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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

政権交代

2013-11-21 21:18:23 | 読んだ本
小林良彰 2012年 中公新書
サブタイトルは「民主党政権とは何であったのか」。
2009年の総選挙で民主党が勝って政権についてから、2011年8月には党がバラバラになっちゃって政権運営が終わりになるまでの3年間の軌跡を追ってる。
もちろん計量政治学が専門なんで、ただの現代史としての事象の羅列とか、政局裏話的なものぢゃなくて、そのときどきの支持率なんかと常に対比させての解説である。
だって、政権交代によって民意が反映されてるかどうか、反映されてないなら何が問題なのか、がテーマだから。
そもそも2009年の政権交代をもたらした選挙は、有権者が政策本位で選んだというよりは、「自民党への『懲罰投票』だった」としている。
(第一次安倍政権は、年金とか景気を優先的にとりあげないで、「戦後レジームからの脱却」とか言い出したから、支持を失ったらしい。その反省が、いまの経済政策を先にやったことにつながった?)
で、民主党政権の3年間で、党がどうダメになったかとか、どの首相がダメだったとかってこと言うんぢゃなく、2009年の選挙による政権交代は、有権者が望んだ政治をもたらしたわけぢゃないし、選ばれた民主党のマニフェストが実現されたわけでもないでしょ、そこが問題って話。
見かけは政権交代したけど、民主主義が機能してない。そのことを2009年の選挙のときのデータつかって指摘してる。
まず、候補者の選挙公約の内容を分析して、そのことと選挙結果=当落とか得票率とかとの関係を調べるんだけど、これがほとんど影響してない。つまり、有権者は選挙で争点態度投票してないし、だから民意の負託がなされてない。
つぎに、当選した議員の選挙時の公約と、その後の国会での活動=法案への賛否とかを調べると、一致度は決して高くない。つまり、公約どおりに動いてないんだから、代議的側面が機能していない。
それから、有権者の業績評価が投票に影響してるか調べたところ、どの候補者に投票したかの要因にはなってない。つまり、議員の直近の過去の活動に対する事後評価も機能しておらず、それとは乖離して次の候補者を選択している。
ぢゃあ、なにが基準で投票してるんだっていうと、政党支持や内閣支持。極端にいうと、民主党だから、あるいは自民党だからって理由だけで投票してる。(それをさかのぼってくと、職業とか性別とか年齢とかってとこにたどりつく?)
その結果で、なだれをうったように票が流れて政権交代はしたんだけど、それぢゃ何にもなんないよね。だって、公約で候補者を選んだり、議員が民意に従って政策決定をしたり、って民主主義の理念通りのことはしてないんだから。
それぢゃあ、どうしたらいいのかって提言は最終章にまとめてあるんだけど。
だいたい、二大政党制による政権交代が実現するのがいい政治体制・いい社会だってのは、幻想ぢゃないの、ってことは冒頭から指摘している。
日本は、小選挙区制の民主主義より、比例代表制により民意を議会に反映させるタイプの民主主義を導入したほうがいいんぢゃないかって。
(中選挙区制で、選挙区の20%の票しか得てない代表を選出するより、小選挙区で、50%以上の得票の者を代表にするシステムのほうがいいだろ、って理屈はまやかしで、中選挙区では3,4人が選出されるんだから、60%とか80%の民意が反映されるので、小選挙区より良いという考え方もある。)

