岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

ファン・ボイ・チャウと犬養木堂

2009-04-28 06:10:49 | 世界のなかま
先日、犬養木堂の生家を訪問した際に、「犬養木堂とアジアの人々」という小冊子を購入しました。
(この小冊子は木堂生誕150年記念の講演会記録です)
犬養木堂は、当時の政治家としては珍しく、アジアへの確かな視点を持っていた人です。
中国革命の父といわれる孫文との関係は有名ですが、ベトナムの国父といわれるファン・ボイ・チャウを
支援したことはあまり知られていません。

4月25日の朝日新聞「歴史を歩くー東遊運動(ベトナム)」(外岡秀俊編集委員)の記事は
興味深く読ませていただいたのですが、残念ながら木堂との関わりは一言も触れられていません。
まず、東遊運動についてのおさらいです。

日露戦争が日本の優勢のうちに講和条約が結ばれ、大国ロシアに「勝利」したアジア初の国となりました。
そのような日本に対する「憧れ」は、自国の独立を願うアジアの若者を日本に向かわせることになりました。
当時、フランスの植民地となっていたベトナムからも、独立運動を進めようとする若者が
日本を目指しました。
その活動を東遊(ドンズー)運動と呼びます。

「1905年、日本に渡った独立運動の志士ファン・ボイ・チャウが呼びかけ、
最盛期の08年春には約200人のベトナム人青年が日本で学んだ。」
(朝日新聞記事より)
当時の日本はアジア文明の中心地の輝きがあったといわれます。

ところが、ベトナムを支配していたフランスはそれを認めず、日本政府と日仏協約を結び、
日本政府はフランス政府の要請を受け、留学生を取り締まった。
多くの留学生は日本を離れた。そのような逆境の留学生を支えた日本人に小田原の開業医、浅羽佐喜太郎がいた。
このような歴史に埋もれた支援者の人々活動が今、日本とベトナムで掘り起こされ始めたという。

そこで、東遊運動と木堂の関わりを「犬養木堂とアジアの人々」から引用させていただきます。
なお、講演者は時任秀人倉敷芸術科学大学教授です。

「ファンさんは来日して、面会すると犬養さんを武士だと思うわけですね。
ああ、この人は武士だ。髭を生やして、泰然自若としている、と。
そうしますと木堂さんは、
私は農民の出だ。侍は国を滅ぼす。そんなものはもう必要ない。大事なのはデモクラシーだ、と。
そこで、ファンさんが、ベトナムからフランスを追い出すために助けてほしい、ということを言います。
木堂さんは、助けたいのはやまやまだが、国際関係の問題があるから政府が認めないとなかなか難しい、
だからもう少し待ちなさい、と言うわけです」
(当時、木堂は国民党という小政党に属し、政治の中心にはいなかった)

しかし、事態は先に書いたように日仏協約が結ばれ留学生の追放をすることとなります。
このときに、木堂さんは、日本郵船に掛け合い、100名ほどの留学生の帰国費用を無料にさせます。
あるベトナム人が「木堂さんはベトナム人にとって、お父さんのような存在だった」と言うと、
木堂は「そのお父さんのような存在が肝心な時に何もできないで恥ずかしい」と言ったそうです。

明治期以来のアジア主義は反省しなくてはならないことも多いのですが、
国民レベルでの交流には光を当てる必要があると考えています。

※写真は岡山北区の御津中牧地区を眺望しています。


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