見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

意外と人間臭い/国宝 源氏物語絵巻(五島美術館)

2010-11-19 23:54:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 開館50周年記念特別展『国宝 源氏物語巻』(2010年11月3日~11月28日)

 改修休館前の最後の特別展だが、五島美術館所蔵の『源氏物語絵巻』は何度も見たことがあって、あまり気乗りがしなかった。徳川美術館所蔵分も展示されると分かって、それじゃあ行ってみようと腰を上げた。ネットには、待ち時間30分とか1時間とかいう書き込みもあったが、半信半疑だった。

 土曜日の夕方、15時過ぎに上野毛に着くと、駅前には「待ち時間0分」の札を掲げた係員。ほんとに入館待ちなんて出るのかしら、と怪しむ。会場は、右から左へ壁に沿ってぐるりと、物語の進行順に(徳川美術館分と五島美術館分を分けずに)詞書→原本絵画→復元模写を展示する。全ての場面に付けられた復元模写が鑑賞の助けになってありがたい。釈文、概要、描かれた人物の注を記したパンフレットも便利である。

 見ていくうちに、だんだん引き込まれていくのが自分でも分かった。最初の「蓬生」は、末摘花邸のぼろぼろ振りが、華麗な王朝絵巻の枠をはみ出している。次の「関屋」は、メルヘンのように愛らしい山並みを背景に、峠で行き会った源氏と空蝉一行の様子がこまごまと描かれている。屋外の情景を描いたのはこの1枚のみ(須磨も明石も残ってないので)。一転して「柏木」は屋内描写だが、女房たちの装束の色彩、調度の屏風に描かれた山水画など、細部までよく残っていることに驚く。徳川美術館所蔵分のほうが、五島美術館所蔵分より色の残り方がいいのだろうか。

 いや、そうではあるまい。「鈴虫」「夕霧」「御法」と続く五島美術館所蔵分は、どちらかというとプライベートな空間が舞台なので、抒情的だが、登場人物も少なく、衣装や調度の華やかさに欠けるのだ。再び「竹河」「橋姫」は、大勢の女房たちの華麗な衣装を丹念に描き込んだ場面が続く。同工異曲になりそうなところを、作者は画面構成にさまざまな工夫を凝らしている。徳川美術館分のほうが変化に富んでいて面白いなあ。

 絵画は『源氏物語』の梗概を知らなくても、おおよそは楽しめる。ただし、たとえば「宿木」では、琵琶を弾く貴公子(匂宮)とそれに耳を傾ける姫君(妻の中君)の、一見親密そうな様子が描かれているが、二人の間に、猜疑と苦悩がわだかまった状態であることを知ってこの絵を眺めると、ずいぶん印象が違うと思う。二人は視線を合わせていない、という解説を読んで、なるほどと思った。

 私がいちばん好きなのは「宿木二」。匂宮が、気の進まない結婚をした六の君の姿を初めて見て、その美しさのとりこになる場面である。私は『源氏』を「宇治十帖」の前までしか読んでいないのだけど、いつかはちゃんと最後まで読もうと思った。それと、私はこの『絵巻』をあなどっていた。けっこう人間臭い魅力に富んだ作品であると感じた。今回、両美術館所蔵の20段分(19画面)をまとめて見ることができてよかったと思う。詞書の筆跡が一様でないことも分かった。詞書部分に復元模写はないのだが、展示図録の写真で見ると、料紙がすばらしく美しい。光の当て方次第なのだろうか。

 閉館ぎりぎりに展示室を出たら、ロビー左手に「入館待ち」スペースができていて、絵巻の登場人物の拡大写真等が展示されていた。入館待ちが不要だったので、せっかくの工夫を見逃してしまうところだった。

徳川美術館:企画展案内
「過去の企画展」に『源氏物語絵巻』および復元模写の画像あり。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハイビジョン工芸/幕末・明治の超絶技巧(泉屋博古館分館)

2010-11-18 22:13:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
泉屋博古館分館 特別展『幕末・明治の超絶技巧 世界を驚嘆させた金属工芸-清水三年坂美術館コレクションを中心に-』(2010年10月16日~12月12日)

 幕末から明治時代にかけて世界を席巻した日本の金属工芸の展覧会。ネットの評判が妙にいいので見に行った。ロビーに置かれた『十二の鷹』がいいと聞いて、何だろう、日本画かしら?くらいに思っていたので、チケットを求めてロビーに立った瞬間は、愕然とした。一応、文化財オンラインへのリンクを貼っておくが、このサムネイルでは、実物に向き合ったときの衝撃は伝わらないだろう。左右に4間ほどもある止まり木の上に、12羽の金属製の鷹が並んでいるのだ。白銅、赤銅、金、銀を用いて、毛筋の一本一本までリアルに再現された12羽の鷹。鈴木長吉(1848-1919)渾身の大作。1893年のシカゴ万国博覧会に出品するために作られたものだ。私は、作品自体は初見だが、たぶん木下直之先生の本か講演で、写真は見たことがある、と思い出した。

