74年前の午前11時2分長崎にファトマンふとっちょと言われるプラト
ニュム型原爆が投下された。
ニュム型原爆が投下された。
当時長崎市の人口は24万人で原爆で直接死亡したのは7万4千人
と言われて居ますが、その数倍の人が後遺症や二次汚染で苦しみ
と言われて居ますが、その数倍の人が後遺症や二次汚染で苦しみ
ながら死んで行った。
同じ被爆地でありながら、恨みの広島・祈りの長崎・と言われるが
そんな生半可なもではない。
そんな生半可なもではない。
今尚長崎には当時の痕跡がなまなましく残っています。
広島と違い直接の爆死が少ないのは落下地点が長崎中心街から
外れた浦上地区であった事と丘と坂が多い長崎の地形が関係して
外れた浦上地区であった事と丘と坂が多い長崎の地形が関係して
居る。
長崎に原爆が落とされた経緯は長崎にとっては大変不幸な出来事
が関わっています。
が関わっています。
此の原爆の投下第1候補地は小倉でした。
処が小倉は前夜の米軍B29の空襲で煙が立ちこんで居て視界が
悪く何回も投下に失敗し燃料が少なくなり第2候補地の長崎に変更
された。
悪く何回も投下に失敗し燃料が少なくなり第2候補地の長崎に変更
された。
全く運の悪い長崎でした。
米国は日本への原爆投下は戦争の犠牲を少なくするためと主張
して居ますが、日本が降参するのは時間の問題と言われた時に
敢えて原爆投下を急いだのには理由があるのです。
して居ますが、日本が降参するのは時間の問題と言われた時に
敢えて原爆投下を急いだのには理由があるのです。
ドイツの科学者が開発した原爆を実験する場が欲しかったのです。
日本人はそのモルモットとして選ばられのです。
そのため広島にはウラン型原爆を長崎にはもっと威力のある
プラトニュム型原爆を投下した。
プラトニュム型原爆を投下した。
米国は終戦と同時にその成果を明らかにするABCCと言う原爆
研究所を広島と長崎に設置し治療ではなく死傷状況データ収集に
あたった。
研究所を広島と長崎に設置し治療ではなく死傷状況データ収集に
あたった。
ABCCは原爆障害調査委員会と言われる民間機関で治療ではなく
原爆の障害データー集めを目的の機関でその後5年間行った。
原爆の障害データー集めを目的の機関でその後5年間行った。
途中から日本の医療機関も参加して居ます。