高橋源一郎 1989年 福武書店
きのうから、さらに競馬つながりで。
競馬つながりといっても、この本は、妙な響きではあるけれどタイトルのとおり、文学に関する本です。
「海燕」に連載された文芸時評を中心にまとめられた、文学批評です。
ただし、批評ってのにありがちな固っーい感じの書き方ぢゃなくて、著者がいろいろ実験的(って言っていいのかなぁ?)なスタイルを、章ごとに試しているかのように書いてるんで、飽きずに読めます。
で、そのなかのひとつ「QアンドA」って章は、落語のおなじみ登場人物である、八っつぁんと大家さんの問答という形で、文学について語ってる。
それの何が競馬と関係あるかっていうと、ダイレクトに昭和63年のオークスの競馬予想紙を採りあげている。
「競馬エイト」の、(競馬に関する筆を折る前の)大橋巨泉の「巨泉でバッチリ」と、「攻めの本紙吉田」の比較が、興味深い。
長くなるけど、引用しちゃうと、
>巨泉さんはこう書いてらっしゃる。
「安田記念はいかにも定量のGIらしく、強い馬同士で決着がついたが、古馬と違って四歳のしかも牝馬同士の争いともなれば、そう簡単にはおさまらないかも知れない。
強い順なら当然アラホウトクで何もないことになる。桜花賞のレコード勝ちに続いて、重め残りや初距離をうんぬんされた前走も楽勝となれば、すでに同世代の牝馬では太刀打ちできないようにも思える。もしこれでオークスも完勝したら、メジロラモーヌやマックスビューティと肩を並べる名牝といえるかも知れない。問題はデビュー以来休みなく使われてきたローテーションで、ボクは前走がひとつ多かったような気がしているので少々ひっかかっている。
シヨノロマンも同様で、三カ月半で六戦目であるし、父のことを考えてもあまりオークス向きとはいえないようだ。
血統や過程からいえば断然アインリーゼンだろう。オークス2着の母にオークス2勝の父という配合は理想的だし、桜花賞に行かなかったローテーションもよい。問題はキャリア不足だけに、どこまで成長力がカバーしているかという点。オッズ次第で(6)の単は買ってみたい。
前走本命の期待を裏切られたスイートローザンヌだが、イレ込みぐせがどのくらい解消しているかがカギとなる。ただ小島君も前走のテツは踏むまいから要注意。
本来ならフリートークを本命にもと考えていたが、四歳春のクラシックで順調度を欠くのはいかにも痛い。ただ能力は一線級。
穴っぽいのはマイネレーベンで、名手蛯沢に乗り変わった分不気味である。あとはスルーオベストがどんな逃げ方をするか。復帰岡部のスイートバーデンとともに注目したい。」
ってことで、この予想コラムを「こりゃあなかなかうまい文章だ」と誉めている。それで他の予想家たちの文章と差異化してる部分をチェックするとして、引かれるのが前述のとおり、
>ちょうどいいや、その下にある吉田ってやつの予想もならべてみるよ。
「期待したアインリーゼンは2枠6番と絶好枠を引き当てた。三戦目のトライアルであのハイペースを積極的に追走し、一線級相手に僅差3着の内容は潜在能力の高さを物語るもの。順調さを欠いた前走とは一変して、中間の調教状態は万全で、デビュー以来最高の仕上がりと判断できる。1勝馬ながら素質では全くヒケは取らず、57年2着の母の無念を晴らす絶好のチャンス。
桜花賞‐トライアルを連覇したアラホウトク。二戦とも着差以上の内容で、勝負強さ、切れ味とも歴代のオークス馬と比べても全くそん色ない。中間も順調となれば最有力候補の筆頭だが、ここ二戦で見せた抜群に切れる末脚が、二千四百メートルとなって再度発揮できるか、多少不安が残る。
トライアルは休み明け、ハイペースの流れをしぶとく粘ったスルーオベストの変わり身も不気味。脚質的にこの枠は絶好だけに前半の折り合い次第では、そのスピードは脅威。ここ二戦、アラホウトクに連続2着のシヨノロマンの堅実味も捨てがたい。脚質自在、主戦騎手となって争覇圏内は間違いない。ほかでは距離延長が好材料のフリートークの先行力、マルシゲアトラスの追い込みに注意したいが能力互角のスイートローザンヌは当日落ち着いていれば怖い。」
って文章。
これを比較して、