 それにしても、開いた口が塞がらないぐらいすごい。ポスターもチラシも、どうしてもっとこの作品をフィーチャリングしないのか、と思ったけど、本展の趣旨は「清水三年坂美術館コレクションを中心に」だから、国立近美所蔵の本作品は参考扱いなのか。もったいない。ちょっと不満を感じながら展示室へ。

 しかし本筋の「清水三年坂美術館コレクション」も悪くないことに、すぐに気づいた。まずは刀装具。そもそも実用品であった刀装具(鍔など)は、泰平の世となった江戸時代、大きく装飾性を増し、工芸品として自立的な存在となる。展示図録を読んだら、幕末には全国に少なくとも1万人の刀装金工たちがいたと清水三年坂美術館の館長が語っていた。刀装具って、見たことはあったが、今回ほど感激したことはなかった。(装飾品として)特に質の高いものが集められているということだろう。黒ないし濃茶に金の取り合わせがシックの極み。正阿弥勝義による刀拵(かたなこしらえ)を見て、幕末の武家の美意識って高かったんだなあとつくづく思った。余談だが、大河ドラマ『龍馬伝』の余波で仕入れた豆知識に「日本人ではじめてルイ・ヴィトンを愛用したのは後藤象二郎」というのがあるが、この刀拵を見るとうなずける。

 廃刀令によって仕事を失った刀装具の職人たちは、金工作家に転身していく。その作風は「超絶技巧」のひとこと。しかし、その超絶技巧は、遊び心や品格に寄り添い、明らかに「美しさ」を目指している。海野勝の『孔雀図煙草箱』にしても、加納夏雄の『月に雁図額』にしても、あ、美しい、愛らしい、という気持ちがまず起こり、近づいてみて、それが人の手業で作られたものだと知り、驚嘆するのである。寡黙のようで饒舌、冷やかのようで熱い、そんな感じのする芸術だ。

 それにしても、これらの工芸品は、いわゆる日本的美意識(骨董的・茶の湯的・民芸的・白州正子的)から、甚だしく遠ざかっている。もう、気持ちいいくらいに! 展示図録に、明治の工芸はハイビジョン向きだ、という発言があるが、確かにその通りだと思う。アナログ時代の低解像度の写真や映像では、この魅力は伝わらないだろう。

 その点では、この展覧会の図録は、すごく頑張っていると思う。写真がどれもきれいで、細部拡大図の選び方にもセンスが感じられる。週末からずっと、舐めるように眺めているが、飽きない。冒頭の山下裕二氏と清水三年坂美術館館長・村田理如氏の対談も読みごたえあり。編集・発行は、来年1月から同展が巡回する佐野美術館である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東大で貴重書を見る/史料展覧会(史料編纂所)ほか

2010-11-16 23:38:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京大学史料編纂所 第35回 史料展覧会(2010年11月12~13日)

 『大日本史料』等の編纂刊行で知られる同研究所が、秋の週末に行う史料展覧会。前回、参観したのは…と自分のブログを検索したら2005年、これが第34回である。ということは、4年間、私が行き逃していたのではなくて、開催されていなかったのか。貰ったパンフレットを開いたら「史料編纂所は、書庫を含む別館の耐震補強工事を経験し、その間、史料原本も、九州国立博物館にお預かりいただきました。史料原本の復帰を機に、五年ぶりに史料展覧会を開催する運びとなりました」とある。それは良かった。

 展示史料は30数点ほど。小規模だが、古代から近代まで、どの時代に興味がある歴史マニアでも納得のいく内容となっている。最も古い9世紀の『近江国愛智庄立券文』に始まり、中世は足利尊氏の書状、戦国時代は豊臣三奉行の連署状、幕末維新はペリーの自筆書簡、等々。『愚昧記』(自筆本)の紙背から発見された『広田社歌合』(道因法師が勧請)の写真パネルで、文学好きの関心も引きつけ、江戸の博物図譜や”ご存知”安政大地震の図で、いろどりを添えることも忘れない。

 『倭寇図巻』は、以前、どこで見たのだったか。2001年に東博で行われた史料編纂所100周年記念展(時を超えて語るもの)かなあ。倭寇を描いた唯一の絵画史料として知られてきたが、最近、中国国家博物館にも『抗倭図巻』という同種の図巻があることが発見された。今回の展覧会では、2つの絵巻の原寸大写真パネルを上下に並べて展示し、比較参照を楽しめるようになっていた。

 ネットで検索すると、浙江工商大学日本文化研究所長の王勇氏が、2003年に史料編纂所の『倭寇図巻』を閲覧し、今後、2つの絵巻の異動と関連を明らかにしたいと述べているので(→記事)、『抗倭図巻』の存在は、研究者の間では以前から知られていたのだろう。ただ、今年(2010年)6月、史料編纂所は『倭寇図巻』を赤外線で撮影し、白く塗りつぶされた船の旗の部分に「弘治四年」(1558年)の文字を発見。さらに10月、国家博物館所蔵の『抗倭図巻』も赤外線で撮影し、船の旗に「日本弘治三年」の文字を発見したことで(→毎日新聞 2010/10/25記事)俄然、注目を集めているようだ。私はむしろ、『倭寇図巻』の日本の海賊(?)たちが、色とりどりの肌襦袢を着ているのに対し、『抗倭図巻』では褌ひとつの丸裸なのが気になる。

