見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

大学のお宝/芸大コレクション展(東京芸大美術館)

2008-06-15 23:55:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京芸術大学大学美術館 『芸大コレクション展』&『バウハウス・デッサウ展』

http://www.geidai.ac.jp/museum/

 「芸大コレクション展」と言われても、いったい何が出ているのか、全く見当がつかなかった。サイトを見たら、けっこう古美術も出ていると分かって、行ってみる気になった。

 冒頭は、13世紀前半の『孔雀明王像』。たぶん変色の結果、茶色と水色が中心の地味な画幅となっているが、明王も孔雀も、上品できりりと締まった、いい表情をしている。孔雀の尾羽と胸のあたりに、わずかに鮮やかな赤が残る。それから、曽我蕭白の『群仙図屏風』。同じ題名で、どぎつい原色をふんだんに使った彩色作品(文化庁所蔵)とは別物である。こちらは墨画。しかし、華麗さのカケラもない孔雀は、人造の怪物のようだ。フジツボの張り付いた岩にも見える。オコゼのような鯉も変。いや、貶しているのではなく、異形の蕭白ワールドを楽しんでいるんだけれど…。

 続いて、河鍋暁斎の三幅対『龍神・侍者』は、達者で流麗な線に釘付け。徹底的にカッコよさを追求した衣装、表情、立ち姿は、無双キャラのデザインみたいだと思った。中央のケースにあるため、あまり人が立ち止まらないのが『小野雪見御幸絵巻』。鎌倉時代、13世紀後半の作。建築や御所車のデッサンが非常にしっかりしている。剥落のせいか、未完成なのか、下絵の線がよく見えるのが面白い。

 近代絵画では、杉浦非水の『孔雀』に驚いた。非水といえば、三越呉服店のポスターなど、カラフルでモダンでグラフィックな作品が思い浮かぶが、これは伝統的な(丸山四条派みたいな)花鳥画である。ただし、見上げるほど巨大。それから、昨年、『パリへ-洋画家たち百年の夢』展のポスターにもなった黒田清輝の『婦人像(厨房)』に、久々に再会。高橋由一の『鮭』も意外とデカい。ただの鮭なのに、と思うと、そこはかとなく可笑しい。なお、以上の展示作品は第2期(~6/15)のもの。ほぼ全て、サイトに画像が上がっている。

 さらに会場には、『東京美術学校とバウハウス』という特集展示コーナーが設けられ、東京美術学校図案科(現:デザイン科、建築科)の卒業制作を取り上げ、バウハウスの影響について考察している。実際に東京美術学校からバウハウスに留学した学生もいた。

 ここで少しウォーミングアップをして、引き続き『バウハウス・デッサウ展』を見る。バウハウスは、1919年、ドイツにつくられた造形芸術学校である(1933年、ナチスの台頭とともに閉校)。私は”建築家の学校”のイメージが強かったので、建築図面や工業デザイン(家具など)の展示が主だろうと思っていたら、実にさまざまなものがあって面白かった。

 グラフィック誌から人物や家具の写真をコラージュして作った建築図面は、それ自体、ひとつの作品のようだ。バウハウス・ダンスと題された舞踊パフォーマンスには目を見張った(フィルムは、90年代に”復元”されたもの)。また、”素材研究”とか”材質研究”と題して、布、木材、金属などを組み合わせた実験成果の数々(平面および立体のコンポジション)。写真、タイポグラフィー、ポスター、織物など。実際に製品化されたものもある。パイプ椅子や折りたたみ椅子って、当時は衝撃的に新鮮なデザインだったんだなあ、ということが分かった。
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統計から見えるもの/不平等国家 中国(園田茂人)

2008-06-14 23:52:37 | 読んだもの(書籍)
○園田茂人『不平等国家 中国:自己否定した社会主義のゆくえ』(中公新書) 中央公論新社 2008.5

 自戒を込めて確認しておくと、格差あるいは不平等というのは、AとBのグループの取り分(所得、地位、社会的評価など)に差がある状態をいう。それが「不公平」と認識されるかどうかはケース・バイ・ケースだ。一生懸命働いた人が、そうでない人よりも多く収入を得ることは、「不平等」ではあるが「不公平」とは認識されにくい。では、一生懸命勉強して高い学歴を得た人が、多い収入を得ることに対してはどうか? たぶん集団によって、答えは異なるだろう。