どうでもいいけど(よくはないか)、きのうも「こないだの選挙は違憲状態」って判決が出たんだが。
(ほんとにどうでもいいけど、私は翌日の朝にならないと、いろんなニュースを知らないままでいる。)
ほんとねえ、一票の格差ってやつは、わたしは昔から大っ嫌いなんだ。こんなインチキはない。少数の意見が国会の場では幅利かすことがシステムとしてまかりとおっちゃうのは良くないよ。
長年放置されてるから、いまさら、3,4か所の定数をひとつっつくらいイジって解決する問題ぢゃあないし。
そもそも議員ってのは自己の当選を最大の目標にして行動するものなので、その人たちが選挙制度を変えようとするはずもない。だからって、法律つくるのは国会しかないんだから、やってもらわなきゃどうにもなんないんだけど。選挙制度の改善案を提示しないひとは選挙に出ちゃダメ(公約の必須科目)とかなんとかならないかね、しかし。
(まったく、憲法を変えやすくしようなんて不遜なこと考える前に、(憲法守るために)することあるだろ、って感じ。)
で、私の不平はともかく、選挙制度として、(1)民意の反映、(2)人物の選択、(3)区割りにおける恣意性の排除、(4)投票へのインセンティブ、といった条件を満たす方法はないかってことで、著者は昔っから「定数自動決定式選挙制度」を提唱してて、本書でも最終章で導入を提唱してます。
選挙区は都道府県単位くらいにして、全国で集計された得票にしたがって、ドント式により各党に議席を配分、その議席をさらに各党の各選挙区における得票比に応じて各選挙区に配分する。だから、選挙区の得票数に応じて議席数が決まるので、定数不均衡がない。有権者だって、投票に行けばそのぶん自分のとこから選出される議員数が増えるかもしれないんで、いまよりインセンティブは上がる。
一度やってみてほしいよねえ。その結果、人口の少ない地域のほうが投票に行くひと多くて、そこから議員がたくさん出たって(その結果、そこへ予算をたくさん持ってったって?)、それなら文句言わないよ。


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キャリー

2013-11-19 19:47:43 | 読んだ本
スティーヴン・キング/永井淳訳 昭和60年 新潮文庫版
むかし、映画あったと思うんだけどね、最近リメイクされたって報道をみた。
私は、映画観る気はないけどね。むかしの映画も観てないし。
せっかくだから、持ってる小説は、読み返してみた。
ってか、なんで持ってんだろね、キングの小説。
短編集は、こないだまでに持ってるものは全部読み返したんだけど、長編はめんどくさいんで読む気なかった。
でも、まあそういう話題のある機会のときにでも、えいやって思ったんで読むことができた。意外とスラスラ読めたね、めんどくさいことはなかった。
これは、けっこう古い、っていうかキングのデビュー作らしい。って今回「解説」読んであらためて認識した。
出版は1974年、日本での翻訳の刊行は翌昭和50年、私の持ってる文庫の発行は昭和60年。学生・生徒の手に入りやすい文庫になるまで10年を要してるわけだ。
そこんとこもうちょっと早くしてやってくれねえかね、って今にして思う。こんなもん、若い人に文庫で読んでもらってなんぼだろ、同時代のモダンホラー。
お話のほうは有名だから、ネタバレもなにもかまわないと思うが、
>二十世紀に起きた最も驚くべき二つの事件は、一九六三年のジョン・F・ケネディ暗殺と、一九七九年五月にメイン州チェンバレンを襲った大惨事である
って作中で宣言されちゃってる事件の一部始終である。
主人公のキャリーが常人のもってない力をもってたってのは、うすうす記憶にあったんだけど、その育てられた環境が「ママは確かに信心気ちがいで、かたわ者かもしれない」って設定だったのは(しかしすごい表現だな)、今回読み返すまで完全に忘れてたな。
読んでて、ふと、キングを好きな村上春樹氏の近年の長編「1Q84」の女主人公が「お方さま」なる絶対者を信じる宗教の教徒の親に育てられたことを思い出したりしたが。
いじめられっ子・キャリーが、もしかしたら自分の人生そんなに悪くないかもって期待をもてそうなイベントで、そりゃあひどいひどい悪だくみのイタズラというには度を越した仕打ちをうけた結果、ブチ切れちゃったって話。そう言っちゃうと身も蓋もないけど。
ただ、小説のつくりとしては、いろいろ趣向を凝らしたりしてて、力入ってるなって感じはする。すべてが終わったあとの視点からのリポートを小出しにしてくことで、読んでくひとに何が起こったんだろって想像というか期待というか、イヤな予感をかきたてながら進ませようって感じ。
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あいかわらずうまく乗れないけど乗馬にいく