>いいかい、例えば、巨泉さんは、こういう筆づかいをなさってる。
(1)「ボクは前走がひとつ多かったような気がしているので少々ひっかかっている」
(2)「問題はキャリア不足だけに、どこまで成長力がカバーしているかという点」
(3)「本来ならフリートークを本命にもと考えていたが、四歳春のクラシックで順調度を欠くのはいかにも痛い」
ところが、吉田さんはってえと、
(1)「母の無念を晴らす絶好のチャンス」
(2)「ここ二戦で見せた抜群に切れる末脚」
(3)「ハイペースの流れをしぶとく粘った」
つまりだな、吉田さんは肝心のところにくると主観を形容詞や副詞で補強しちまう。それは、吉田さんに「構想力」がないからなんだな。ところが、巨泉さんの文章の裏には、自然哲学がある。「競馬」なんてえものは、畜生が走るわけだから、もともとは天然自然のものだった。始まったのはエゲレスなんだが、二百年以上もやってると、「競馬」から「競馬道」になっちまうんだな。この吉田なんざ、まだまだ、性根が坐ってねえから、せいぜい書いてるものも「評論」とか「予想」ってとこなんだが、本場の連中はさすがに「競馬のディスクール」ってえものを身につけてるな。
として、本題である、文学と競馬の構造的同一性、1860年以降、競馬は競馬という物語を語る装置へと転化してしまった、といことを説くんだが、近代競馬批評というものについて、
>それは歴史化された自然というフィクションを巨泉さんが信じてるからなんだが、その確信の強さがあの文章に反映しているわけだな。その点、吉田なんて野郎の文章は、可哀そうだが近代以前の代物だ。
と明快に解説してくれてます。
「肝心のところにくると主観を形容詞や副詞で補強しちまう」ってことは、競馬について語りたがる、すべての人が陥らないように戒めとして、胸に刻んどいてくれといたらなぁ、って個人的には思います。
(アクシデントも含めて)“やってみなきゃ、わからない”ってことを忘れた、競馬に関する語りようは、どうしても傲慢に響くもんで。
所詮は「遊び」なんで、気楽にいこうぜぇ!?
きのうから、さらに競馬つながりで。
競馬つながりといっても、この本は、妙な響きではあるけれどタイトルのとおり、文学に関する本です。
「海燕」に連載された文芸時評を中心にまとめられた、文学批評です。
ただし、批評ってのにありがちな固っーい感じの書き方ぢゃなくて、著者がいろいろ実験的(って言っていいのかなぁ?)なスタイルを、章ごとに試しているかのように書いてるんで、飽きずに読めます。
で、そのなかのひとつ「QアンドA」って章は、落語のおなじみ登場人物である、八っつぁんと大家さんの問答という形で、文学について語ってる。
それの何が競馬と関係あるかっていうと、ダイレクトに昭和63年のオークスの競馬予想紙を採りあげている。
「競馬エイト」の、(競馬に関する筆を折る前の)大橋巨泉の「巨泉でバッチリ」と、「攻めの本紙吉田」の比較が、興味深い。
長くなるけど、引用しちゃうと、
>巨泉さんはこう書いてらっしゃる。
「安田記念はいかにも定量のGIらしく、強い馬同士で決着がついたが、古馬と違って四歳のしかも牝馬同士の争いともなれば、そう簡単にはおさまらないかも知れない。
強い順なら当然アラホウトクで何もないことになる。桜花賞のレコード勝ちに続いて、重め残りや初距離をうんぬんされた前走も楽勝となれば、すでに同世代の牝馬では太刀打ちできないようにも思える。もしこれでオークスも完勝したら、メジロラモーヌやマックスビューティと肩を並べる名牝といえるかも知れない。問題はデビュー以来休みなく使われてきたローテーションで、ボクは前走がひとつ多かったような気がしているので少々ひっかかっている。
シヨノロマンも同様で、三カ月半で六戦目であるし、父のことを考えてもあまりオークス向きとはいえないようだ。
血統や過程からいえば断然アインリーゼンだろう。オークス2着の母にオークス2勝の父という配合は理想的だし、桜花賞に行かなかったローテーションもよい。問題はキャリア不足だけに、どこまで成長力がカバーしているかという点。オッズ次第で(6)の単は買ってみたい。
