見もの・読みもの日記

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二項対立を疑う力/メディア危機

2005-07-04 12:05:02 | 読んだもの(書籍)
○金子勝、アンドリュー・デウィット『メディア危機』(NHK Books)日本放送出版協会 2005.6

 昨秋、両氏は藤原帰一氏、宮台真司氏とともに『不安の正体!-メディア政治とイラク戦後の世界』という対談集を公刊した。しかし、同書は、論客を揃え過ぎて、かえって消化不良に陥っているように感じられた(という感想をこのブログに書いた)。

 本書は、既存の権力が、いかに巧妙に社会のセキュリティ不安を煽り立て、都合のいい方向に世論を操作しているかを指摘する点で、基本的に対談集の趣旨を受け継ぎ、豊富な実例、よく吟味された展開によって、昨秋の対談集を補う好著である。

 内容は、イラク戦争をめぐる「政治とメディア」、民営化=絶対善という信仰がまかりとおる「経済とメディア」、安直なステレオタイプ思考によって助長される差別とナショナリズムを問う「文化とメディア」の3章からなる。

 著者によれば、米国社会は、言論の自由と大衆民主主義の砦という「表の顔」とは裏腹に、政治権力によるメディア操作、およびメディアを通じた大衆操作の技術が高度に発達し、莫大な資金が投下されているという。他者の発言を戦略的に引用したり、憶測を事実と思わせる言い回しを用いたり、時には直接、報道を差し止めたり、衝撃的な出来事がニュースとなる時に別の情報を流して問題から関心を逸らさせるなど、さまざまな技術を駆使する彼ら(たとえばホワイトハウス報道官)は「スピン・ドクターズ」と呼ばれる。

 カナダやイギリスでは、メディアに対する批判的思考を育てる「メディア・リテラシー」科目が、1980年代後半から、公教育に取り入れられてきた。これは、スピンの根底に潜む利害関係を理解し、スピンの手法を見抜く方法を学ぼうというものである。しかし、米国では「スピン・ドクターズ」の壁が強固なため、メディア・リテラシー科目の普及が非常に遅れている。米国に追随する日本社会においても同様のことが言える。

 今日のメディアが最も得意とする手法のひとつが「二項対立の強調」である。慎重な議論を必要とする複雑な問題を、○か×かに単純化する手法は、分かりやすくて「良心的」という誤解さえ招きがちである。

 実は先週、私は職場で「ディベート」の研修を受けた。小中学生の子供を持つ知人の話では、最近は、日本の学校も「ディベート」をカリキュラムにも取り入れているそうだが、私は、高校生の頃、「アメリカの学校では『ディベート』なるものを習うらしい」と噂に聞いて、「なるほど、アメリカでは、そうやって思考力を養うのか」とむやみに感心していた世代である。

 しかし、初めて体験した「ディベート」に、私はものすごく違和感を感じてしまった。これって、短い時間に限られた情報だけを材料に、無理やり○か×かの判断を下すだけのゲームじゃないのか。まあ、わずか1日の体験で「ディベート」のよしあしを言うことはできないけれど、こういう思考方法に慣れてしまうのは、ちょっと恐ろしいことなんじゃないか、という気がした。

 「我々の側に立つか、彼ら(テロリスト)の側に立つか」と言って、対イラク参戦を迫ったブッシュ大統領にしても、「(民営化に)反対するものは全て抵抗勢力」と言い切る小泉首相も、要するにこの単純な二項対立をタネに、メディアを支配し、大衆を揺さぶりにかけているのである。二項対立に還元されない思考力を養うこと。それが、メディアの支配を逃れる鍵なのではないかと思った。

 また、米国社会の「二項対立好み」は、アメリカ人が、ヨーロッパ人に比べて、はるかに「宗教的」であることと関連があるかもしれない(40%のアメリカ国民が世界はキリストと反キリストの戦いによって終わると信じている)。この指摘も興味深かった。アメリカン・ウェイは決して全ての「グローバル・スタンダード」ではなく、むしろ、先進諸国の中で米国は例外的な社会であるということ、この点も忘れないでおきたいと思う。
コメント
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