見もの・読みもの日記

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第11回鈴木邦男シンポジウムin札幌時計台(鈴木邦男、上祐史浩)

2014-10-25 01:06:52 | 行ったもの2(講演・公演)
○第11回鈴木邦男シンポジウムin札幌時計台:いま、語るべきこと(2014年10月21日、18:00)

 鈴木邦男シンポジウム「日本の分(ぶん)を考える」シリーズ第11回を聴きに行った。ツイッターに「次回のゲストは、ひかりの輪代表・上祐史浩さんです」という情報が流れてきたときは、さすがに、え!と驚いた。

 私は、昨年6月、同シンポジウム第2回(ゲスト:中島岳志さん)を聴きに行ったとき、鈴木さんが上祐史浩氏の話をしたことに触発されて、上祐史浩氏、鈴木邦男氏、徐裕行著氏の鼎談『終わらないオウム』を読んだ。以来、ずっと上祐氏のことが気になっていたので、生で話が聴ける機会、絶対逃すまい、と思って、申し込んだ。

 はじめに鈴木邦男さんが短い話をした。かつて「朝まで生テレビ!」で、オウム真理教と幸福の科学が対決したことがあって、あのとき、ああ、オウムの皆さんは本物だなと思った。非常に真面目だと思った。しかし、その真面目な人たちが、おそろしい存在になってしまって、一方、幸福の科学は、不真面目だけど楽しそうに続いている。鈴木さん、いつもながら、ひょうひょうと本質をついたことを言うなあ、と思った。幸福の科学の人たちとカラオケにいくと、あっ地獄に落ちちゃう、とか言いながら、楽しそうなんだよね、という体験談が、目に浮かぶようだった。

 そのあと、上祐氏が、オウム入信から、教団の武装化、偽証罪で収監され、3年の懲役に服し、出所後、教団の改革につとめるも主流派の排撃に遭い、麻原への信仰を捨てて今日に至る話をした。ううむ、不謹慎を承知でいうが、面白かった。いつか20世紀末を代表する奇譚として語り継がれる説話になるんじゃないかと思うくらい。そのあと、10分ほどの休憩を挟み、会場から寄せられた多数の質問に答えながら、二人の対談がおこなわれた。

 上祐氏によれば、オウム真理教が衆議院選挙に立候補したのは、民主的な方法でこの世を変えようと思ったからだという。しかし結果は惨敗。「民主的な方法では駄目だ」ということで、急速に教団の武装化が進んだ。このとき、信者たちは、選挙の惨敗は「悪の組織」が妨害したためだと本気で信じていたという。地下鉄サリン事件は、普通の生活者にとっては、反社会的な集団が、突如、凶悪な攻撃をしかけてきたとしか思えなかったが、彼らの主観においては、追い詰められた末の「反撃」だった。無論、だから許される行為だったとは思っていない、という点は、上祐氏も明言していたと思う。しかし、この「自分は被害者だから、やり返す」「反撃しなければ、潰される」という感覚は、かつて日本が戦争に突き進んだときもそうだったし、いまの日本社会にも蔓延している危うさではないかと思う。

 ただ、上祐氏は、選挙の失敗の頃から、麻原を疑う気持ちが少し芽生えてきたという。鈴木さんが「幸福の科学は、選挙に失敗しても平気だよね」と振ったら、「だっておかしいじゃないですか、絶対者が予言を外すなんて! どうして平気でいられるのか、全く分かりません!」みたいな、向きになった返答をしていて、この人、面白いなあと思った。この選挙結果に関しては自分でおこなった出口調査をもとに、「悪の組織の陰謀」を主張する麻原に反論を試みた。すると、少し上の世代の信者たち(早川さんとか)にこぞってたしなめられ、「お前は大学を出たばかりで、世間が分かっていない」などと説得されたという。なんだか、どこにでもある中小企業の古参職員と新入社員みたいな話で可笑しかった。

 宇宙開発事業団(現在のJAXA)に就職しながら、1ヶ月でやめてしまったのは、アメリカがSDI(スターウォーズ計画)を発表し、このままでは軍拡競争に加担することになると思ったから、とか、オウム真理教でのいちばん辛かった修行として、5日間飲まず食わずで地中に埋められたことがあるとか、めんどくさいほど真面目で、いい加減なことができない人柄が垣間見えた。たぶん多くのオウム信者たちも、真面目さが災いして、あそこまで突き進んでしまったんだろうな。殺人の罪を犯して地獄に落ちることを恐れるのは自己保身だと詰め寄られると反論ができない。自分も命じられればサリンを蒔いていただろう、という。上祐氏が、ときどき不意につぶやく「井上は」「村井は」など、かつてマスコミをにぎわせた名前を、私は不思議な懐かしさをもって聞いていた。彼らは特異な社会の変種ではなく、オウムの物語は、ずっと私の中で「現在の問題」として留まり続けているように思う。

 上祐氏は、10年かけて、麻原彰晃(松本智津夫)に対する信仰から脱却した。その過程には、大自然や聖地を巡ったり、修験道の大家に会ったり、さまざまな体験があったという。そのひとつとして、京都・広隆寺の弥勒菩薩に出会ったとき、もう麻原がいなくても大丈夫だと感じた、と語っていたことが印象的だった。あの仏像は、そんなふうに多くの人々の救済にひっそり手を貸してきたのかもしれないと思われた。それから上祐氏は「親への感謝」を語っていた。「大衆の一人」でしかない自分に価値が見出せるとしたら、それは親への感謝、尊敬を通じてではないか。「孝行」という古くさい徳目の意味が、初めて分かったようで新鮮だった。
コメント
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