前走本命の期待を裏切られたスイートローザンヌだが、イレ込みぐせがどのくらい解消しているかがカギとなる。ただ小島君も前走のテツは踏むまいから要注意。
本来ならフリートークを本命にもと考えていたが、四歳春のクラシックで順調度を欠くのはいかにも痛い。ただ能力は一線級。
穴っぽいのはマイネレーベンで、名手蛯沢に乗り変わった分不気味である。あとはスルーオベストがどんな逃げ方をするか。復帰岡部のスイートバーデンとともに注目したい。」
ってことで、この予想コラムを「こりゃあなかなかうまい文章だ」と誉めている。それで他の予想家たちの文章と差異化してる部分をチェックするとして、引かれるのが前述のとおり、
>ちょうどいいや、その下にある吉田ってやつの予想もならべてみるよ。
「期待したアインリーゼンは2枠6番と絶好枠を引き当てた。三戦目のトライアルであのハイペースを積極的に追走し、一線級相手に僅差3着の内容は潜在能力の高さを物語るもの。順調さを欠いた前走とは一変して、中間の調教状態は万全で、デビュー以来最高の仕上がりと判断できる。1勝馬ながら素質では全くヒケは取らず、57年2着の母の無念を晴らす絶好のチャンス。
桜花賞‐トライアルを連覇したアラホウトク。二戦とも着差以上の内容で、勝負強さ、切れ味とも歴代のオークス馬と比べても全くそん色ない。中間も順調となれば最有力候補の筆頭だが、ここ二戦で見せた抜群に切れる末脚が、二千四百メートルとなって再度発揮できるか、多少不安が残る。
トライアルは休み明け、ハイペースの流れをしぶとく粘ったスルーオベストの変わり身も不気味。脚質的にこの枠は絶好だけに前半の折り合い次第では、そのスピードは脅威。ここ二戦、アラホウトクに連続2着のシヨノロマンの堅実味も捨てがたい。脚質自在、主戦騎手となって争覇圏内は間違いない。ほかでは距離延長が好材料のフリートークの先行力、マルシゲアトラスの追い込みに注意したいが能力互角のスイートローザンヌは当日落ち着いていれば怖い。」
って文章。
これを比較して、
>いいかい、例えば、巨泉さんは、こういう筆づかいをなさってる。
(1)「ボクは前走がひとつ多かったような気がしているので少々ひっかかっている」
(2)「問題はキャリア不足だけに、どこまで成長力がカバーしているかという点」
(3)「本来ならフリートークを本命にもと考えていたが、四歳春のクラシックで順調度を欠くのはいかにも痛い」
ところが、吉田さんはってえと、
(1)「母の無念を晴らす絶好のチャンス」
(2)「ここ二戦で見せた抜群に切れる末脚」
(3)「ハイペースの流れをしぶとく粘った」
つまりだな、吉田さんは肝心のところにくると主観を形容詞や副詞で補強しちまう。それは、吉田さんに「構想力」がないからなんだな。ところが、巨泉さんの文章の裏には、自然哲学がある。「競馬」なんてえものは、畜生が走るわけだから、もともとは天然自然のものだった。始まったのはエゲレスなんだが、二百年以上もやってると、「競馬」から「競馬道」になっちまうんだな。この吉田なんざ、まだまだ、性根が坐ってねえから、せいぜい書いてるものも「評論」とか「予想」ってとこなんだが、本場の連中はさすがに「競馬のディスクール」ってえものを身につけてるな。
として、本題である、文学と競馬の構造的同一性、1860年以降、競馬は競馬という物語を語る装置へと転化してしまった、といことを説くんだが、近代競馬批評というものについて、
>それは歴史化された自然というフィクションを巨泉さんが信じてるからなんだが、その確信の強さがあの文章に反映しているわけだな。その点、吉田なんて野郎の文章は、可哀そうだが近代以前の代物だ。
と明快に解説してくれてます。
「肝心のところにくると主観を形容詞や副詞で補強しちまう」ってことは、競馬について語りたがる、すべての人が陥らないように戒めとして、胸に刻んどいてくれといたらなぁ、って個人的には思います。
(アクシデントも含めて)“やってみなきゃ、わからない”ってことを忘れた、競馬に関する語りようは、どうしても傲慢に響くもんで。
所詮は「遊び」なんで、気楽にいこうぜぇ!?