2013-11-18 19:16:20 | 馬が好き
乗馬にいく。
なんか最近、乗馬に関しては、技量の低下が著しいし、だいぶヤル気がなくなってしまってるんだが、これしか休日の過ごし方を知らないみたいなとこあるんで、まあしかたない。
でも、古巣から「あの馬、よくなったんで、いちど乗りにきてください」なんて言われたりすることもあって、そういうのは、とてもうれしい。
(「障害、飛びますよ」って言われても、いまの私ぢゃ、とても人のほうが飛べないんだが。)
そんな人たちにかこまれてると、「馬? つまんなくなったんで、ヤメました」なんて、言えないんである、言っちゃいけないっしょ、人として(笑)
でもでも、最近の練習っぷりったら、ほんとグダグダ。まあ、いまさらウマくなろうなんて思ってないし、なれるわけもないんだけど、一日の練習のうちで、どこかで何かひとつ小さくってもいいから達成感みたいなのほしいよね、と思う。それさえあれば、楽しい、続けられる。
そしたら、馬だって、そうしてやらないといけないよね、って思う。「こいつ(=鞍上の私)グダグダだったけど、今これができたから、いっか」って馬が思う瞬間をつくってやりたい。「あ、ホメてくれた、こいつ(=鞍上の私)も嬉しいんだ、ぢゃあ俺もいいことしたんだ、偉いな俺」って馬が思ってくれれば、とてもとてもうれしい、乗せてもらった甲斐がある。
さてさて、そんなこと考えながらクルマころがしてくんだけど、いつもどおりにウチを出たのに、渋滞があって30分近くふだんより時間を要しちゃった。
まったく、10分前に出れば間に合う、すぐそこに馬がいた環境がなつかしいというか、よかったなあと思う。
またそういうとこに身を置いて暮らしてみてえなあとも思うんだけど、おそらく傾向と対策からいって、私がそういう場所に置かれる可能性は、ほとんどない。
で、私の人生設計はいいとして、今日は着いたら、ほかの皆はほぼ馬装済み、私はほかのひとより10分以上遅れて馬場に入った。
(寝坊ぢゃない、出遅れぢゃない、違うんだぁ、信じてくれぇい。)

きょうの馬は、ギルデッドエージ。ひさしぶり。(たぶん3か月ぶり。)なんかうまく乗れなかったイメージしかないけど。
(それはそうと、時間がないときにかぎって、馬に寝っ転がったときの汚れがつきまくり、馬のしっぽとかに敷料がからみまくりって、どうなの?)

乗って感じることには、速歩の反撞がすごいんだ、でも、それがポンポン突き上げられるんぢゃなくて、フワンフワンする動きだから、乗ってられる。ほんとサラブレッドぢゃないみたい。(外国産乗用馬には、こういう動きが多いような気がする。)
でも、あいかわらずうまく乗れない。
前出てくれないのは、わるいけどステッキちらつかせて、「はいはい、スイマセンけど私の脚の使いかたはこういうもんですから」って言いながら促して、なんとかそのうち反応してもらうようにする。
でも、ちょいと詰めようと思って拳をつかうと、あらら、受ける感じがなく、止まりそうになったり、ハズレちゃってアタマが上がっちゃったり。
駈歩もダメだあ、ぜんぜん前進気勢が感じらんないっていうか、私が前に出せない。
そもそも、駈歩発進するときもうまくいってない。あまりむやみに脚で圧そうとしたって、馬が理解してくれてる感じないし、こっちも疲れちゃう。
このグダグダ感は、歩度を詰められてないのに起因してるんだが、とにかく、ギュウギュウ絞り出すようなマネをするのは止して、合図としてポンと使う感じにしてみる。
ようやく出た駈歩にしても、ウケてる感がないんだよなあ。ちょっと手が強いと、「ジャマだ!」って馬が言って止まりそうになっちゃうし、結局ダランと伸ばしたようにして乗ってくんだけど、これぢゃあねえ。
それでも、ときどき、いい反応して歩様が元気よくなる瞬間があるんだけど、それが出ると、これがまたすごいんだ。
ふつうのサラブレッドは、歩度伸ばすっていうと、わりとストライドが広がるような感じがあって、場合によっては重心が動くように感じるんだけど、ギルデッドエージの場合は、駈歩が上にあがってくるようで、「一歩一歩が跳躍」って感じに近い。
思わず「おまえの駈歩、楽しいなあ!」って言いながら乗ってたけど。
はたして、5歩のところを伸ばして4歩でとか、そういうことができるかは分かんない。だって、ホントにスピードは上がってくる感じがなくて、フワンフワンって弾むような動きが大きくなるだけなんだもん。