 実は、一番おもしろかったのは、冒頭に「参考展示」されていた『歴史課日記』『修史局日記』等の近代史料。こういう史料をじっくり読んでみたいものだ。江戸城って明治6年(1873)に火災を出して、多くの文書を失っているのか。あまり認識していなかった。→かんがくかんかく(漢学感覚)(個人ブログ)に詳しい。長松幹による『秘閣中焼失図書目録』(この書物はどこにあるんだろう?)の抜粋を見ると、うわぁぁ、もったいない。

 同展のあと、総合図書館の貴重書展『原資料の保存と電子化による情報発信』(2010年10月29日~11月14日)にも立ち寄る。江戸期の版本が中心だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国的「国民の誕生」/革命とナショナリズム(石川禎浩)

2010-11-15 22:51:05 | 読んだもの(書籍)
○石川禎浩『革命とナショナリズム:1925-1945』(岩波新書:シリーズ中国近現代史3) 岩波書店 2010.10

 これまで読んできた中国近代史とは、ちょっと毛色のちがう本だった。多くの日本人は、「日中関係」を基軸として中国の近現代史を眺めている。しかし、当たり前だが、中国人にとって、この時代の重要課題は日中関係だけではない。本書が起点とする1925年は、近代中国の「国父」孫文が「革命未だ成らず(革命尚未成功)」の遺嘱をのこして世を去った年だ。遺嘱の課題を実現するのは国民党なのか共産党なのか、以後の中国史は、両政党の協力と対立のもとに展開した、というのが著者の立脚点である。

 「革命」という言葉もくせものである。現在の中国政府が、孫文の遺嘱にどのような解釈を与えているのか、私はよく知らない。おそらく共産主義イデオロギーに引きつけて、都合のいい歴史叙述を作りあげているのではないかと憶測する。だが、公平な目で見れば、当時の政治指導者にとって最大の課題は、民衆を近代国民に作り替え、近代国家「中国」を早急に作り出することではなかったかと思う。

 本書が対象とする20年間は、大枠は「中華民国時代」と称されるが、内実は、国共両党のほか、直隷派、奉天派、安徽派と呼ばれる軍閥たち、ソ連コミンテルン、日本の傀儡政権など、さまざまな政治勢力が、虚々実々の合従連衡を繰り返しており、さらにその外周には、砂粒のようにバラバラの民衆がひしめいていた。この時期、日本は中国と「日中十五年戦争」を戦ったことになっているが、「日本」と対峙する「中国」という国家はまだ形成途上だったように思う。

 政治指導者たちは、孫文の「遺嘱」の暗誦を民衆に強制したり、「新生活運動」なる社会教育運動(ラジオ放送を活用)や農村モデル事業によって「国民」精神の刷新に懸命につとめた。これらは同時期の日本の運動と似ているところもあって興味深い。

 しかし、中国民衆の「客分」意識は徹底している。1940年前後の重慶市民を対象とした調査で、中国が戦っている相手が日本だと答えられなかった者が7%もいたというのだ。これを「遅れた」政治意識とみなすべきだろうか。私はむしろ見事だと思った。戦況が激しくなると、志願制が基本だったはずの共産党(紅軍)も、在地の民衆に根こそぎの動員や食糧供出を求めた。河南では、国民政府による収奪が苛烈すぎたため、農民・民兵が日本軍に味方して中国軍を攻撃する事態もあったという(へぇえ!)。要するに、平和で安穏な生活が第一と考える民衆にとっては、日本軍も迷惑だったが、共産党や国民党の軍政も同程度に迷惑だったということだ。

 それでも、中国民衆にとって、最も迷惑な存在が日本だったことは論をまたない。1930年代、日本の侵略に直面した民族的危機感から、知識人以外の一般民衆の中にもナショナリズム(国民意識)が生まれる。流行歌の誕生はその一例である。

 本書には、もちろんおなじみの政治指導者たちも登場し、劇的な活躍を見せるが(最も印象的なのは西安事変の張学良)、それ以上に興味深いのは、上記のような中国民衆の動向がリアルに叙述されていることだ。あとがきに述べられているように、イデオロギーの時代の革命史観が後退するに従い、新資料が徐々に公開されているそうで、中国近代史も、今後少しずつ見通しがよくなっていくのではないかと思う。

 日本の侵略は中国民衆を近代的な「国民」に作り替えるにあたって、結果的に大きな「寄与」を果たしたと言えなくもない。しかし、それは結果である。中国研究者として苦渋に満ちた著者の言葉「中国人を屈服させる、簡単に言えばただそれだけのために行われた戦争と無数の蛮行・殺戮によって、日本はそれまでの日中関係史を根本からぶち壊すような巨大な不幸をつくりにつくったといわざるを得まい」という一節を最後に引いておきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