 改革開放政策の開始から30年(ちょうど一世代だ)。絶対平等を理念としたはずの社会主義国家・中国では、市場経済の導入によって、急速に不平等が拡大している。そのことは、日本のテレビに映し出される中国の姿をぼんやり眺めているだけでも分かる。問題は、中国の人々が何を「不公平」と考えているかである。これについて、本書は多くの統計データを用いて、興味深い分析結果を示している。

 著者がたびたび参照している調査のひとつが「アジア・バロメーター」だ。猪口孝氏(東京大学東洋文化研究所→中央大学)が2003年から実施しているもので、アジア全域の「普通の人々」を対象とする定期世論調査である(10年間継続予定)。これが非常に面白い。経済成長率とか就学率とか、社会の実態を示すオモテの数字に対して、人々が何を感じ、なぜそうした生活を選び取ったかという、ウラの事情が見えてくるからだ。

 たとえば、「よく働いた者がそれだけ収入を得るのは当然だ」という文言に「強く賛成」する割合が、韓国・ヴェトナム・台湾では4割を超え、中国・香港もこれに近いのに、日本では2割を切る。つまり、中国は、能力主義(あるいは実績主義)に対して、日本よりずっと肯定的なのだ。

 別の調査によれば、中国で最も重要な収入決定要因は学歴である。「学歴社会」である度合は、日本よりずっと強い。にもかかわらず、「社会的不公平の深刻さ」を尋ねた調査で「学歴」を挙げる割合は、中国より日本のほうがずっと高いのだ。それどころか、学歴、勤勉、家族背景などのうち、「どの条件を満たす人が高所得を得ているか(現実)」と「どの条件を満たす人が高所得に値するか(理想)」を比較してみると、学歴のある人は、現状よりもっと高所得を得るべき、と考えられていることが分かる。

 しかも、そう考えているのは、高学歴・高収入を得ている「勝ち組」ではない。むしろ「負け組」の人々が、子どもに教育投資をすることで「リターンマッチ」を望んでおり、今より「収入格差が大きくなってもよい」と考えているという。これって、やっぱり科挙のDNAなのかしら。皮肉なことに、古典的なマルクス主義(貧しい人間は格差の是正を望み、豊かな人間は格差を肯定する)と、全く相反する現象である。中国政府は、格差を是正し、安定した「和諧社会」の実現に向けて、日本の戦後経験に学ぶべきだ、と著者は言う。もちろん大真面目に。でも、資本主義国家・日本が、社会主義国家・中国に、格差是正を教えるというのは、ブラックジョークみたいだ、と思った。

 個別のトピックで興味深かったのは、女性の階層分化を論じた章。衝撃だったのは、2006年に中国人女子学生に聞いた調査で「仕事のために家族が犠牲になっても仕方がない」に、大いに賛成・賛成する回答が97%にのぼるという結果。すげー。社会のエリートとしての自負が、日本の女子大生とは全然違うのかもしれない。

 もうひとつ、中国の人々に機関・組織への信頼度を尋ねた調査結果も面白かった。中央政府は意外と信頼されている。地方政府は中央政府ほど信頼されていない。もっと信頼されていないのはマスメディアである(あまり・全く信用していないが約6割)。日本人は、中国のマスコミを共産党の代弁者として批判するが、そんなことは中国人は先刻承知なのである。
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言語と伝統/Googleとの闘い(ジャン・ノエル・ジャンヌネー)

2008-06-13 23:58:27 | 読んだもの(書籍)
○ジャン・ノエル・ジャンヌネー著、佐々木勉訳+解題『Googleとの闘い:文化の多様性を守るために』 岩波書店 2007.11

 2004年12月、グーグル社は、6年間で1,500万冊の図書、約45億ページをデジタル化する計画(グーグル・プリント)を発表した。その後、2005年にグーグル・ブック検索(Google Book Search)と名前を改め、2007年、慶応大学が参加を表明し、日本語版のフロントページが登場するなどして、次第に日本での認知度も上がってきたかと思う。今回、いつの間にか日本語Wikipediaに「Googleブック検索」の項目が立っていることを発見して驚いた(2007年12月作成)。いや、2007年まで無かったことのほうがオカシイのだが…。