そんなこんなのうちに、いろいろやったけど、なんかグダグダなまま、終了。
納得いかないんで、しばらくエンエンと常歩で歩く。それでも、前に乗ったときにくらべたら、すこしは動いてくれるようになったかも。
ハミうけについて、ハマるポイントがわからないと質問したら、「拳を使うときははっきりと使って求めていい。うけたら、そこでちゃんと持って抑えておくこと。そこから脚つかったときに、ふわっと持ってるとアタマ上げられちゃう。」というようなアドバイスをいただいた。
いつも「かえすとこ作ってあげられるように」とばかり言われてんだけど、その結果、私のはかえすんぢゃなくてフワっとしてるだけになってんだあね、きっと。かえすふりしてコンタクトはずれてんだ、やれやれ。

練習おわったら、けっこう汗びっしょりだったし、洗ってやった。
きょうの最高気温は20度くらい、11月下旬にしてはあたたかいほうだ。
でもギルデッドエージの毛は長くて、乾くまで時間かかったけど。
馬も寒い冬にそなえて毛を長くしたり対応してんのに、やがて人間にバリバリ刈られちゃうんだから、困っちゃうよね。
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マンガの食卓

2013-11-14 21:44:25 | 読んだ本
南信長 2013年9月 NTT出版
最近でた本で、つい最近読んだばっか。
以前「マンガ食堂」っての読んだら、けっこうおもしろかったんだけど、特にそういうのムチャクチャ興味あるってわけでもないくせに、なんか書店の店頭で気になって手にとっちゃったんである。
まあ、ガキのころから「包丁人味平」に魅せられて、近年ぢゃあ「孤独のグルメ」にハマったから、そういうの好きなことは好きなんだろうって、否定はしないけど。
タイトルそのままで、マンガに出てくる料理や食事のシーンを集めたもの。
古くは、ギャートルズのマンモスの肉から、オバQの小池さんのラーメンや、チビ太のおでんとか、古典的定番から歴史をひもといて、最近のもの(怠慢な私が読んでないマンガが実にたくさんあることに気付かされた)まで、いろいろ。
巻末に、本文中に引用したマンガの作品リストがあるんだけど、名シーンのコマや1ページそのまま抜き出したものから、こういう作品にはこういうシーンがあるって一行触れたものまで、実にこのタイトル数が220にも及んでる。
そういうのを、ただズラズラ並べてるだけだったら、そのうち鼻についてきて、ハイハイ、いっぱい読んでますね、とだけ言いたくなっちゃうんだけど、油断してると、「手塚治虫には食事シーンが少なく、ちばてつやには多い」とか「草食系のあだち充、肉食系の高橋留美子」とかって、鋭いマンガ批評があるんで、ただのスクラップブックなんかぢゃなく、立派な研究の成果なんだと認めさせられてしまう。
コンテンツは以下のとおり。
第1章 なぜ〈あのマンガ〉の〈あの料理〉はうまそうなのか
 1 伝説の“トラウマ料理”が放つ魔力
 2 “絵に描いたモチ”のシズル感に酔う
 3 キャラクターの“大好物”に誘われて
第2章 食事シーンはどのように描かれてきたか
 1 食事シーンを描く作家、描かない作家
 2 物語の小道具としての料理
 3 フェティシズムとしての食
 4 貧者の食卓
第3章 グルメマンガはどこまで進化するのか
 1 キッチンは戦場だ!
 2 料理人というお仕事
 3 「作る」より「食べる」主人公たち
 4 食をめぐる人間ドラマ
 5 実用レシピ付きストーリー
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黄犬本

