おはようございます。アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリングを行う ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
昨日(9月7日)は某航空会社様で午前中48名、午後43名の受講者を対象に
アドラー心理学を活用したコミュニケーション
のタイトルの研修をそれぞれ3時間行ってきました。
(1)アドラー心理学のあらまし と(2)勇気づけのリーダーシップ が2本柱でした。
かなりノリのいい人たちで、いつものように2人一組で討議・演習を交えながら進め、講師としても進めやすい研修になりました。
後半の受講者の中で私の本をすでに読んでいて、サインを求めにお越しの方が2人もいたのには感動しました。
さて、ヒューマン・ギルドの過去のメルマガに書いた原稿をブログに転載する第13回目です。
アドラー心理学で発想したら(13):認知論(1) ―『薮の中』
「人間は意味の領域を生きている。われわれは状況をそれ自体として経験することはない。いつも人間にとって意味があるものだけを経験するのである」
アドラーの『人生の意味の心理学 上』(岸見一郎訳、アルテ)の冒頭部分にある言葉です。ほどなく次の言葉が続きます。
「人間は意味を離れて生きることはできない。われわれは現実を常にわれわれがそれに与える意味を通じて経験するのである」
このことは、10人が同じ場所にいて共通の体験をしたとしても、受け止め方が十人十色であることを意味します。
共通の体験についても10人それぞれが別の受け止め方をし、ある人は「悲惨だった」と言い、また別の人は「貴重な体験だった」と言うかもしれません。
またある人は、「悲惨でもないし、貴重だと言うほどのことでなく、ごく普通の出来事だった」という言い方をするかもしれません。
それぞれの人が、その人なりの体験や知識をもとに独特の解釈を加えて、違った受け止め方をするのです。
黒沢明作品の映画の「羅生門」の原作になった芥川龍之介の短編『薮の中』では、平安時代に起きた殺人と強姦という事件をめぐって4人の目撃者と3人の当事者が告白する証言がまるで違います。
事件がまるで「薮の中」になってしまう例を引くまでもなく、経験そのものを違った語り方をするのです。
アドラーは、それまでの客観主義的な捉え方に立つ心理学から抜け出て ― 今日ではあたりまえですが ― 人それぞれに認知のパターン(アドラーの言葉では「統覚(認知)のスキーマ」)が違うとの見解に立ち、「人は記憶を作る」とも言っています。
この考え方は、アドラーに先立つ行動主義心理学の「刺激―反応」モデルに対する大胆な挑戦でした。
アドラーは、外界の出来事に対して主観的な意味づけを行って応答すると捉え、「刺激―認知―反応」モデルの先駆者になったのです。
なお、男女、カップルの認知上の違いは『男と女のアドラー心理学』(青春出版社、1,400円+税)でもふんだんに取り上げています。
冒頭の「元看護師の手記」と第4章の「酒井医師の手記」では、1つの事実に対して、それぞれがまったく別の受け止め方をし、そのことがもとで亀裂が生じたケースが語られています。
相手に共感し、認知を共有化することで修復への道を歩めることも述べています。
◆「アドラー心理学で発想したら」シリーズの1回目から12回目は、次のとおりです。
1回目 5月12日 自己決定性(1)
2回目 5月15日 自己決定性(2)
3回目 5月19日 自己決定性(3)
4回目 5月28日 自己決定性(4)
5回目 6月1日 自己決定性(5)
6回目 6月8日 自己決定性(6)
7回目 6月14日 目的論(1)
8回目 7月1日 目的論(2)
9回目 7月7日 目的論(3)
10回目 7月11日 目的論(4)
11回目 8月1日 目的論(5)
12回目 8月28日 全体論
<お目休めコーナー>9月の花(7)
(クリックして勇気づけを)