○黒田日出男『江戸名所図屏風を読む』(角川選書) 角川学芸出版
昨年暮れに出版された『豊国祭礼図を読む』に続く「近世初期風俗画に歴史を読む」シリーズの2冊目。前作がむちゃくちゃ面白かったので、2冊目は即買いで読み始め、今回も手に汗握る謎解きのスリルを楽しんだ。ただし、前作ほどアクロバティックな華やかさはなくて、むしろ絵画史料の研究者となるための謹厳な入門書の趣きを、ところどころに感じた。
著者の問題設定は、せんじ詰めれば、こうした絵画史料が、いつ、誰によって、何のために作られたかに尽きる。小手調べに取り上げるのは、歴博本『江戸図屏風』。右隻に広々とスペースを取ってイノシシ狩りの様子が描かれていて、赤い傘に顔を隠した人物が徳川家光だという説明を読みながら、興味深く眺めた記憶がある。ブログにレポートし落としているけど、たぶん2007年の企画展『西のみやこ、東のみやこ』のときではないかな。
著者は屏風の注文主を松平信綱と考えるが、近年、注文主を酒井忠勝とする異説が出た。そこで、この異説が成り立ち得るか、また自説を補強する別の証拠がないかという観点から、屏風に「描かれたもの」を再検討する。細心の注意を要するのは「家紋」の扱い。家紋は、しばしば特定の人物を表象するという、近世絵画読解の基礎をまず教わる。
それから、本書の中心テーマとなるのが、出光美術館本『江戸名所図屏風』。最近まで東京在住だった私には、おなじみの作品で、2009年の『やまと絵の譜』、2012年の『祭 MATSURI』などで見ている。個性が、というよりアクが強くて、一度見たら忘れられない屏風だ。
はじめに制作年代(景観年代)の決定に挑む。一般には「寛永期(1624-1645)」の作と見られている作品だが、著者はこれを正保(1645-1648)・慶安(1648-1651)年間から明暦3年(1657)の大火までに引き下げる。
論拠は、まず風俗。「遊女歌舞伎」(寛永6年に禁止)と見られていたものが、俳優の髪形に「中剃(なかぞり)」があることから、「若衆歌舞伎」であると指摘する。より明瞭に景観年代の上限を規定するのは建築物である。著者は、これまで見落とされていた「浅草三十三間堂」の存在を指摘し、その創建年=寛永20年(1643)をひとまず景観年代の上限に設定する。浅草には、京都の三十三間堂を模した建築があって、元禄年間に深川に移築され、類焼・再建を繰り返しながら、明治初年まで残っていた。へえ~知らないことは多いなあ。そして、もしかしたら、まだ見落とされている建築が絵の中にあるかもしれない、と思うと、わくわくする。
景観年代の下限を決定するのは難しいが、一例として、著者は「運送手段としての馬と牛」をあげる。運送手段としての牛は、特定の時期(寛永13年、江戸城外堀工事の際)に江戸へ導入された。歴博本『江戸図屏風』には、多数の騎馬、駄馬、乗掛馬が描かれているが、牛の姿はない。わずかに1頭だけが、農村風景の中に描かれているが、都市における物資の運搬は、馬でなければ人力で行われている。一方、出光本『江戸名所図屏風』には、荷馬・乗掛馬9頭に対し、牛3頭が描かれている。このことから、『江戸名所図屏風』は「牛の姿がある程度見られるようになった時期」の景観を描いていると著者は考える。なお、明暦の大火以降の江戸には「大八車」が登場する。19世紀の江戸を描いた『熈代勝覧』では、馬や牛車を押しのけて、大八車が活躍していた。なるほど!
