見もの・読みもの日記

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武道家の思索/街場の戦争論(内田樹)

2014-10-30 23:00:41 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『街場の戦争論』(シリーズ22世紀を生きる) ミシマ社 2014.10

 内田先生が「『街場の戦争論』発売5日目で4刷、28000部となりました」とつぶやいているくらい、売れに売れているようだ。すでに多くの読後感想がネットに流れているが、私はいつか自分で読み返すためにまとめておく。

 本書の、少なくとも第1章と第2章は一気読みがふさわしい。というか、そうせざるを得ない迫力がある。著者は今のわれわれの置かれている時代を「負けた先の戦争」と「これから起こる次の戦争」の「戦争間期」と考える。今の空気の軽薄さ、無力感の深さ、無責任さ、暴力性などは、戦争間期に特有なものではないか。私は精神のうそ寒さを感じながら、著者の直観に同意した。

 近づきつつある「禍々しいもの」を避けるには、せめてそれが「何であるか」を予測するには、どうして先の戦争に日本人はあんな負け方をしたのか、戦争に負けることで何を失ったのかを、きちんと総括しなければならない。そう宣言して、本書は重苦しい思索の幕を開ける。回答。われわれが戦争で失った最大のものは「私たちは何を失ったのか?」を正面から問うだけの知力である。つらいなあ、これ。

 著者は「もし1942年に(ミッドウェー海戦後に)講和が実現していたら」という仮想実験を試みる。街の景観、文化的意味での「山河」が残っていたら。戦後の再建を担う人的資源(大正生まれ世代)がもう少し残っていたら。日本は、こんな「異常な敗戦国民」ではなく「ふつうの敗戦国民」になれていたかもしれない。

 戦後生まれの私たちは、すべて「アメリカに対する従属国」の国民である。「帝国臣民の記憶」すなわち「主権国家の国民の意識」を知っている者は、誰一人いない。ここでは、戦前の帝国主義と戦後の民主主義、右翼と左翼のような、手垢のついた二分法を乗り越えて、まっすぐ真実に切り込むような論法が展開する。まさに武道家の思索だなあ、と感心する。

 第3章は、自民党の「時代遅れ」の改憲案がどこから出てきたかを考え、国家と株式会社を同一視するという、安倍政権の誤謬を批判する。国民国家の目的は「成長すること」ではありません、生き延びることです、という著者の言葉は、何度でも引用しておきたい。元気づけられるので。

 教育とか医療とか第一次産業とか、国民国家が「生き延びる」ための産業に従事している人間は、目先の利益に目がくらんで、自分の役割を放棄することがあってはならないと私は考える。こうした分野にも「グローバル化」を迫る圧力は、いっこうにやまないけれど。もしも教育のグローバル化に意味があるとしたら、著者の指摘のように、先の敗戦を総括する知力も主体性も失い、国民国家と株式会社の区別もつかない日本が、どれだけ異常かということを、世界標準から見直す視点を獲得することくらいだろう。

 第4章は、教育と労働論。著者にとっては(そして読者にとっても)古い、馴染みのテーマだ。文中に「自分にはまだ黒帯の力がないから」と自己規制をして、いつまでも有段者にならない(なれない)人の話が出てくる。師の判断に異を唱えてはいけません、というのが著者のメッセージだが、社会生活や職業生活に置き換えても、分かるような気がする。「君ならできる」と任された仕事は、とりあえず受けてみるべきものなのだ。

 第5章は、特定秘密保護法をネタに、インテリジェンス(諜報活動)とは何かを考える異色の章。ここでも「生き残る」能力が問われる。「非常時対応」能力というのは、システムが崩れるとき、局所的に生き残っている条理を見つける能力であると説明されている。ううむ、難しいな。私はこういうリーダーには絶対になれない。でも、正しいリーダーを直感的に見分けて、その指示の下、局所的な秩序を作り上げるフォロワー(技術者)の役なら、何とか、かなりのところまで出来るんじゃないかと思う。頑張ろう、この不穏で不透明な時代を生きのびるために。
コメント (3)
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