 しかし、私は、2004年12月当時の社会的反響を何も記憶していない。大多数の日本人は、出版や図書館にかかわる人間も含め、遠く無縁な外国のニュースと考えていたように思う。けれども、フランス国立図書館長の職にあった著者は、「その日新聞社の受け取った一片の情報は、我々の思考、行為、想像力を心底震え上がらせた」という。大げさな、と思うが、誇張ではないらしい。なぜ著者は、グーグルの「挑戦」をかくも重大に受け止めるのか。

 ひとつは、市場と文化の問題である。著者は、資本主義が良いものを生み出す可能性を全否定するわけではない。しかし、市場の原理を過信することは、文化の多様性や公共性を損ない、長期的な観点で、社会に損失をもたらす危険性がある。――これは、われわれ日本人にも理解しやすい。

 もうひとつの論点は言語である。フランス人の著者は「英語利用が他のヨーロッパ言語のほとんどすべてを犠牲にしていっそう優勢となる」ことを、実は、市場の問題以上に警戒している。これは、日本人には共感しにくいところだ。そもそも漢字カナという独自表記システムを持つ日本語で暮らしているわれわれは、英米語の世界で、どんなに優れた検索エンジンが出来ても、全文テキストの宝庫が構築されても、特に損にも得にもならない話だと思っている。しかし、同じアルファベットを使用するフランス人にとっては、等閑視できない脅威と感じられるらしい。

 グーグル・プリントのサイトが公開されるとすぐ、フランス国立図書館では、ヴィクトル・ユゴー、ダンテ、ゲーテなどの作家の名前を打ち込んでみた。その結果は「英語になった書籍だけが提供されていた」という。そりゃあそうだろうと私は思うのだが、デジタル化する書籍の選択には、言語の多様性に配慮が払われるべきだ、と著者は主張する。きわめて単純化すれば、英語(米語)は、アメリカ文明=資本主義の代理人であり、他のヨーロッパ言語=ヨーロッパ文明の多様性、共和制の伝統を侵食するものと見ているようだ。

 Googleブック検索については、もうひとつ思ったことがある。著作権切れの古典が「読める(検索できる)」ようになることは、確かに少数の研究者にとって恩恵である。しかし、一般市民にとっては、どれだけの得になるのだろうか?

 アメリカ人(またはヨーロッパ人)にとって、100年前の英語(またはフランス語、ドイツ語)の書籍が読めることは、福音なのかもしれない。しかし、われわれ普通の日本人は、100年前の日本語の書籍を苦労なく読むことができるのだろうか。近代の日本語は、たぶん世界でも稀なほど「足のはやい」言語なのだ。そのことを考えると、「著作権切れの図書の全文がウェブで読めるプロジェクト」なんていうのは、平均的日本人にとって、全くどうでもいいことかもしれない。頑張っている慶応大学さんには悪いけど。
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八十五年目の証言/甘粕正彦 乱心の曠野(佐野眞一)

2008-06-10 23:44:14 | 読んだもの(書籍)
○佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』 新潮社 2008.5

 先日、国会図書館の座談会『出版文化と納本制度について考える』を聞きに行ったとき、パネリストの佐野眞一さんが「今度、甘粕正彦についての本を出します」とおっしゃるのを聞いて、へえ、と思った。実のところ、私は甘粕正彦(1891~1945)が何をした人物なのか、よく分かっていない。戦前・戦中の歴史に関する図書は、いろいろ読んだが、甘粕は、教科書的な「正史」の前面に出てくる人物ではない。にもかかわらず、映画や小説など「イメージの満州」あるいは「イメージの日本陸軍」を語るとき、外せない人物だと思う。

 その冷酷で、ファナテックで、おどろおどろしい印象を決定づけているのは、関東大震災直後の”主義者殺し”=甘粕事件である。アナーキストの大杉栄、内縁の妻・伊藤野枝、そして大杉の甥の6歳の少年の3人を憲兵隊本部に連行し、虐殺したというものだ。Wikipediaには「事件の主犯は甘粕大尉ではないとする説は根強く存在している」とあるが、私は、甘粕=首謀者説を疑ったことは一度もなかった。