後半では、出光本『江戸名所図屏風』の注文主の特定に挑む。注目すべきは、海辺の武家屋敷「向井将監邸」である。絵師は、金雲をうまく使って周囲の風景を隠し、「向井将監邸」だけを際立たせている。そこには、注文主の意志が働いていると考えてよい。向井氏は伊勢国出身の水軍一族で、徳川秀忠に仕えた向井将監忠勝は、巨船「安宅丸」の造船と管理にたずさわった。安宅丸って三浦半島の三崎で造られたのか、等々、気になる新知識をいろいろ仕入れた。
向井忠勝の嫡流は、いろいろあって断絶してしまい、海辺の上屋敷は正保4年に没収されて、他人のものとなってしまった。そこで著者は、この屏風は、向井忠勝の傍流であり、画面にあふれんばかりに描かれた「かぶき者」に共感を抱く人物が「虚構の向井将監邸」を描かせたものとして読み解く。ここがいちばん面白いので、敢えてさらっとした紹介にとどめよう。やはり「家紋」が重要な意味を持っていることは付言しておく。
最後になるが、「プロローグ」で、著者が「若い人たちに」と記した箇所が印象的だったので、書きとめておきたい。博学である必要はない。大切なのは、どんな表現にも反応する柔軟な視線と探究心である。そして、疑問点については、それぞれの専門家の仕事に真摯に学ぶ姿勢が肝心である。気持ちのいいアドバイスだなと思った。結果的に、いつの間にか博学になっていくだろう、という言葉も含めて。

著者の問題設定は、せんじ詰めれば、こうした絵画史料が、いつ、誰によって、何のために作られたかに尽きる。小手調べに取り上げるのは、歴博本『江戸図屏風』。右隻に広々とスペースを取ってイノシシ狩りの様子が描かれていて、赤い傘に顔を隠した人物が徳川家光だという説明を読みながら、興味深く眺めた記憶がある。ブログにレポートし落としているけど、たぶん2007年の企画展『西のみやこ、東のみやこ』のときではないかな。
著者は屏風の注文主を松平信綱と考えるが、近年、注文主を酒井忠勝とする異説が出た。そこで、この異説が成り立ち得るか、また自説を補強する別の証拠がないかという観点から、屏風に「描かれたもの」を再検討する。細心の注意を要するのは「家紋」の扱い。家紋は、しばしば特定の人物を表象するという、近世絵画読解の基礎をまず教わる。
それから、本書の中心テーマとなるのが、出光美術館本『江戸名所図屏風』。最近まで東京在住だった私には、おなじみの作品で、2009年の『やまと絵の譜』、2012年の『祭 MATSURI』などで見ている。個性が、というよりアクが強くて、一度見たら忘れられない屏風だ。
はじめに制作年代(景観年代)の決定に挑む。一般には「寛永期(1624-1645)」の作と見られている作品だが、著者はこれを正保(1645-1648)・慶安(1648-1651)年間から明暦3年(1657)の大火までに引き下げる。
論拠は、まず風俗。「遊女歌舞伎」(寛永6年に禁止)と見られていたものが、俳優の髪形に「中剃(なかぞり)」があることから、「若衆歌舞伎」であると指摘する。より明瞭に景観年代の上限を規定するのは建築物である。著者は、これまで見落とされていた「浅草三十三間堂」の存在を指摘し、その創建年=寛永20年(1643)をひとまず景観年代の上限に設定する。浅草には、京都の三十三間堂を模した建築があって、元禄年間に深川に移築され、類焼・再建を繰り返しながら、明治初年まで残っていた。へえ~知らないことは多いなあ。そして、もしかしたら、まだ見落とされている建築が絵の中にあるかもしれない、と思うと、わくわくする。
景観年代の下限を決定するのは難しいが、一例として、著者は「運送手段としての馬と牛」をあげる。運送手段としての牛は、特定の時期(寛永13年、江戸城外堀工事の際)に江戸へ導入された。歴博本『江戸図屏風』には、多数の騎馬、駄馬、乗掛馬が描かれているが、牛の姿はない。わずかに1頭だけが、農村風景の中に描かれているが、都市における物資の運搬は、馬でなければ人力で行われている。一方、出光本『江戸名所図屏風』には、荷馬・乗掛馬9頭に対し、牛3頭が描かれている。このことから、『江戸名所図屏風』は「牛の姿がある程度見られるようになった時期」の景観を描いていると著者は考える。なお、明暦の大火以降の江戸には「大八車」が登場する。19世紀の江戸を描いた『熈代勝覧』では、馬や牛車を押しのけて、大八車が活躍していた。なるほど!
後半では、出光本『江戸名所図屏風』の注文主の特定に挑む。注目すべきは、海辺の武家屋敷「向井将監邸」である。絵師は、金雲をうまく使って周囲の風景を隠し、「向井将監邸」だけを際立たせている。そこには、注文主の意志が働いていると考えてよい。向井氏は伊勢国出身の水軍一族で、徳川秀忠に仕えた向井将監忠勝は、巨船「安宅丸」の造船と管理にたずさわった。安宅丸って三浦半島の三崎で造られたのか、等々、気になる新知識をいろいろ仕入れた。
向井忠勝の嫡流は、いろいろあって断絶してしまい、海辺の上屋敷は正保4年に没収されて、他人のものとなってしまった。そこで著者は、この屏風は、向井忠勝の傍流であり、画面にあふれんばかりに描かれた「かぶき者」に共感を抱く人物が「虚構の向井将監邸」を描かせたものとして読み解く。ここがいちばん面白いので、敢えてさらっとした紹介にとどめよう。やはり「家紋」が重要な意味を持っていることは付言しておく。
最後になるが、「プロローグ」で、著者が「若い人たちに」と記した箇所が印象的だったので、書きとめておきたい。博学である必要はない。大切なのは、どんな表現にも反応する柔軟な視線と探究心である。そして、疑問点については、それぞれの専門家の仕事に真摯に学ぶ姿勢が肝心である。気持ちのいいアドバイスだなと思った。結果的に、いつの間にか博学になっていくだろう、という言葉も含めて。