many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

夫婦善哉

2015-06-18 20:32:51 | 読んだ本
織田作之助 昭和25年発行・平成25年改版 新潮文庫版
高橋源一郎の『競馬探偵の憂鬱な月曜日』をこないだ読み返したとき、1990年1月のところに、
>なんで、きみたちは勝っても負けてもそんなに明るいの? 大敗したらお先真っ暗になるのが競馬の礼儀というものです。今年はその辺の競馬道についても考えていきたいと思っております。まだ、読んでない若者は織田作之助の「競馬」でも読んでね、泣いちゃうから。
とあって、とても気になったもんだから、私は若者ではないけど、読んでみようと思った。
私は織田作之助自体一篇も読んだことなかったんで、こういう代表作収めてる文庫本があってよかった。
読んだのはことし3月くらいだけど、仕事で大阪へ行ったりしてるときに、こういうの読めたのはちょっとおもしろかった。
「夫婦善哉」は、芸者の蝶子と、もとは妻子がいたのに蝶子と一緒になって実家からは勘当された柳吉の、ふたりの話、時代は関東大震災のころ。
ふたりでいろんな商売をやるんだが、最初のうちはうまくいきそうなんだけど、そのうち散財したりとかで長続きしない、やがてまた別の商売で立ち直ろうとする、繰り返し。
しょうもない男の生き様が反省しない感じで淡々と書かれてんだが、とにかく文章のリズムがよくて読ませられちゃう。
たとえばー、最初のほうのシーンで、
>(略)本真にうまいもん食いたかったら、「一ぺん俺の後へ随いて……」行くと、無論一流の店へははいらず、よくて高津の湯豆腐屋、下は夜店のドテ焼、粕饅頭から、戎橋筋そごう横「しる市」のどじょう汁と皮鯨汁、道頓堀相合橋東詰「出雲屋」のまむし、日本橋「たこ梅」のたこ、法善寺境内「正弁丹吾亭」の関東煮、千日前常盤座横「寿司捨」の鉄火巻と鯛の皮の酢味噌、その向い「だるまや」のかやく飯と粕じるなどで、何れも銭のかからぬいわば下手もの料理ばかりであった。(略)
なんてとこがあって、江戸の落語とはまた違うけど、トントントンと進んでいく。
全編こんな感じっていえばこんな感じ、私にとっては初めて読んだ感覚。
くだんの「競馬」は、1の番号の馬ばかり買い続ける男の話。
1を買うのは、亡くなった細君の名が一代というからってとこからきてんだが、そこには複雑な感情が入ってる。
「夫婦善哉」
「木の都」
「六白金星」
「アド・バルーン」
「世相」
「競馬」
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さようなら、ギャングたち

2015-06-17 22:03:29 | 読んだ本
高橋源一郎 1985年 講談社文庫版
持ってるのは1989年の3刷、読んだのはそのころだろう。
高橋源一郎のデビュー作、ってされてるけど、この文庫の巻末にある「著者略歴」には、
>一九八一年 二番目の小説(「さようなら、ギャングたち」)を書き上げる。(略)
とあって、その直前に、
>一九八〇年 はじめての小説を心をこめて書き上げたが、安易で不真面目で論ずるにも値しないと評され、いたく傷つく。(略)
とある。もちろん、書いた順番と世に出るってことは違うけど。
なんの話かってのは要約しづらいな。
昔々、人々は親によってつけられた名前をもっていたらしいんだけど、やがて、人々は自分で自分の名前をつけるようになった。
そして、男と女は互いに名前をつけるようになった。
>わたしたちは自分の名前をつけてもらいたいと思う相手に「わたしに名前をつけて下さい」と言う。
>それがわたしたちの求愛の方法だ。
ということで、いまの「かの女」である「中島みゆきソング・ブック」に「わたし」は「さようなら、ギャングたち」という名前をもらう。
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乗らないと癒し系の馬なのに、乗るとバトルになっちゃう

2015-06-15 18:33:52 | 馬が好き
こないだの大会に出るときに、恒例のアンケートのようなものに毎度のごとく「乗馬をやって良かったこと」という項目があったのだが、私は「仕事でどんなにヤなことがあっても馬に触れると気持ちリセットできる」と書いて提出した。
さあ、というわけで、本日も、乗馬にいく。
(なにがあったかは心のうちに秘めておく(笑))

きょうの馬は、フリーデンアミーゴ、ひさしぶり。
早く着いちゃったので、5分か10分、馬装始めるまで余裕あるから、馬房の外から撫でてやってると、だんだんアタマをさげてハナを摺り寄せてくる。カワイイ。
癒し系だなー、おまえは、とか言って、カワイイカワイイと撫でてると、顔すりつけられていつのまにか乗馬ズボンが芦毛だらけになってしまう。ま、しかたないか。