 けれども、佐野さんは、85年ぶりに甘粕の無罪を証明したというので吃驚した。本書を読んでみると、別に決定的な新しい証拠が出現したわけではない。敢えて言えば、甘粕が陸士同期の半田敏治氏に「自分はやっていない」と漏らしていたことが、平成11年、半田氏の遺族から甘粕の弟の五郎氏に伝えられたということくらいか。ただし、これは口伝えの証言であるから、信じる・信じないは聞く者次第である。

 一方、法廷での甘粕の供述と矛盾する、大杉らの「死因鑑定書」は、昭和51年に発見されている。軍医の田中隆一氏が、二重蓋の木箱に収めて、ひそかに自宅に保管していたものだという。真実を伝えようとする人間の意志とは、すごいものだと思った。同時に、これほど明らかな「証拠」があっても、甘粕=”主義者殺し”の冷酷な殺人者という、出来上がったイメージを覆すことは難しい、ということにも、人間の業のようなものを感じた。

 服役後の甘粕は大陸に渡り、満洲映画協会(満映)の理事長となる。この満映の人脈、および戦後の中国の映画産業に与えた影響というのも興味深く思った。佐野さんの満州もの第一作『阿片王』(新潮社、2005)は、里見甫(はじめ)という人物が、すごい、すごいと形容されるばかりで掴みどころがなく、期待の割に面白くなかった。対して、本書の甘粕は、酒席での狼藉ぶり、母親への孝心など、人間的な弱さが活写されている点が、すぐれて魅力的である。

 ちなみに、甘粕家は上杉謙信に仕えた甘粕近江守長重を始祖としており、甘粕は武人の家系を誇りにしていたという。私は、先週末、ふと思いついて新潟県の上越市に赴き、本書を背中のリュックに入れて春日山城跡に登ってきた。山を下りたあと、埋蔵文化財センターに寄り、甘粕近江守の屋敷跡が、私の歩いたコースからは少し離れた位置にあったことを確かめた。それにしても奇縁である。私は、甘粕正彦の霊柱を背負って春日山城を一周しているような気分になって、ときどき、背中のリュックに向かって、成仏しろよ、とつぶやかずにはいられなかった。
 
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信越ミニ旅行(2):長野、善光寺

2008-06-09 22:42:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
○長野、善光寺

 日曜の朝は、高田を発って、信越本線で長野へ向かう。右手の車窓には、妙高山の雄大な姿。長野で新幹線に乗り継いで、早めに帰宅するつもりでいた。けれども、長野駅前で、蕎麦を食べたり、お土産を眺めたりしているうち、善光寺くらい寄って行こうかなあ、という気持ちになる。ちょうど来ていた100円バスに乗って大門前へ。

 善光寺は昨年11月以来だが、どこか風景が異なることに気づく。山門の修復工事が終わっているのだ。おお、これは来てみてよかったかもしれない。と、山門の内側に、何やら人だかり。芸能人? いやいや、日傘を差しかけられたお坊様である。私も善男善女の列に並んでお待ちしていると、小声で何かを唱えながら、頭頂をお数珠の房で撫ぜてくださった。ありがたや、ありがたや。近づいたら、尼さんだった。あとで、善光寺には、2人の住職(浄土宗=女性のお上人様、天台宗=男性のお貫主様)がいらっしゃることを知る。



 それから、特別拝観の山門に上がる。だいたい20人を1組とし、揃いのタスキを掛けて、梯子のような急な階段を昇るのだ。山門に人を上げるのは、ほぼ40年ぶり。松代群発地震の影響で、山門が損傷を被って以来のことだという。松代群発地震は、Wikipediaによれば、1965年8月3日から約5年半もの間続いた「世界的にも稀な長期間にわたる群発地震」なのだそうだ。へえー。私は生まれていたけど、何も記憶にない。また、5年間に渡る平成大修理の結果、山門の屋根は、従来の桧皮葺きから、80年ぶりに創建当初の「栩葺(とちぶ)き」(厚い板片を重ねる)に戻された。もっとも、ネットで古い写真を探して見比べてみたけど、その差異は分かりにくい。