顕教の美と六道絵/大津 国宝への旅(大津市歴史博物館)

2010-11-13 08:32:18 | 行ったもの(美術館・見仏)
大津市歴史博物館 開館20周年記念企画展『大津 国宝への旅』(2010年10月9日~11月23日/後期:11月2日~)

 めずらしく仕事で京都に行ったので、半日の会議を終えて、あたふたと大津に向かった。10月に前期を観覧したこの展覧会の、後期を見るためである。週半ばの平日とあって、館内は閑散としていた。

 最初の展示室Aは文書類が中心だが、けっこう入れ替わっている。独特の癖のある、円珍の筆跡が目立つ。Wikiに「枯枝のような」というけれど、厳しい人柄に似合わず、ふにゃふにゃした書風に思われる。その円珍の肖像彫刻、前期は秘仏「黄不動」と対面するかたちで中尊大師が展示されていたが、後期は第1室に御骨大師がお出ましだった。中尊大師よりも胸が厚く、怒り肩で、力に満ち満ちている感じがする。展示室Aの後半、仏像はほとんど入れ替わりなし。盛安寺所蔵の『藤花・牧牛図屏風』(寛永初期)は、左右の図柄が全く無関係なのに調和的という、不思議な魅力のある一双屏風である。

 展示室Bの仏画は、総入れ替わり。見ものは、聖衆来迎寺の「六道絵」だろう。全15幅(閻魔庁1、地獄4、人道4、餓鬼1、畜生1、阿修羅1、天人1、念仏による救済2)のうち12幅を展示。「人道四苦相図」は江戸期の模本(11/16~原本)、あと2幅は写真パネルだった。解説に、横川の霊山院に伝来したものというので、近代になって所蔵が替わったのかと思ったら、信長の叡山焼き討ちの際に聖衆来迎寺に移されたのだそうだ。浄土教の本場(=源信ゆかりの横川)で製作された、という解説を読んで、古い時代の浄土教美術って、こんなに恐ろしいものだったんだ、とあらためて思った。後世の浄土真宗になると、俗悪と紙一重のキンキラ趣味のイメージがあるのだが…。

 「宋画とやまと絵の双方の影響がある」というので、どのへんが?と思って、まじまじと第1幅に向き合ったが、これは1枚の中に双方の影響があるというより、宋画の影響の強いものと、やまと絵的な伝統に忠実なものが、シリーズの中に入り混じっていると考えたほうがいいと思う。シンメトリーの強いものとそうでないもの、人物を大きく描くものと小さく描くものといった具合で、それぞれ、かなり個性がある。よく見ると、画に添えられた文章の書体もさまざま。

 私が好きなのは「阿鼻地獄図」。上空から真っ逆様に落ちてくる亡者は「暗闇の中をニ千年の間ひたすら堕ち続ける罪人」なのだそうだ。このイメージ力、すごいな。巨大な獄卒の身の丈の数倍まで噴き上がる猛火。イヌのような怪物は銅狗というのだそうだ。『矢田地蔵大士縁起』にも出てきた。炎の描写に、ちょっと応挙の『七難七福図巻』を思い出す。応挙は、この『六道絵』、少なくとも江戸期の写しは見てるんじゃないかな。ちなみに私、この作品は、2008年の琵琶湖文化館休館直前の収蔵品特別公開以来である。たぶん。

 このほか「顕教の美」と題して、宋や高麗の仏画、宋元画をもとにした鎌倉・室町期の仏画など、全体に異国趣味の漂う作品を多数紹介。しかし、いいな、と思う作品は、ことごとく聖衆来迎寺と関係がある。このお寺、一度行ってみなければ…。『絹本著色楊柳観音像』は、宝冠と瓔珞に荘厳された観音が、ゆったりした半跏踏下のポーズで思索にふける姿を、やや横向きに描く。ベール越しに透けるピンク色の柔肌。足下には小さな善財童子。高麗仏画の典型的な画題のひとつだそうだ。奈良博の『絹本著色釈迦三尊像』3幅も、もとは聖衆来迎寺伝来。頭部のはちの広がった釈迦の面相といい、豪華な衣装に埋もれた細身の文殊・普賢といい、ものすごく宋風。いや、中国では宋といえば、貴族文化に代わって、堅実で現世的な市民文化の交代期なんだけど、日本に伝播した「宋風」って、その華麗でデカダンな上澄みだけ貰ってきた感じがする。などと一考。

 明徳院の『絹本著色地蔵菩薩像』は、面長で、地味だがよく見ると美形。足下の踏み割り蓮華、たなびく雲足が、東大寺の快慶作の阿弥陀如来立像を思わせる。両腕を高く掲げた清水寺式千手観音や、金色の仏菩薩集団を描く来迎図が多いことも目立った。

 結局、2時間以上を過ごして、閉館のチャイムに送られて退出。同時開催中の『大津百町大写真展』は見られなかった。嗚呼…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みんなで考える/希望のつくり方(玄田有史)