いつもみたいに早く馬装していち早く馬場へと向かわないのは、きょうこの馬の練習が軽めだというので。
暑いから、そろそろ練習は軽くなるのかなと思っていると、きょう乗る私のフリーデンアミーゴのとこだけに「かるめで」と書いてあった。
軽めなのに俺みたいな体重の重いのが乗ったらダメじゃんとか思うんだが、聞けば病み上がりだという。
どこ病んでたんだろ、心ぢゃないといいんだけどとか、変わらずバカなこと言いながら、ほかのひとも始めたんで、あわせて馬場に入れるべく馬装する。(ただし、前肢の肢巻は先生にやってもらっちゃったけど。)

どんな馬だか忘れてたんで、過去日記検索しておく。うんうん、よく動くのね、動いてるのに余計な脚とか使わない、コンタクトをしっかりと、そうか前回パッツンはねられたか、邪魔しないようにしようと、確認してから乗る。
馬場入ったら、輪乗りで常歩する。ほかのひとは蹄跡を常歩するんだけど、私は真ん中で輪乗りする。ほかのひとは、なぜか自然と左回りで蹄跡をまわるんだけど、私は適当に輪乗りの手前を替えて両方の向きをたしかめる。
隊列になってきたので、後ろから二番手に位置づける。軽めだから、気楽にいくよ。

軽速歩中心で、隅角をまわる。とてもよく動く、遅れをとって背中にドッシンとケツ落としちゃったりしないように、前に前に乗ってくつもりでいく。
軽速歩と正反撞、歩度を伸ばして歩度を詰めて、速歩から常歩、常歩から速歩、いろいろ移行をくりかえす。前進するときも、ブレーキかけるときも、いうこときいたらホメる、ほかのひとはお行儀よく乗ってるけど、私だけいちいち手ぇ放して無駄な前傾して馬のクビたたいてる。
それでも、なんか思うようにいかない。特にいちど駈歩したあとは、妙に馬がつよくなってるような感じで、かなりバトルに近くなる。なんかかえしてやるとこがわかりにくいというか、うまく乗れない。
「あまり手で何とかしようとしない」「もっと鞍にはまるようにして」とか指摘される。動いてくのに乗っていけてない。
障害練習をしているときは、腰と背中はって肩ひらいて肘をからだにくっつけて、座って対抗することができるんだけど、こうして普通に乗ってるときって、ついつい騎座がフワッと浮いちゃって手先で手綱を引っ張るようなカッコになっちゃう。

それでも、いちど後ろで壁を蹴る音が聞こえたときだけパッツンはねかけたけど、どうにか収めて、まあまあそんなにひどいバトルにはならずにおわった。馬、病み上がりで、本来の元気がないだけかもしれないけど。
練習おわってからも10分くらい歩かせて、おしまい。

降りて、鞍とハミはずしちゃえば、また癒し系モードにもどるフリーデンアミーゴ。
かわいい、かわいいと言いながらブラシかけて、おわったらリンゴやる。


↑写真にはうまく映らんけど、微妙に上唇を伸ばしてくるところが、かわいい。
んなことやってると、隣にいたゼダイが、「私も、私も。私だってカワイイでしょ」とかアピールしてくる。
しょーがないんで、リンゴ分けてやる。
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遙かな国遠い国

2015-06-11 20:38:08 | 読んだ本
北杜夫 昭和46年 新潮文庫版
持ってるのは昭和53年の12刷、ぼちぼち読み返している北杜夫。
昭和33年から36年ころに書かれたらしい、短編集。
どんな小説が入ってたか忘れてたんだけど、あらためて読んでみたら、ちょっと、日本の純文学のなかでは異質とも思えるような、躁状態なものを感じた。
「三人の小市民」
なにをやってもうまくいかない男がパチンコと格闘する「魔王」、空飛ぶ円盤を待つひとたちのいる「空き地」、一日の半分を寝て半分を銀紙玉をつくることしかしない男が虫に襲われる「家」の三編。
「埃と燈明」
ほんとはドイツに留学したかったが、とりあえずヒューストンに来てしまっている医者が、仲間の医者といっしょに車でメキシコにいく話。
「為助叔父」
木島綜合病院の末の息子が主人公、「ぼくのおじさん」につながる、変なおじさんの話。
バラやサボテン、黄色いトマトの栽培、七面鳥や食用蛙の飼育など、何かひとやま当てようとするんだが、どれもうまくいかない。
一族のほかの者は「整然」をモットーとした家風に沿ってるんだけど、長兄にいたっては「整然とそっぽを向いた」とか徹底してるとこが、おもしろい。
「友情」
中学校に入学した初日に、「君、これから僕んちに遊びにこいよ。いいな?」って強引に友だちになってきたヘンな少年の話。
「遙かな国遠い国」
漁師の息子である正太は出来がわるくて、周囲からは「コケ」と呼ばれている。母親は一人前の漁師にしたいのだが、なれるはずもない。
しかし、ちょっとしたタイミングで、飯炊(カシキ)としてサケマス船に乗り込むことになった。

