○志賀直哉『小僧の神様・城の崎にて』(新潮文庫) 新潮社 1969.7
読みたいものが切れたので、手近にころがっていた文庫本に手を出す。去年の夏、久しぶりに『清兵衛と瓢箪・網走まで』を読み直して、ちょっとした衝撃を受けたあとに買って、そのまま寝かせておいた1冊である。
『清兵衛と瓢箪・網走まで』が、志賀の初期代表作を集めたものであるのに対して、本書は第2期(30代~40代前半)の作品を収める。巻末の解説者が書いているように「若い頃の刺戟の強いどぎつい作風は次第に影をひそめ」ている。けれども志賀は、どんな人間も、不埒で我儘な心の闇(いちばん典型的なものは愛欲である)を抱えていることを、相変わらず冷徹な筆で描き出す。
「雨蛙」は、田舎町に暮らす文学愛好家の夫とその妻の話。妻は無口で万事受動的な田舎女である。あるとき、小説家と劇作家の講演会に、ひとりで出かける羽目になった彼女は、彼らの旅館に同宿して、思わぬ一夜を過ごすことになってしまう。翌日、夫は、事のなりゆきを知って動揺しつつも、不意に妻を「抱きすくめたいような気持ち」にかられる。
「流行感冒」は、主人公(私)のところの若い女中が、しゃあしゃあと嘘をついて、禁じられていた芝居見物に出かけていたことが分かる。「私」は激怒して彼女を追い出すが、許されて戻ってきた女中は、流行感冒に冒された一家のために献身的に働く。それは、失敗の取り返しをつけようという気持ちではなく「もっと直接な気持ちかららしかった」と作者は書く。つまり、人間は嘘をつくし、欲望に負けるし、怒りに我を忘れる。けれでも、そういう人間と折り合って生きていくのが、人生のいとおしさだ、と言っているように感じた。そういう「生」に対する醒めた愛情が、「城の崎にて」の「死」に対する感慨の裏側にあるように思う。
「瑣事」以下の4編は、祇園の茶屋の仲居との「浮気」と、それを知った妻の動揺を描いた連作。でも、作者の視線は、祇園の女が自分に向ける技巧的な恋情も、自分が女に執着する気持ちも、奥の奥まで見透かして描いている。この冷徹さが、同じようなシチュエーションを描く大衆恋愛小説とは一線を画すところかな。
読みたいものが切れたので、手近にころがっていた文庫本に手を出す。去年の夏、久しぶりに『清兵衛と瓢箪・網走まで』を読み直して、ちょっとした衝撃を受けたあとに買って、そのまま寝かせておいた1冊である。
『清兵衛と瓢箪・網走まで』が、志賀の初期代表作を集めたものであるのに対して、本書は第2期(30代~40代前半)の作品を収める。巻末の解説者が書いているように「若い頃の刺戟の強いどぎつい作風は次第に影をひそめ」ている。けれども志賀は、どんな人間も、不埒で我儘な心の闇(いちばん典型的なものは愛欲である)を抱えていることを、相変わらず冷徹な筆で描き出す。
「雨蛙」は、田舎町に暮らす文学愛好家の夫とその妻の話。妻は無口で万事受動的な田舎女である。あるとき、小説家と劇作家の講演会に、ひとりで出かける羽目になった彼女は、彼らの旅館に同宿して、思わぬ一夜を過ごすことになってしまう。翌日、夫は、事のなりゆきを知って動揺しつつも、不意に妻を「抱きすくめたいような気持ち」にかられる。
「流行感冒」は、主人公(私)のところの若い女中が、しゃあしゃあと嘘をついて、禁じられていた芝居見物に出かけていたことが分かる。「私」は激怒して彼女を追い出すが、許されて戻ってきた女中は、流行感冒に冒された一家のために献身的に働く。それは、失敗の取り返しをつけようという気持ちではなく「もっと直接な気持ちかららしかった」と作者は書く。つまり、人間は嘘をつくし、欲望に負けるし、怒りに我を忘れる。けれでも、そういう人間と折り合って生きていくのが、人生のいとおしさだ、と言っているように感じた。そういう「生」に対する醒めた愛情が、「城の崎にて」の「死」に対する感慨の裏側にあるように思う。
「瑣事」以下の4編は、祇園の茶屋の仲居との「浮気」と、それを知った妻の動揺を描いた連作。でも、作者の視線は、祇園の女が自分に向ける技巧的な恋情も、自分が女に執着する気持ちも、奥の奥まで見透かして描いている。この冷徹さが、同じようなシチュエーションを描く大衆恋愛小説とは一線を画すところかな。