 山門の二階には、四国八十八ヵ所の小さな観音様や、四天王に囲まれた文殊菩薩像などが安置されている。それ以上に興味深かったのは、周囲の板壁に残された落書きの数々。年号は、明治や昭和もあるけれど、なぜか「嘉永」が圧倒的に多い。善光寺ブームがあったのだろうか? 出身地は、越後が多い。へのへのもへじみたいな顔絵あり。○に十字は薩摩人か。笑ったのは「京都 竹本文字大夫」を見つけたとき。義太夫、竹本座のご一行らしい。

 参拝客のおばさんが「昔は、こんなの堂々と書いても怒られなかったのかしら」と不思議がっていたが、これは立派な文化的慣習である。墨書は、ほどほどに残るが、時間が経てば消えてしまうところが奥ゆかしい。今春、聖火リレー問題で「善光寺本堂に落書き」という腹立たしい報道があったが、あの犯人もスプレーじゃなくて、墨書にすればよかったのだ。

 長野、いいなあ。また来よう。
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信越ミニ旅行(1):直江津、春日山城址

2008-06-08 23:56:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
○直江津(御館跡、安寿と厨子王供養等、浜善光寺など)~五智国分寺~春日山城跡~高田

 たまたま金曜日の午後に外まわりの仕事が入った。ふだん定時に職場を離れることが絶望的にできない私には、絶好の遠出のチャンスである。 大宮を17時過ぎの上越新幹線で発ち、越後湯沢でほくほく線に乗り継ぎ、直江津に下り立ったのは、まだほのかに夕明かりの残る19時半過ぎ。駅前のホテルで1泊。

 昨年は、NHKの大河ドラマ『風林火山』にハマって、8月に甲府、11月に長野の川中島一帯を歩きに行った。あとは上杉謙信の春日山城を訪ねたいと思っていたのだが、季節が冬に入ってしまったので、暖かくなるのを待っていたのである。それにしても、ネットでは、いちおう「上越観光ネット」なるサイトをチェックしていたのだが、旅の行きがけに、大宮の小さな本屋で上越市の観光ガイドを探したら、ない。そもそも新潟県のガイドブックがマイナーで、置いてあったり無かったりするのだが、あっても「新潟・佐渡」が中心で、上越市なんて一切記述がないのである。かくて私は、地図も持たずに直江津に来てしまった。

 翌日は、ホテルのロビーで簡単な観光地図を入手し、これをたよりに歩き始める。直江津駅周辺~海岸の小さな史跡・寺社をめぐって歩く。それから、五智国分寺(上杉謙信が再建。古代の越後国分寺の所在地は未詳)と越後一ノ宮・居多神社を経て南下、いよいよ春日山城跡の入口にある「ものがたり館」が見えてくる。ここはパネルやビデオで春日山城跡の概要を紹介するガイダンス施設である。広場に復元された堀と土塁の上には、「竹に雀」の上杉氏の家紋の旗と「毘」の旗が、勇ましく風に翻っている。

 周辺は、傾斜地を切り開いた田園地帯。そこそこに家も連なり、時折、舗装道路を自動車やバイクが上がっていく。やがて林泉寺に到着。細い山道を塞ぐように設けられた惣門(春日山城の遺構と伝える)は、韓国のお寺に似ていると思った。謙信公の墓所に詣でる。



 林泉寺を出て、だらだら坂をしばらく上ると、長い石段の下に出る。これを一気に上ると、春日山神社。祭神は謙信公その人である。売店でいただくご朱印にも感慨あり。社殿の並びに、観光ポスターなどでよく見る謙信公の銅像があるのだが、高い石垣の上にあるので、気づかない人も多いようだ。ここから本格的な山道に分け入る。写真は、山道の入口に据付けられていた物置(?)。「毘」は泥棒除けかなあ、と思うと微笑まれる。



 慶長12年(1607)に廃城となった春日山城には、石垣、楼門などの遺構は何も残っていない(山頂付近に毘沙門堂が復元されているのみ)。アザミ咲く草地に立てられた、千貫門、直江屋敷などの説明板に往時をしのびながら、ぐんぐん上がる。山頂の本丸に着くと、はるか眼下に田園風景が開ける。絶景! なるほど、天上に舞う龍になったような気持ちである。

