岡崎京子 2015年1月 平凡社
こないだのつづきで、岡崎京子関係の新刊。
この時期にいろいろと掘り出してくるねえ、ふしぎなことに。
マンガぢゃなくて、エッセイ。
『朝日ジャーナル』に1991年1月から1992年5月まで連載してた「週刊オカザキ・ジャーナル」と、『広告批評』に1992年6月から1993年12月まで載ってた「植島啓司と岡崎京子のFAX通信 コトバのカタログ」を完全収録ってことなんだが、私はどっちも読んだことなかった。
朝日ジャーナルは、この連載終了と同時に休刊しちゃったらしい。(←因果関係逆か?)
>悪いけど、あたしゃ今までなん誌の休刊に立ち会ってきたか。
とヲカザキは書いてるけど、小さいマンガ誌ならともかく、朝日ジャーナルまで終わるとはショックだったみたい。
その半年前くらいの1991年10月のところにも、
>ところで今秋、私の知っている限りで三つの雑誌が休刊する。した。『03』『モンパン』『やるまん・コミック・ギガ』の三誌。
って書いてあるけど、いずれも私は知らない。
同じ章に、
>私もまんが界のフリーター、紙業界のプーとして生きてきて早九年。いろんな雑誌が終わってゆくのを見てきたわ。(略)
>私が一番、個人的にココロ痛みフクザツな心境になったのは『平凡パンチ』及び『パンチザウルス』休刊のときです。
とも書いてる。んー、パンチザウルスは、名作「pink」も連載してたしねえ。
で、雑誌の休刊だけぢゃなく、この連載されてた時代、80年代が終わって90年代が始まったばっかのときってのは、湾岸戦争は始まるわ、ソ連は崩壊するわで、どうなっちゃうのと思う一方、なんかが終わってしまった感がいっぱいだったようだ。
終わっちゃったものは、たぶんにバブル的だった80年代なるものなんだが、そのかわりに素直に新しくて違う希望にみちた90年代が訪れるかというと、訪れてくれる保証も展望もなんもない、という感じだろうか、だったろうか、個人的には忘れちゃったな。
当時の風俗について、雑誌の特集とか、商品の宣伝とか、テレビとか新聞雑誌の報道とか、そういうもののバックにある資本主義的なものというか論理について、ヲカザキは何これ?おかしくない?と疑問を持っていたようだ、そんな箇所がいっぱいある。
80年代については、一度ハッキリと、
>この時代に生きようとする以上、「悪しき八〇年代的なもの」はすべてゴミ箱に廃棄するべきだと私は持っている。(略)
>今、世の中をうさんくさくさせているものは悪しき八〇年代の亡霊だ(と、思う)。(略)(p45)
と断じている。
おかしくなりはじめてる日本の大衆については、
>へんな感じ、と思うのがこの戦争を「良い」「悪い」という二元論で判断し語ってしまう人々のことである。(略)
>結論を常に用意しないと安心できないというどんかんさ。「良い/悪い」という道徳の時間的二元論でまずものごとを「解釈」してしまうお目出たさ。(略)(p22-23)
と見抜いてる。なんか西部邁さんとつながるものあるように感じるなあ。
バカに限って、自分で考えられないやつに限って、説明が足りないとか分かりにくいとか言うんだよなー、そんな簡単に分かるもんぢゃないよ複雑な世の中の事象。
その他、気になったとこをいくつか引用しちゃう。
たとえば、
>(略)私はかねてから「ヤンエグ」という言葉が良くわかんなかったので勉強した。結局、資本主義の忠実でいいコな奴隷、とゆうことが分かった。(略)
>「ヤンエグ」ってビデオ・モニター的だと思う。自分の姿をいったんモニターに映さないと自分を確認できないような…(略)(p86-87)
とか。
慣れない作詞をひとつやったときは、
>それにしても今、人のココロを本当に打つ歌というのはどこにあるのでしょう?(略)
>(略)関係なくて知らない世界でもとどく音と歌とことば。
>「共感」という想像力なき感覚が充満する時代がずっと続いていて、「自分とは関係ない何か」をキョヨーする体力ってとんと落ちてて。(略)(p.98-99)
と言ってる。鋭いと思う。このころから歌だけぢゃなくて文学でもマンガでも文化って、受け取り手には想像力がなくなって、その感じ分かるーって安易なものだけしか受け入れられなくなっていったね、きっと。
ところで、ヲカザキは、本業のマンガを書くのはわりと速いのに、このエッセイはたいした分量でもないのにすごく時間がかかることを正直に明かしてるけど、そこから、
>(略)マンガって、ある種の舌たらずな、言葉にうとい、分裂的な人間にとって「治療的な」役割を果たすのではないか、と。
>それが言いすぎだとすれば、ある種のマンガ(略)などは、感覚は分裂していてあたりまえ(分裂こそがキモチイイ)ということを私たちに教えてくれているのではないか、と。(p.130)
などということを言ってます。
こないだのつづきで、岡崎京子関係の新刊。
この時期にいろいろと掘り出してくるねえ、ふしぎなことに。
マンガぢゃなくて、エッセイ。
『朝日ジャーナル』に1991年1月から1992年5月まで連載してた「週刊オカザキ・ジャーナル」と、『広告批評』に1992年6月から1993年12月まで載ってた「植島啓司と岡崎京子のFAX通信 コトバのカタログ」を完全収録ってことなんだが、私はどっちも読んだことなかった。
朝日ジャーナルは、この連載終了と同時に休刊しちゃったらしい。(←因果関係逆か?)
>悪いけど、あたしゃ今までなん誌の休刊に立ち会ってきたか。
とヲカザキは書いてるけど、小さいマンガ誌ならともかく、朝日ジャーナルまで終わるとはショックだったみたい。
その半年前くらいの1991年10月のところにも、
>ところで今秋、私の知っている限りで三つの雑誌が休刊する。した。『03』『モンパン』『やるまん・コミック・ギガ』の三誌。
って書いてあるけど、いずれも私は知らない。
同じ章に、
>私もまんが界のフリーター、紙業界のプーとして生きてきて早九年。いろんな雑誌が終わってゆくのを見てきたわ。(略)
>私が一番、個人的にココロ痛みフクザツな心境になったのは『平凡パンチ』及び『パンチザウルス』休刊のときです。
とも書いてる。んー、パンチザウルスは、名作「pink」も連載してたしねえ。
で、雑誌の休刊だけぢゃなく、この連載されてた時代、80年代が終わって90年代が始まったばっかのときってのは、湾岸戦争は始まるわ、ソ連は崩壊するわで、どうなっちゃうのと思う一方、なんかが終わってしまった感がいっぱいだったようだ。
終わっちゃったものは、たぶんにバブル的だった80年代なるものなんだが、そのかわりに素直に新しくて違う希望にみちた90年代が訪れるかというと、訪れてくれる保証も展望もなんもない、という感じだろうか、だったろうか、個人的には忘れちゃったな。
当時の風俗について、雑誌の特集とか、商品の宣伝とか、テレビとか新聞雑誌の報道とか、そういうもののバックにある資本主義的なものというか論理について、ヲカザキは何これ?おかしくない?と疑問を持っていたようだ、そんな箇所がいっぱいある。
80年代については、一度ハッキリと、
>この時代に生きようとする以上、「悪しき八〇年代的なもの」はすべてゴミ箱に廃棄するべきだと私は持っている。(略)
>今、世の中をうさんくさくさせているものは悪しき八〇年代の亡霊だ(と、思う)。(略)(p45)
と断じている。
おかしくなりはじめてる日本の大衆については、
>へんな感じ、と思うのがこの戦争を「良い」「悪い」という二元論で判断し語ってしまう人々のことである。(略)
>結論を常に用意しないと安心できないというどんかんさ。「良い/悪い」という道徳の時間的二元論でまずものごとを「解釈」してしまうお目出たさ。(略)(p22-23)
と見抜いてる。なんか西部邁さんとつながるものあるように感じるなあ。
バカに限って、自分で考えられないやつに限って、説明が足りないとか分かりにくいとか言うんだよなー、そんな簡単に分かるもんぢゃないよ複雑な世の中の事象。
その他、気になったとこをいくつか引用しちゃう。
たとえば、
>(略)私はかねてから「ヤンエグ」という言葉が良くわかんなかったので勉強した。結局、資本主義の忠実でいいコな奴隷、とゆうことが分かった。(略)
>「ヤンエグ」ってビデオ・モニター的だと思う。自分の姿をいったんモニターに映さないと自分を確認できないような…(略)(p86-87)
とか。
慣れない作詞をひとつやったときは、
>それにしても今、人のココロを本当に打つ歌というのはどこにあるのでしょう?(略)
>(略)関係なくて知らない世界でもとどく音と歌とことば。
>「共感」という想像力なき感覚が充満する時代がずっと続いていて、「自分とは関係ない何か」をキョヨーする体力ってとんと落ちてて。(略)(p.98-99)
と言ってる。鋭いと思う。このころから歌だけぢゃなくて文学でもマンガでも文化って、受け取り手には想像力がなくなって、その感じ分かるーって安易なものだけしか受け入れられなくなっていったね、きっと。
ところで、ヲカザキは、本業のマンガを書くのはわりと速いのに、このエッセイはたいした分量でもないのにすごく時間がかかることを正直に明かしてるけど、そこから、
>(略)マンガって、ある種の舌たらずな、言葉にうとい、分裂的な人間にとって「治療的な」役割を果たすのではないか、と。
>それが言いすぎだとすれば、ある種のマンガ(略)などは、感覚は分裂していてあたりまえ(分裂こそがキモチイイ)ということを私たちに教えてくれているのではないか、と。(p.130)
などということを言ってます。