ホラフキまではいかないが、
出来ないことを「ほらを吹く」とだれも信じなかった
キリスト教の葬儀は、神道同様、神に召されて天に昇る「めでたい日」なのだ
うちの店でも結婚式にはチャペル式(チャペルはないが簡易的に設ける)の場合、牧師さんを頼んで式を挙げた
勿論、新郎新婦の98%は俄信者である。
同じ司祭者でも、カトリックは神父さん、プロテスタントは牧師さんと呼び方が違う
結婚式の時の笑い話
私が、牧師さんに「新婦(しんぷ)さんは*****?」と問合せをしたら、牧師さんが勘違いして
「私は神父(しんぷ)ではありません、牧師です!」