 景勝屋敷跡、柿崎和泉守屋敷跡などを経て、ゆるゆると山を下り、最後に埋蔵文化財センターを訪ねた。現在、2009年の大河ドラマ『天地人』放映に向けて、『越後上越上杉戦国物語展』を開催中。だが、会場に流れていたのは『風林火山』のテーマ曲。時計の針が半年ほど元に戻ったようで懐かしかった。『風林火山』の春日山城のシーンで使用された龍の床絵(壁画)も展示されている。

 夕刻、高田に着。まだ明るかったので、三重櫓で有名な高田城を見に行く。ここでもう1泊。

■参考:埋もれた古城(個人サイト):春日山城
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Hokuriku/Niigata/Kasugayama/index.htm
 今回は、簡単な観光マップに従って1周しただけだが、歩けば歩くほど奥深そう。しかし、こんな壮大な山城が日本にあったなんて、本当にびっくりした。ヨーロッパの修道院を思わせるところもある。
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インカを探して/インカとスペイン:帝国の交錯(網野徹哉)

2008-06-04 23:53:34 | 読んだもの(書籍)
○網野徹哉『インカとスペイン:帝国の交錯』(興亡の世界史12) 講談社 2008.5

 好著の相次ぐ「興亡の世界史」シリーズの最新巻。私は、南米について書かれた本を読むのは、これが初めてだと思う。昨年、科博で『インカ・マヤ・アステカ展』が開かれていたが、行ってみようとも思わなかった。中南米三大文明の区別もおぼつかない私が、本書を読もうと思ったのは、書店の店頭でふと開いたとき、スペイン・コルドバのメスキータ(モスク)の写真が目に入ったからだ。スペインへは1度だけ行った。キリスト教国として認識していたスペインの内部に、深々と残るイスラム教の影響を見て、強い印象を受けたことを思い出した。

 著者の専門はアンデス社会史、ラテン・アメリカ史だそうだが、恩師・増田義郎氏の「アンデスのことを知るためには、スペインのことを徹底的に勉強したほうがいい」という教えに従い、本書は「インカの歴史をスペインの歴史との交錯の中でとらえること」を目指して書かれている。私は、スペイン史にも詳しいわけではないので、なじみのない固有名詞や術語に二重に苦しめられ、なかなか読み進むことができなかった。

 それでも、ざっとした見取り図ではあるが、興味深い新知識をいくつか仕入れた。スペインに関しては、中世スペインが、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教という三大宗教を信仰する人々が共生する空間であったこと。ところが、14世紀末、ポグロムと呼ばれるユダヤ人大迫害が生じる。迫害を避け、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々をコンベルソと呼ぶ。16世紀初め、中米に向かって拡大を始めたスペインの植民者集団の先兵には、多数のコンベルソの人々が含まれていた。

 また、多くのユダヤ人およびコンベルソは、スペインを逃れ、隣国ポルトガルに移住した。ポルトガルでは、コンベルソを核に、キリスト教徒をも取り込んだ、ハイブリッドな商人階階層「ナシオン」が育っていく。1580年、スペイン王フェリペ二世によるポルトガル併合以降も、実質的に大きな利益を得て、アメリカ商業の盟主となったのは、ポルトガル系商人=ナシオンの人々だったという。

 このへんが実に面白いと思う。通りいっぺんの歴史の習い方では、「スペイン人」とか「ポルトガル人」というカテゴリーが万古不変のもののように思ってしまうが、実は、その中を移動していく「ユダヤ人」のような人々がいたり、スペインがポルトガルを併合しても、やっぱり「ポルトガル系商人」という集団アイデンティティのほうが強固だったりすることに、初めて気づかされる。そうすると、新世界の征服者(コンキスタドール)とは「何者」だったのか?ということも、もう一度、考えてみなけれなならない、と思えてくる。

 16世紀から17世紀初頭にかけて、既にアジアからアメリカに至る文物の交流が行われ、中国製の陶磁器や絹織物がアンデス山中にも入り込んでいたというのは、愉快な驚きだった。その一方、18世紀、スペインの植民地支配に対するインディオたちの蜂起とその失敗は、血腥く、苦い歴史である。反乱事件の指導者コンドルカンキは、インカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルの名を名乗り、「インカ」の記憶を自らの身体にまとおうとした。それゆえ、植民地権力はインカの記憶を憎悪し、それを徹底的に根絶しようとした。「記憶」をめぐる主導権争いは、東アジアだけのことではないのだな、と思った。