2010-11-11 00:56:30 | 読んだもの(書籍)
○玄田有史『希望のつくり方』(岩波新書) 岩波書店 2010.10

 2005年、著者の勤務する東京大学社会科学研究所が「希望学」というプロジェクトを始めると聞いたときは、正直、ええ~と思って引いてしまった。新興宗教じゃあるまいし。以来、このプロジェクトの成果(叢書『希望学』全4巻が出ている)には、なるべく用心して触らないようにしてきた。

 しかし、本書の冒頭で「希望学の正式名称は『希望の社会学』です」と述べているのを読んで、疑いを解いた。個人の心の持ちようとして希望を考えるのではなく(それは哲学あるいは心理学では学問の範疇に入るのかもしれないが、限りなく宗教に近い)、希望と社会の関係を発見しようとしてきたという。よかった。それでこそ社研である。

 大学のプロジェクト研究というのは、さまざまな専門をバックグラウンドにした研究者たちが、わいわいと活気ある意見交換をしながら進んでいく。そのプロセスが、本書からは垣間見えるようで面白い。

 たとえば「希望とは何か」という問いに対して、はじめに社会思想研究者のスウェッドバーグさんは「Hope is a Wish for Something to Come True」という定義を示した。すると、行動を大切にする比較法社会論の広渡清吾さんが、「by Action」を付け加えることを提案する。さらに、希望を社会のものとするために、教育学者の門脇厚司さんは「with Others」を加えてはどうかとアドバイスする。著者は、なるほどと納得しながら、お互いを尊重するという意味で「Each Other」でもいいな、と考える。

 名前は示されていないが「情報検索システムを開発している研究者の方」に、曖昧検索という手法を用いて、過去の新聞記事の中から「希望」と関連の深い言葉を検索してもらったという話も興味深かった。最初に現れたのは、意外にも「水俣」という言葉だったという。これに関する著者の分析は本書の記述に譲りたい。

 大学の先生というのは、引きこもって本ばかり読んでいたり、ライバルを排除して独占的な発明・発見を目指す職業ではなくて(そういう側面もあるだろうけど)、こんなふうに対話を重ねて、共同知を形作っていく職業なんだなあ、ということがよく分かり、新鮮で面白かった。

 著者と若い世代(中学生や高校生)の対話、地域で希望の再生に取り組む釜石の人々の話、著者自身の(大学教師になりたての頃の)失敗体験など、具体的なエピソードが率直に語られていて、読み飽きない。

 自分の人生に希望がほしいと思っている人にも、自分の人生はいいとして、地域や社会全体にもう少し希望をつくりたいと思っている人にも、保証された特効薬ではないが、暖かい読後感を与えてくれる1冊である。でも、若いうちから(結果的に)こんな人生指南めいたものを書いてしまって、著者はこのあと大丈夫なんだろうか、と少し心配でもある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

守り伝えた人々/東大寺大仏(東京国立博物館)

2010-11-10 00:54:42 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 光明皇后1250年御遠忌記念特別展『東大寺大仏-天平の至宝-』(2010年10月8日~2010年12月12日)

 大仏造立に関わる作品を通して天平文化の精華を紹介する展覧会。早くに行った友人からは「拍子抜けするほど空いている」と聞いていたが、せっかくなので11月2日~21日の正倉院宝物展示期間を待って見に行った。日曜日の昼前、だんだん混み始める時間なので、順番を無視して、正倉院宝物の展示室に直行。場内は、そこそこ程度に賑わっている。

 今日いちばんのお目当ては『銀壺』。生気あふれる狩猟図を刻印した大型の銀製容器で、ほぼ同形同大で文様も同一の「甲」「乙」が一対で伝来し、今年の正倉院展には「甲」が、この東大寺大仏展には「乙」が出品されているのである。このことはネットの掲示板で知った。四隅からスポット照明が当たっているせいか、文様は奈良博より見やすい感じがした。縁の近くに、ウサギの姿も確認。

 「甲」「乙」の文様が本当に同じものか、写真を見比べてみようと思って図録を買って帰った。同じ箇所の写真はほとんどなかったが、唯一、台座の小さな文様で、有翼馬の背を押さえる男の図が共通していて、もし同じ位置の写真だとすれば、有翼馬の表情や周囲の草花や小動物の配置が、微妙に異なることが分かる。ついでに気になったことを書いておくと、今年の正倉院展の図録は、72ページの銀壺に関して「誤まりがありました。上の図版に差し換えて下さるようお願いいたします」というコメントつきの訂正紙が1枚挟まっている。訂正版のほうが写真写りがいいので、それで差し替えかな?と思っていたのだが、誤り写真は、どうも『東大寺大仏』展図録151ページの掲載写真に一致するようなのだ。「甲」(正倉院展出品)と違えて「乙」(東大寺展出品)の写真を載せちゃったということかな? 下衆のかんぐりだったらごめんなさい。