2013-11-13 21:01:32 | 四方田犬彦
四方田犬彦 1991年 扶桑社
いま二十年以上ぶり(←たぶん?)に、書店の紙カバーを外してみたら、帯に「最新エッセイ」ってあるけど、内容は1989年から90年にかけてのものだ。「週刊SPA!」連載のコラムの2か年ぶん。
どんなこと書いてあったか、今回読み返すまでほとんど憶えてなかったけど、「かばんは靴と同じだから机の上に置いてはいけない」とか、出典忘れてたのに、ずっと私に影響与えてたものもあった。
著者がおもしろいとおもった映画や書物について書いてある回もあるけど、私には興味の共通項がないものが多くて、その後もぜんぜん知らないものばかり。
それよりも、台湾の料理学校の第一日目は「鶏のさばき方」で、まるごと一羽の鶏を巨大な中華包丁で解体することから始まるとか、フルコースというのはロシアで発明されて、狭いテーブルでいかにうまく食べるかというための形式とか、わりとどうでもいい話のほうがおもしろい。
1990年10月の「わたせせいぞうの『ハートカクテル』はバカにでも読める村上春樹である」って章は、タイトルそのままなんだけど、辛辣でおもしろい。
当時、角川文庫が夏目漱石のカバーをすべてわたせせいぞうに描かせたことに憤ったあまり、ケチョンケチョンに言ってんだけどね。
ついでに松任谷由実と柴門ふみについても、「ああいうことを商売にしてる人もいるんだよね、くらいの感想が精いっぱい」とか「上等のセーターの本当の着心地を知っている人間は安物には手を出さない。ただそれだけ」とか、ビシビシ断じてるし。
それはそうと、1988年12月の岩波書店の「ちびくろサンボ」絶版に関する章があって、そこで語られてる憂慮が、きのうからのつながりっていうか、最近読んだ本とも関連してたのが、私にとっては奇遇。
>ひとつは差別を糾弾している市民団体が誰を代表しているのか、という問題である。彼らは(日本人の親子三人で構成されているそうだが)いったい黒人の誰に依頼され、彼らの声なき声を代弁しているのだろう。差別問題でもっとも重要なのは差別された側の当事者の直接の声なわけだが、寡聞にしてぼくは日本のこの場合、それを聞いていない。考慮すべきは、安全地帯にあるある声が別の人間の別の状況の声を代表=表彰してしまうという、今日の政治=社会的システムではないだろうか。(略)
>もうひとつ生じる困難とは、この絶版事件によって、童話のみならず日本のマスメディアにおける黒人の映像が消滅してしまうのではないかという問題だ。白人や中国人の絵は描いてもいいが、黒人だけはウルサい文句が出るから描かないにこしたことはないという暗黙の了解が横行しかねない。結果的に黒人は登場させないということになれば、ここにさらに深刻な差別が発生する。(略)
だって。「紋切型というのはそれを単に禁止したり隠蔽するだけでは不十分で、逆により性質の悪い紋切型を産んでしまうだけだ。」と。
(ちなみに、ちびくろサンボを絶版にさせた「黒人差別をなくす会」というのは、当時小学四年生の子どもが書記長もつとめていた家族三人で、1988年の黒人マネキンや当時の渡辺美智雄自民党政調会長の発言への抗議の報道をみて活動を開始、1990年くらいまでに、次々と出版社に改善を求める郵便を送ったらしい、ってことは『消されたマンガ』に書いてあった。)
どうでもいいけど、本書のタイトルは、「黄色の犬が宮殿に入るならば、入りたるその門は壊れるであろう」という古文書からとられている。
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