堀井憲一郎 2011年10月 新潮新書
最近とみにマジメなことを語るのが多くなったような気がする、私の好きなライター・ホリイ氏の、新刊。
今回は、日本論。
この国について、どーしてちょっとヘンなんのかというあたりを明かしてくれてます。
タイトルの「ねじれ」というのは、日本国内では、ゴチャゴチャと議論したりとか、あまり厳格な決めごとをつくったりとかしないでも大丈夫な国民性をしてんのに、外国に対しては、なんかそれらしい外向きのものを作っちゃてるというあたりを指す。
そのへん、まず、日本を「内向きの国」と見破るとこから始まる。
>あっさりいえば、日本は内向きの国である。国内のことだけを考えていればいい。(略)内側だけでいろんなことをまわしていって、事足りるのである。
>あまり政治的人格が育たない社会を形成している。(略)小さいエリアで通用する政治手法で、日本全体も何とかなる、と考えている。やり手の町内会長さんがやっていることと、政権与党の政調会長の考えていることに、さほどの違いがない。そして、不思議なことに平時はそれで治まるのである。
>日本人は、仲間内で集まり、何となくの総意で決定していくというスタイルがとても安心する。
>日本は、自らのシステムを外に向かって説明する気がない。説明しなければいけないと考えたことがあまりない、というのが近いだろう。
>同化し、同調することによってのみ、わが民族は存続してきた。われわれは仲間であるという確認を通してのみ生き続けてきた。しかも、問題なのは、このおもいを言語化していない、ということである。みんなで言葉にして確認したことがない。一度だってない。でも、あきらかに民族的基調は「言葉にすることなくみんなで同調していこう」というところにある。
といったことが、あちこちで繰り返すように書かれてます。
そーだよなー、なんて安易に同調しちゃいます、私も日本人ですから。
ところが、外向きに、なんか主張しなきゃいけなくなったときに、ムリにそれらしい態度をとります。とりました。歴史的には、大きく2回。
一度めは、天智天皇から天武天皇にかけてのころか、日本書紀とかつくって歴史をこしらえてたころ。
対中国ってことで、いままで自分たちの国の呼び名なんて意識してこなかったのに、神武天皇即位のころからこの国は一貫して続いてます、日本です!って宣言した。
(著者は、これを「“日本国”起動プロジェクト」って呼んでる。)
二度めは、明治維新のとき。ヨーロッパの植民地にされちゃたまらないから、日本は近代国家です、大日本帝国です、憲法だってあります、と宣言した。
いずれのときも、天皇の存在をトップにすえる形で使ってしまったんだけど、実際のところ日本国民の日常においては、天皇を国王だと意識してなかったわけで、そのへん、内向きではなんとなーく同調してたものを、外向きに説明しようってシステムを作っちゃったあたりが、「ねじれ」てるってことになる。
おもしろい歴史認識だと思うけど、それよりも、私が本書のなかで、気に入っているのは、ホリイ氏がそういういろんなことを解説するなかで、自分たちはそういうもんだと意識しろって説くところだったりする。
>われわれは、いつも同じトーンでしか繰り返せない。それをきちんと認識していたほうがいい。同じことを繰り返さないように学ぼう、というのは、たわけた寝言でしかない。失敗からは学べない。われわれは繰り返すのだ。そういうものだ、ということを、ひたすら強く認識するしか方法はない。
とか、
>基本は、いつも内を向いている。外交は、あまり考えてない。得意でない。あまり考えたくないからだ。これは変わらない。変えられない。しかも、変えなくてもいい。私の意見はそうだ。ただ、そういう“変わったシステムである”ということは意識しておいたほうがいい。外国人に指摘されて納得するのではなく、自分たちで認識して、奇妙なシステムだけれどもこれでやっていけるんだ、と考えているほうがいい、ということである。
とかってとこに、私は赤鉛筆で強く線引っぱっちゃったりするんである。
最近とみにマジメなことを語るのが多くなったような気がする、私の好きなライター・ホリイ氏の、新刊。
今回は、日本論。
この国について、どーしてちょっとヘンなんのかというあたりを明かしてくれてます。
タイトルの「ねじれ」というのは、日本国内では、ゴチャゴチャと議論したりとか、あまり厳格な決めごとをつくったりとかしないでも大丈夫な国民性をしてんのに、外国に対しては、なんかそれらしい外向きのものを作っちゃてるというあたりを指す。
そのへん、まず、日本を「内向きの国」と見破るとこから始まる。
>あっさりいえば、日本は内向きの国である。国内のことだけを考えていればいい。(略)内側だけでいろんなことをまわしていって、事足りるのである。
>あまり政治的人格が育たない社会を形成している。(略)小さいエリアで通用する政治手法で、日本全体も何とかなる、と考えている。やり手の町内会長さんがやっていることと、政権与党の政調会長の考えていることに、さほどの違いがない。そして、不思議なことに平時はそれで治まるのである。
>日本人は、仲間内で集まり、何となくの総意で決定していくというスタイルがとても安心する。
>日本は、自らのシステムを外に向かって説明する気がない。説明しなければいけないと考えたことがあまりない、というのが近いだろう。
>同化し、同調することによってのみ、わが民族は存続してきた。われわれは仲間であるという確認を通してのみ生き続けてきた。しかも、問題なのは、このおもいを言語化していない、ということである。みんなで言葉にして確認したことがない。一度だってない。でも、あきらかに民族的基調は「言葉にすることなくみんなで同調していこう」というところにある。
といったことが、あちこちで繰り返すように書かれてます。
そーだよなー、なんて安易に同調しちゃいます、私も日本人ですから。
ところが、外向きに、なんか主張しなきゃいけなくなったときに、ムリにそれらしい態度をとります。とりました。歴史的には、大きく2回。
一度めは、天智天皇から天武天皇にかけてのころか、日本書紀とかつくって歴史をこしらえてたころ。
対中国ってことで、いままで自分たちの国の呼び名なんて意識してこなかったのに、神武天皇即位のころからこの国は一貫して続いてます、日本です!って宣言した。
(著者は、これを「“日本国”起動プロジェクト」って呼んでる。)
二度めは、明治維新のとき。ヨーロッパの植民地にされちゃたまらないから、日本は近代国家です、大日本帝国です、憲法だってあります、と宣言した。
いずれのときも、天皇の存在をトップにすえる形で使ってしまったんだけど、実際のところ日本国民の日常においては、天皇を国王だと意識してなかったわけで、そのへん、内向きではなんとなーく同調してたものを、外向きに説明しようってシステムを作っちゃったあたりが、「ねじれ」てるってことになる。
おもしろい歴史認識だと思うけど、それよりも、私が本書のなかで、気に入っているのは、ホリイ氏がそういういろんなことを解説するなかで、自分たちはそういうもんだと意識しろって説くところだったりする。
>われわれは、いつも同じトーンでしか繰り返せない。それをきちんと認識していたほうがいい。同じことを繰り返さないように学ぼう、というのは、たわけた寝言でしかない。失敗からは学べない。われわれは繰り返すのだ。そういうものだ、ということを、ひたすら強く認識するしか方法はない。
とか、
>基本は、いつも内を向いている。外交は、あまり考えてない。得意でない。あまり考えたくないからだ。これは変わらない。変えられない。しかも、変えなくてもいい。私の意見はそうだ。ただ、そういう“変わったシステムである”ということは意識しておいたほうがいい。外国人に指摘されて納得するのではなく、自分たちで認識して、奇妙なシステムだけれどもこれでやっていけるんだ、と考えているほうがいい、ということである。
とかってとこに、私は赤鉛筆で強く線引っぱっちゃったりするんである。