 このほか、正倉院の宝物では、大仏開眼会に使われた縹縷(開眼縷)、筆、墨が揃っていて、往時が偲ばれた。金銅板を鳳凰形に型抜きした『金剛鳳形裁文』は初見かもしれない。平等院の鳳凰さながらの均整のとれた姿態。古代の日本人は、龍より鳳凰のほうが好きだったみたいだなあ。

 この展示室(天平の至宝)のもうひとつの見ものは、輝き、聳え立つ不空羂索観音菩薩立像の光背。ネット等では「光背だけかよ」とすこぶる評判が悪かったが、これはこれでいいと思った。私は三月堂の不空羂索観音が大好きなので、光背だけでも、はっきり御姿を幻視することができる。会場では、斜め隣りに等身大(?)に近い大写真パネルがあり、これも嬉しかった。本物の観音像には絶対できないくらい近寄って、しげしげと不躾に観察してしまった。光背の裏側にまわって、金色に輝く支柱を発見したときも、ひそかな秘密に触れたようで興奮した。

 「スカスカ」「つまらん」と悪評が多い展覧会だが、私は思ったよりも楽しめた。冒頭に戻って、東大寺構内で発見された出土遺物(主に瓦)の分類展示も面白かったし、地中レーダーを用いた探査風景の写真には目を見張った。芝刈り機を引くおっさんみたいだ。いいなあ、奈文研。仏像は少なめだが、肖像彫刻の名品は勢ぞろい。僧形八幡神像は、神像だが、頬や頸肉のたるみ具合など、老僧の肖像彫刻と見たほうがいいだろう。

 たび重なる苦難からよみがえり、今日に至った東大寺を紹介する最終章では、鎌倉時代の重源上人の功績はよく知られたところだが、三好・松永の合戦以来、1世紀以上も荒廃していた東大寺を、貞亨・元禄年間に復興した公慶上人の粉骨砕身の努力をあらためて知った。現存する大仏殿も大仏の頭部も、江戸ものだから品がないとか、勝手なことを言ってきて、申し訳なかったと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京のほとけ/救いのほとけ(町田市立国際版画美術館)

2010-11-09 22:33:28 | 行ったもの(美術館・見仏)
町田市立国際版画美術館 企画展『救いのほとけ-観音と地蔵の美術-』(2010年10月9日~11月23日)

 町田の国際版画美術館には、むかし1、2度来たことがあるはずだが、2004年から書いているこのブログに記事がないのだから、本当に久しぶりだ。本展は、観音と地蔵に重点を置き、「救い」をテーマとする仏教美術を紹介する展覧会。友人からもらった招待券に、木彫らしい仏像の写真があって、私は首をかしげた。版画美術館で仏像展、なのか?

 会場に入ると、パッと目に飛び込むのは数体の仏像。まわりに並ぶ紙資料は「印仏」や「摺仏」で、多くは仏像の像内納入品だったものだ。版画美術館的には、こっちが主役なんだろうけど、やっぱり、仏像から語りたい。滋賀県近江八幡市の福寿寺の本尊・千手観世音菩薩立像(平安末期、重文)は、丸顔、太い首、くびれの少ない、肉づきのいい腰。対照的に、胸と腹の前で合わせた左右の腕は、細くたよりない。子どもが施した化粧のように、白目と赤い唇の色彩が鮮やか。像内からは、団子鼻の素朴な千手観音像(と解説は言うが、四臂しかない)をスタンプのように並べて押した印仏が発見されている

 千葉の歴博が所蔵する地蔵菩薩像(鎌倉、重文)は、下ぶくれの顔、白い肌がリアルで、生き人形みたいな地蔵様だ。おびただしい納入品で知られる。縦が10センチ前後の地蔵の印仏は、よく見ると複数の種類が見られる。

 仏像ではもう1体、よみうりランドが所蔵する聖観音立像(平安、重文)にも注目。四角ばった顔。上半身がゴツく、両腕が長い。大きく腰をひねり、左手を前に突き出して立つ。相撲取りかレスラーみたいに力強い。正力松太郎氏旧蔵で、遊園地内の聖地公園に安置されている。「準西国稲毛三十三観音」の番外札所にもなっているが、この霊場は、12年に1度の午年だけ開帳されるそうだ。次回は平成26年。4年後かあ。

 この展覧会、特に後半は地元(東京)密着型で、祐天寺所蔵の『紺地金字法華経』とか、浅草寺所蔵の『浅草寺縁起』とか、東京育ちの私でも全く初見の文化財をいろいろ見ることができて面白かった。浅草寺では、節分の夜に秘仏・本尊の姿を摺りものにして信者に施す習慣(柳の御影)があったそうだ。図録の解説も触れていたが、絶対アクセス不能の「秘仏」と、大量に頒布される「複製」の関係って、考えると面白いと思う。奈良の当麻寺では、大正時代、畳1枚ほどもある天井板を外してみたら、十一面観音像の版木であることが発見された。なかなかの美人観音である。

