○内田樹『知に働けば蔵が建つ』(文春文庫) 文藝春秋 2008.11
売れっ子の内田先生がまた本を出されたことを、ネットの広告で知った。「私が諸君に伝えようとしているのは雑学ではなく、教養である。どうも諸君は『雑学』と『教養』の違いをご存じないようである」という売り文句(本書の「まえがき」の一部)がやけに気に入ってしまって(ふふふ、と同感の笑みが漏れる)本屋に探しに行った。なかなか見つからなかったが、最後に文庫新刊の棚で見つけて、あれ、文庫だったのか、とびっくりした。
「あとがき」に書かれているとおり、「こういう時評集が文庫化されるというのはわりと珍しいことではないか」と思う。本書は、2005年11月に単行本化されたもので、コンテンツはそれよりさらに1、2年前に遡る。だから、小泉総理の靖国参拝とか、郵政民営化の是非とか、ああ、そんなこともあったねえ、という近過去の時事問題が散見する。
しかし、内容が「古びている」という感じは受けない。むしろ小泉純一郎の「戦略」を深く読み込もうとする態度が、いまさらながら新鮮だったりする。あの頃、小泉総理の政策に賛成する側も反対する側も、「どうせアイツは二者択一以上のことは考えていない」(だから自分たちも考えない)という思考停止派が大多数だったように思う。ほか、教育論、労働論、武術的身体論、中国論など、内田氏の読者にはおなじみのテーマが融通無碍に語られている。
本書を読んで、あらためて認識したのは、1950年生まれの内田氏が、2001年、読者の前に「突然登場した」こと。加藤典洋氏によれば、それまでは「レヴィナスの翻訳によって関心のある人々に、僅かに知られる」書き手だったそうだ。なるほどね。50を過ぎて人気作家となる。人生には、そんなこともあるのだなあ、と思うと興味深い。巻末解説の著者・関川夏央氏は、加藤氏の説を敷衍して、ウェブの充実→電子エクリチュールの発見が、内田樹という表現者を生み出した、と述べている。これは、けっこう重要な指摘だと思う。新しいメディアは新しい表現者を生み出す。それは、必ずしも無垢な青年とは限らない。
日本語のためには、同じような書き手、つまり伝統的な教養と倫理を、電子エクリチュールの平明さに載せて語ってくれるような表現者が、もっと現れてくれることを望みたい。それも多様な世代から。たぶんケータイ小説は一時の風俗で終わるだろうから。
売れっ子の内田先生がまた本を出されたことを、ネットの広告で知った。「私が諸君に伝えようとしているのは雑学ではなく、教養である。どうも諸君は『雑学』と『教養』の違いをご存じないようである」という売り文句(本書の「まえがき」の一部)がやけに気に入ってしまって(ふふふ、と同感の笑みが漏れる)本屋に探しに行った。なかなか見つからなかったが、最後に文庫新刊の棚で見つけて、あれ、文庫だったのか、とびっくりした。
「あとがき」に書かれているとおり、「こういう時評集が文庫化されるというのはわりと珍しいことではないか」と思う。本書は、2005年11月に単行本化されたもので、コンテンツはそれよりさらに1、2年前に遡る。だから、小泉総理の靖国参拝とか、郵政民営化の是非とか、ああ、そんなこともあったねえ、という近過去の時事問題が散見する。
しかし、内容が「古びている」という感じは受けない。むしろ小泉純一郎の「戦略」を深く読み込もうとする態度が、いまさらながら新鮮だったりする。あの頃、小泉総理の政策に賛成する側も反対する側も、「どうせアイツは二者択一以上のことは考えていない」(だから自分たちも考えない)という思考停止派が大多数だったように思う。ほか、教育論、労働論、武術的身体論、中国論など、内田氏の読者にはおなじみのテーマが融通無碍に語られている。
本書を読んで、あらためて認識したのは、1950年生まれの内田氏が、2001年、読者の前に「突然登場した」こと。加藤典洋氏によれば、それまでは「レヴィナスの翻訳によって関心のある人々に、僅かに知られる」書き手だったそうだ。なるほどね。50を過ぎて人気作家となる。人生には、そんなこともあるのだなあ、と思うと興味深い。巻末解説の著者・関川夏央氏は、加藤氏の説を敷衍して、ウェブの充実→電子エクリチュールの発見が、内田樹という表現者を生み出した、と述べている。これは、けっこう重要な指摘だと思う。新しいメディアは新しい表現者を生み出す。それは、必ずしも無垢な青年とは限らない。
日本語のためには、同じような書き手、つまり伝統的な教養と倫理を、電子エクリチュールの平明さに載せて語ってくれるような表現者が、もっと現れてくれることを望みたい。それも多様な世代から。たぶんケータイ小説は一時の風俗で終わるだろうから。