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白昼への意志

2015-06-09 17:54:20 | 読んだ本
西部邁 1991年 中央公論社
副題は「現代民主政治論」、と言っても、もう20年以上前のものになってしまったか。
外では、ソ連がなくなっちゃったりしてる一方、国内では、消費税はけしからんとか、リクルートに関係したやつはけしからんとか、首相の女性スキャンダルはけしからんだとか、バカ騒ぎに明け暮れてた時代のもの。
日本の民主主義が衆愚政治に堕落しちゃって、このあと失われた時代が長く続くことになるのは、今からみたらむべなるかなという感じ。
これまでの著作でも繰り返されてきたとおり、右往左往するばかりの世論形成に対して、良き言論は大事ということを説いている。
マスコミやそれに踊らされるままの人たちは、ひとをこきおろしておいて、他にいい人物がいないとか嘆くようなまねをすんのはやめようとかね。
あと民主主義ってのは、いま生きている多勢の(バカな)ひとたちの多数決で何でも決めていいわけではなく、過去に死んでいってしまった人たちの作ってきたものや、これから生まれてくる人たちへ残すものを守ること、そういう決定に責任もつことも大事ってことは、ふだん忘れてしまいがち。
それと、あんまり、人間という生きものが善いものだとか、社会はいいほうに向かうとか、自由とか平等とかは当然のことだとかって前提にたつのはよして、自分たちは判断を間違うかもしれないし、ルールの範囲内でしか自由は認められないものだし、そもそも不平等の真っただ中に生まれて不平等のうちに死んでいくってのが現実だとわかったうえで議論をしましょうよという話もあちこちにある。
読んでみて、いくつか今回気になったフレーズを抜いておきますか。(そのときどきで、読んだとき引っ掛かる場所に違いがある?)

>自分らの意見が間違っているかもしれない、という自省を民衆が手放さないかぎりにおいて、民衆の形づくる世論は民主主義の成熟のための基礎となりうる。(p.7)

>しかし通常の状態にあって、政治から遠ざかることを知識人の採るべき方針として打出すのは、それもまた政治の一種ではあろうが、悪しき政治である。ましてや、政治へのコミットメントから逃走した上で、政治を外部から監視しようなどというのは、知識人の傲慢であるだけでなく、知識人の誤謬でもある。(p.20)

>自分らのことを、「言論の自由」といううるわしい理想に率いられる反権力集団であると、意図的にか無自覚のままにか、誤認している。マスコミのこの誤った自己認識こそが、大衆社会をますます泥沼へと引きずり込むのである。(p.44)

>(略)それ以上に、マスコミは物事をできるだけ単純化し、そうすることによって、平均化され均質化され画一化されたものとしての世論を形成しようと励んでいる。ところが、この単純化が案外に難しい作業なのだ。彼らはそのことを知らない。(p91-92)

>二者択一もしくは両断の論理がますます世にはびこりつつある。(略)ともかく是か非かの議論が多すぎるのだ。そうなってしまったのは、おそらく、私たち現代人が、とくに繁栄の絶頂にいる私たち日本人が、莫迦になったせいであろう(。(p.145)

>自由が歴史的秩序の上に展開されることに注目するなら、自由主義は、凡百の自由思想家の主張するところとは異なって、実に歴史主義的なものだということがわかる。(p.156)

>繰返せば、欲望を権利と錯覚するのは悪しき民主主義であり、そういうものとしての権利を振回すのを自由と誤解するのは悪しき自由主義である。(p.229)

第一章 権力から逃避する知識人
第二章 民主主義を破壊するマスコミ権力
    思想を喪った原論
    クウェート事変にみる新聞の愚昧
第三章 保守革命のすすめ
    保守二党体制の進路
第四章 民主主義のペレストロイカ
    社民幻想からの覚醒
第五章 「日本国憲法」改正私案
    「昭和憲法」への葬送
    人間平等論への反駁
補章  「マドンナ」この苦笑すべきもの
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