 『矢田地蔵大士縁起』は、あ、写真で見たことのある絵だ、と思ったが、絵巻のかたちではなくて、対幅(絵解きに適した)に改装されて伝わっているのは知らなかった。しかも奈良の矢田寺でなく、京都の別院に伝わっているのね。燃え盛る地獄の業火の描写がすさまじい。

 最後の『観音大士五十三現象』(中国清代の版画集)は付録のつもりで見ていたら、デカルトみたいな黒髪・口髭の図像があって、びっくりした。17世紀の作だというが、既に西洋絵画の影響を受けているのかな。面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民権運動という触媒/客分と国民のあいだ(牧原憲夫)

2010-11-08 02:07:37 | 読んだもの(書籍)
○牧原憲夫『客分と国民のあいだ:近代民衆の政治意識』(ニューヒストリー近代日本 1) 吉川弘文館 1998.7

 誰が政権を握ろうとも、安穏に生活できればそれでいい。近世以来、「客分」意識の濃厚だった日本の民衆が、近代国家に適合した「国民」に変容できたのはなぜか。本書は、1880~90年代、国民意識の創出過程を描き出す。

 読み始める前、私の頭の中には2つの「倫理的」な歴史観があった。ひとつは、客分意識は遅れた民衆の姿であり、主体的に政治に参画する近代国民こそ正しいという啓蒙主義的な立場。もうひとつは、全く逆に、民衆を国民に仕立て上げた近代国家権力の暴力性を批判する立場。ところが、本書は、これらの「倫理的」な歴史理解が、いかにステレオタイプかを教えてくれる。

 まず、客分意識は単なる政治的無関心ではなく、ひとつの政治意識であったと著者は規定する。近世の民衆は身分制支配を廃棄しようとはしなかったし、自ら治者になろうとはしなかった。しかし、治者あるいは富者が私利私欲を優先し、領民の保護をないがしろにしたときは、彼らは、一揆や放火という手段に訴えて、その不正を糾弾した。ここに描かれる近世民衆の堂々とした姿! 江戸期には「仁政は武家のつとめ、年貢は百姓のつとめ」という対句が唱えられていたそうだ。

 ところが、近代国家における「自由放任」の論理は、治者と富者を、強者としての責務から解放する(昨今の新自由主義の話を聞いてるみたいだが、あくまで明治初年の話である)。伝統的な「仁政」を求める民衆にとって、御新政は理不尽なものにしか見えなかった。ここに「仁政」と「客分」を脱却し、一身独立による自力更生の道を探る人々が登場し、自由民権運動へと育っていく。著者は、この淵源に開化論者と国学者の2つがあることを、注意深く指摘している。

 民衆と民権家の政治意識は全く別の方向を向いていた。けれども民権家が、露骨な悪口で官吏や巡査を罵り、「演劇的興奮」をつくり出せば、民衆は熱狂した。このあたりも、まさに2000年以降の日本を見ているようだ。当時の巡査(いちばん身近な官吏だった)の嫌われぶりは、いまの公務員にそっくりである。そして、根本的なすれちがいに目をつぶったまま、民権運動は、民衆の反政府的エネルギーを利用することで、明治政府に多大なインパクトを与えることができた。これも昨年の政権交代が思い合わされるところである。

 著者は、民権運動との共振が民衆の政治意識に変化をもたらしたのではないかという。つまり「民衆が国民になっていくための〈回路〉を民権運動は結局のところ切り拓いたのではないか」と。民権運動は、政府に反対しながら、国家を自分たちの側に取り込んでいく。国家を愛するからこそ政府と闘う、というのが彼らの論理だった。民権運動会(!)における軍隊をまねた隊列行進、”国旗”日の丸の掲揚、「天皇万歳」「帝国万歳」の唱和。政府が任命した教導職が、いくら天子様のありがたさを説教しても効果のなかった1880年代に、自由民権運動こそが、天皇・軍隊・国旗等を民衆の身体に浸透させていったのだという。これは知らなかったなあ…。「国民化」は明治政府でなく、むしろ反政府運動たる民権運動の側から来ていたのか。

 さらに民衆の国民化を加速させたのは外交問題だった。1884年の甲申事件(朝鮮クーデター)で仁川の日本人が暴行・殺害されたことが、一挙に民衆の愛国心を沸き立たせる。殺されたのは”われわれ日本人”だ、”われわれ”が仇をうたねばならない――。うーむ。尖閣ビデオ流出問題の渦中で、私は、何か恐ろしい偶然を感じながら、本書を読んでいた。いま目の前で起きていることの解釈が、本書に述べつくされているように思いながら。

 このあと、本書は、政府主導の「祝祭」が、客分意識のままの民衆を国民化していく回路を語る。この点は、既に別の研究もあって、前半ほどの新味は感じなかった。また、国家の周縁に追いやられつつも、祝祭による国民化に満足せず、より主体的に国民になろうとする人々は、青年団運動や女性運動を通じて、かえって熱烈な国民になろうとした。これは重要な指摘で、今後、著者によるさらに詳しい解明を期待したいと思った。