 「あとがき」によれば、インカの記憶をめぐる問題は今日に続いているようだ。ペルーの人々が語る、驚くほど理想化されたインカのイメージは、国家的宣伝の賜物にも思えるが、貧困と不正にまみれた現実からなんとか逃れようとする若者にとって、可能性の在り処を示すものでもある。「ペルーの民衆がいまも『インカ』を探し続けていることは確かである」という一節が、強く印象に残った。
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深大寺のおまけ:鬼太郎茶屋

2008-06-02 23:25:38 | 食べたもの(銘菓・名産)
ほぼ10年ぶりの調布・深大寺。
以前はなかった人気スポットが、門前の鬼太郎茶屋。

豊富なメニューの中から、目玉おやじのクリームぜんざい(冷製)をチョイス。
小さいお椀に入っている目玉餅を「あんこのお風呂に入れて」食す。
キワモノとは思えない、上品なつぶあんの旨さ。



2階のギャラリーでは、水木氏の妖怪画や妖怪フィギュアを展示する『あやしの妖怪画と墓場鬼太郎展』を開催中。昭和の匂いのする一般家屋をそのまま使っているので、急な階段、低い天井、押入れ、明かり障子など、ディティールが妙に懐かしい。

「妖怪とスタッフ以外、立入禁止」とか、注意事項の貼り紙にも和んでしまう、不思議な空間。
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深大寺~調布・天神通商店街

2008-06-01 23:33:27 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神代植物公園~深大寺~鬼太郎茶屋~布多天神~天神通商店街

 この春は、東博の薬師寺展など、白鳳仏を見る機会が多かったので、東京都下の白鳳仏『釈迦如来倚像』に会いたくなって、深大寺に行ってきた。まずは神代植物公園から。私は10年ほど前、この近辺に通勤していたので、まんざら知らない土地ではない。残念ながら、バラ・つつじの盛りは過ぎていたが、自然林の新緑が気持ちよかった。私の好きな藤の株も多いんだなあ。大温室も楽しめた。

 そろそろ昼時なので、深大寺門前のそば屋で昼食。有名店は行列ができていたので、どこでもいいやと思って、あまり流行っていないお店に入る。ところが、これが予想を裏切って旨かった。やっぱり、東京の蕎麦は旨い。ぶらぶら歩いていると、いつの間にか深大寺の境内に入っている。事前にチェックしきた境内マップを思い出しながら、釈迦堂を探す。

 本堂と元三大師堂の周囲は参拝客で賑わっているのだが、植え込みに隠れた釈迦堂に近づく人は少ない。外から見ると、正面に丸い金属板が嵌まっていて、何があるのか分からないせいだと思う。でも、この金属板はよくしたものだ。参拝客は、釈迦如来倚像とガラス越しに対面する(ちょっと隔離病棟みたい)。このとき、参拝客の背中にある金属板が、ガラスの反射を防ぎ、暗い堂内を見やすくしているのである。この工夫、美術館の展示室にもほしい! それにしても、この釈迦如来倚像は不思議なお姿である。膝頭を外側に開いて台座に浅く腰掛けた様子は、何だかずいぶんくつろいでいらっしゃる。ポーズが自然で人間的なので、つい等身大くらいをイメージしていたが、全高83.9cmと、記憶よりずっと小さかった。

 それから、むかしの通勤コースをたどって調布駅まで歩く。布多天神の門前から調布駅までの短い商店街が、天神通商店街である。ちょうど私が通勤していた頃、調布在住のマンガ家・水木しげる氏にちなんで、鬼太郎と妖怪たちのオブジェが設置され、すっかり有名になってしまった。心なしか、この鬼太郎のポーズは、深大寺の釈迦如来倚像に似ている。



 そう思うと、一反もめんに乗った猫むすめは、来迎阿弥陀像に見えるし、



 ねずみ男は、もちろん釈迦涅槃像(向きが逆か)。背後の中華料理店の厨房に、ねずみ男とおそろいの、全身黄色装束の人物がいるのが可笑しい。


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