岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

別海町に出会う

2005-12-16 08:41:14 | 北海道とアイヌ
「桜の花の咲く頃に」を観て、別海町を開拓した人について
知りたくなった。
さまざまな時代に人々はこの地に移住してきたに違いない。
ということは、心の中にあったのだが、
昨日、図書館で「平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦Ⅹ」を
借りて読んでいたら、別海町に開拓者として移住された方が
文章を書かれていた。

「悲しみの思い 満州引揚者と再起の北海道開拓」 田中とめ さん。

この方は、長野県生まれで、昭和10年に
「満州開拓団の人の所に嫁に行かないか」という話に乗ったかたちで
満州を目指した。満州開拓は国策であったから、多くの花嫁が
募集されて今だ見知らぬ新郎の待つ満州にいったのだ。
中国に渡り、事業を成功させ10年ほどで日本に帰るという計画を
立てていたようだ。

しかし、あろうことか戦争に負けて、満州国も消滅してしまった。
開拓団の人々は、即座に難民となってしまったわけだ。
田中とめさんは、この混乱の中でふたりのこどもを失い、夫を
シベリアに送られ病魔に犯され、命からがら日本に帰りついた。

日本に帰っても、海外からの引揚者も多く、食料不足は深刻になる
ばかりだった。

そうした中、田中とめさんを始め多くの引揚者は、国内で開拓や
仕事のある北海道を目指した。
かっては、囚人、中国人、朝鮮人の方々を酷使した炭鉱労働も、
引揚者が担うようになった。
彼らの団結力は素晴らしく「北の四十七士」といわれるほどだった。

その当時の根釧地方の様子を、田中とめ さんは以下にように書いている。

「広大なこの土地は。満州弥栄村に負けないほどに平坦であり、
一部にはうっそうとした林地もありましたが、火山灰地で地力が
劣っていたことと、春から夏にかけては不順な天候で、昼頃まで
霧がかかり雨降りかと思うような天気、夏になっても日照不足が続く
などの気象条件は、北満に比べて雲泥の差でした」

「当時は、米の配給はほとんどありませんで、馬鈴薯、そば粉、
でんぷん等を主食とし、フキ、ワラビ、ウドなどの山菜を補足し
空腹を満たしていたのでした」

「稲作のできない根釧地方で、私たちが食糧にあまり心配しないで
生活できるまでには入植から20年たった昭和40年ごろからだった
でしょうか」と書かれている。

「桜の花の咲く頃に」の高校生の祖母や祖父にあたる人々が戦後、
どん底の生活の中で開拓した土地には、今でも開拓者魂が活き続けていると
いうことを知った。
ちょっと、根性が違うのである。

※「桜の花の咲く頃に」については12月12日号に書いています。


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