 本書は1998年の刊行だが、今こそ読まれるべき内容を豊富に含んでいる。にもかかわらず、実は「歴史書懇話会 共同復刊フェア」という棚で見つけたもの。いや、2010年に復刊されたのは喜ばしいけど、それまで、近年ずっと入手困難だったのか…と思うと、ちょっと情けない気がした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遷都1300年祭大詰め(4):正倉院展2010

2010-11-04 00:02:04 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 特別展『第62回正倉院展』(2010年10月23日~11月11日)

 正倉院展も通い続けて9年目になった。むかしは日中とか夕方に来たこともあったが、このところ、混雑を避けて「朝一番に並ぶ」ことを通例にしてきた。ところが、最近は、開館と同時に入るためには、1時間以上前から並ばないといけないし(すぐ入館規制に引っ掛かる)、開館と同時に入っても、あっという間に満員になってしまって、「朝一番」の恩恵が全く感じられない。そこで今年は「日曜の夕方」ねらいに作戦を変更。

 10/31(日)の16時過ぎ、都合よく(?)雨の降りも強くなり、奈良町を歩く人の姿も減ってきた。携帯サイトをチェックすると、入館は「30分待ち」程度らしいので、そろそろ奈良博に向かう。夕闇の中に無人の白いテントが伸びていた。入館待ちの列は、奈良博新館のピロティ程度で、すいすい進み、20分ほどで館内に入れた。

 ただし、今年の目玉、『螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)』のまわりには、最前列でこれを見るための列が作られていて「立ち止まらずにお進みください」と促される。会場には、芝祐泰(しば すけひろ)氏による試験演奏のテープが流れていて、あれ?どこかで聞いたことがある、と思ったら、昨年、『紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ)』が展示されたときも、同様のテープが流れていたのだった。正倉院宝物の琵琶って、全て録音が取られているのかな。

 なるほど、と思ったのは、すでに場内混雑のため、観客が速やかにバラけて、先頭の『山水夾纈屏風(さんすいきょうけちのびょうぶ)』や『鳥草夾纈屏風(とりくさきょうけちのびょうぶ)』を、ゆっくり見ることができたこと。これはラッキー。朝一番に並ぶ人って(私も含めて)根が真面目だから、最初の宝物の前で滞留しやすいのである。のちの山水画や花鳥画に通ずる構図が面白かった。

 大仏開眼会ゆかりの品として、伎楽面の『酔胡王』『迦楼羅』が出ていた。大きく色鮮やかで、舞台の広さ、観客の多さがしのばれる。ところで、展示室の隅につつましく控えているのに、どうしても人目を引いていたのは『獅子』面の模造復元品。先日、特別展『仏像修理100年』で見て、同行の友人と「なんだこれ~」と言い合った、もふもふの獅子頭である。復元のもとになった原品も展示されているが、耳が取れ、色彩も植毛も剥落して、炭のかたまりのようになった姿が痛々しい。よみがえって、よかったと思う。

 今年いちばん気に入ったのは『銀壺』。素っ気ない饅頭型(火鉢型)の大きな壺で、遠目には何も面白くない。ところが近づいてみると、十二人の騎馬人物が弓矢を手に右へ左へと駆け巡り、カモシカ、獅子、猪などを追っている図が刻まれている。さらに飛鳥、蝶、獅子、虎なども。疾走するメリーゴーランドのようで、見とれた。後半には『雑札(ざっさつ)』が登場。地中にもぐらなかった木簡である。未使用の紙がたくさん残っていることも初めて知った。そのまま現代の紙問屋でも売っていそうな『色麻紙(いろまし)』一式など。

 閉館(19時)30分前くらいになったところで、最初の展示室に戻ると、どのケースの前もガラガラ。琵琶のまわりも20人程度に減り、ゆっくり四方から見ることができた。側面や糸巻の螺鈿も完璧に美しい。しかし、つい工芸的な美に眩惑されてしまったが、「世界唯一の古代の五絃琵琶の遺例」なのだから、録音(特に第五絃の音)をよく聞いてくればよかった、と思っている。

 当日中に東京に戻ることもできないではなかったが、この日はまた友人と落ち合って夕食(奈良の地酒・百楽門で乾杯)。奈良(新大宮)に後泊し、月曜日の昼には、まっすぐ職場に戻った。うん、今後はこの参観スタイル、いいかも。

 補記。雨天の正倉院展にあたったのは初めてだと思うが、ビニール袋に入れただけで会場内に濡れた傘を持ちこめるって、大丈夫なんだろうか…と、ちょっと心配になった。

※参考:これまでの正倉院展参観記録

第61回(2009):振替休で月曜朝
第60回(2008):金曜に名古屋前泊して土曜朝
第59回(2007):土曜に奈良前泊して日曜朝/2回目は11/3夕方
第58回(2006):金曜の夜行バス(早めの便)で土曜朝
第57回(2005):金曜の夜行バスで土曜朝
第56回(2004):金曜の夜行バスで土曜朝
・2002、2003年も行っている。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする