「丸谷才一全集」編集部編 2015年 文春文庫
丸谷才一エッセイ傑作選2ということで、近年つくられた文庫。
半分くらいは対談集になってて、対談というのは丸谷才一の文章を読めるわけぢゃないからと、私はこれまで手を伸ばしてこなかったんだけど、それはそれでおもしろい。
どうも相手によって話すことの準備をしているそうで、それが展開にふくらみをもたせているんだろうし、オチまでちゃんと考えてるっぽいとこもえらい。
それはいいけど、司馬遼太郎との対談のなかで、古代からの和歌では天皇の恋歌が重要な位置を占めていたのに、
>(略)日本文学史のなかでは明治維新を境にして、天皇の恋歌という重要な形式は消えてしまっている。(p.228「日本文化史の謎」)
と指摘したりとか、日本の宮廷文化では散文が発達してこなかったことについて、司馬さんが、
>要するに、政治をやろうと思えば散文が成立するはずだと思います。(略)報告文が散文の基本だとしたら、京都にいる者がそれを読んで充分に把握できるような文章ができあがるはず。(略)
と言うのに答えて、
>つまり、必要がなかったから、発達しなかったんですね。公家なんかでも、自分の所領が危なくなってくれば、有力な女官のところへ行って話をつける。その場合に、歌をつくって哀願したほうがより効果があったわけですよ。(p.246)
という見解を提示している。
こういうのを読んでると、いままで小説にしかほとんど興味なかったんだけど、著者の文学史論も改めて勉強したい気になってきた。
エッセイ部門のほうでも、読者からの、「である」と「です」を混ぜて書いてはいけないと学校で教わったが丸谷さんは混ぜていてそれが自然にみえる、という質問を受けて、
>一体に日本語は、文末に名詞や代名詞が来ませんから、文末が単調になりがちです。(略)評論類ででよく見かけることですが、「である」「である」「である」と一本調子になつて、どうも具合が悪いのはそのためです。「です」「です」「です」とつづくのも妙なものだ。
>調子を変へるためには、「だ、である」調と「です、ます」調をまぜたらいい、なーにかまふもんか、とわたしは考へました。これは、佐藤春夫、石川淳などといふ名手がときどきやつてゐて、非常に効果をあげてますので、真似をしたわけです。(p.65「「日本語相談」より」)
と明かしている。
これなんか読んでるうちに、やっぱこれまで敬遠してた日本語論とか文章読本みたいなやつにも興味わいてきたりした。
でも、なんだかんだいって、いちばん気楽に読めて楽しいのは、食いものに関するやつとかであるのは相変わらず。
語彙が豊富だったりするのに感心するけど。
たとえば鰻について、
>さて、この蒲焼だが、まことにおだやかな円満な味で、間然するところがない。わたしはまづ温柔といふ言葉を思ひ出し、次いで、それだけではこの蒲焼の、とろりと舌をとろけさす高度に官能的な趣、芥川さんの台詞を借りて言へば「上塩梅」を形容するに足りないなと思ひ直してゐるうちに、探せばやはりあるものですね、つひに、嬌柔といふぴつたりの言葉が心に浮んだ。(p.15「利根の川風ウナギの匂ひ」)
なんてね。「きょうじゅう」変換されないよ。
I 食
II 読
III 考
IV 閑談
V 歓談
VI 清談
丸谷才一エッセイ傑作選2ということで、近年つくられた文庫。
半分くらいは対談集になってて、対談というのは丸谷才一の文章を読めるわけぢゃないからと、私はこれまで手を伸ばしてこなかったんだけど、それはそれでおもしろい。
どうも相手によって話すことの準備をしているそうで、それが展開にふくらみをもたせているんだろうし、オチまでちゃんと考えてるっぽいとこもえらい。
それはいいけど、司馬遼太郎との対談のなかで、古代からの和歌では天皇の恋歌が重要な位置を占めていたのに、
>(略)日本文学史のなかでは明治維新を境にして、天皇の恋歌という重要な形式は消えてしまっている。(p.228「日本文化史の謎」)
と指摘したりとか、日本の宮廷文化では散文が発達してこなかったことについて、司馬さんが、
>要するに、政治をやろうと思えば散文が成立するはずだと思います。(略)報告文が散文の基本だとしたら、京都にいる者がそれを読んで充分に把握できるような文章ができあがるはず。(略)
と言うのに答えて、
>つまり、必要がなかったから、発達しなかったんですね。公家なんかでも、自分の所領が危なくなってくれば、有力な女官のところへ行って話をつける。その場合に、歌をつくって哀願したほうがより効果があったわけですよ。(p.246)
という見解を提示している。
こういうのを読んでると、いままで小説にしかほとんど興味なかったんだけど、著者の文学史論も改めて勉強したい気になってきた。
エッセイ部門のほうでも、読者からの、「である」と「です」を混ぜて書いてはいけないと学校で教わったが丸谷さんは混ぜていてそれが自然にみえる、という質問を受けて、
>一体に日本語は、文末に名詞や代名詞が来ませんから、文末が単調になりがちです。(略)評論類ででよく見かけることですが、「である」「である」「である」と一本調子になつて、どうも具合が悪いのはそのためです。「です」「です」「です」とつづくのも妙なものだ。
>調子を変へるためには、「だ、である」調と「です、ます」調をまぜたらいい、なーにかまふもんか、とわたしは考へました。これは、佐藤春夫、石川淳などといふ名手がときどきやつてゐて、非常に効果をあげてますので、真似をしたわけです。(p.65「「日本語相談」より」)
と明かしている。
これなんか読んでるうちに、やっぱこれまで敬遠してた日本語論とか文章読本みたいなやつにも興味わいてきたりした。
でも、なんだかんだいって、いちばん気楽に読めて楽しいのは、食いものに関するやつとかであるのは相変わらず。
語彙が豊富だったりするのに感心するけど。
たとえば鰻について、
>さて、この蒲焼だが、まことにおだやかな円満な味で、間然するところがない。わたしはまづ温柔といふ言葉を思ひ出し、次いで、それだけではこの蒲焼の、とろりと舌をとろけさす高度に官能的な趣、芥川さんの台詞を借りて言へば「上塩梅」を形容するに足りないなと思ひ直してゐるうちに、探せばやはりあるものですね、つひに、嬌柔といふぴつたりの言葉が心に浮んだ。(p.15「利根の川風ウナギの匂ひ」)
なんてね。「きょうじゅう」変換されないよ。
I 食
II 読
III 考
IV 閑談
V 歓談
VI 清談
