まことに久しぶりに河原町三条辺りを歩きました。
どうしても鴨川の東地区に行くことが多いですね。
市役所辺りはコロナ前以来です。
右上のスギ薬局辺りから歩きました。
交差点角に山本覚馬と八重さんの住居跡がありました。
八重さんが新島襄と結婚する前のことだと思います。
WIKIには、以下のように書かれています。
この住居に住んでいたのは明治4年から8年の間だとわかります。
明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが裏千家13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。兄の著書の出版支援も行っていた。
兄の元に出入りしていたアメリカン・ボードの準宣教師・新島襄と知り合い、明治8年(1875年)10月に婚約する。当時、新島のキリスト教主義学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていたため、京都府は婚約直後に八重を女紅場から解雇した。
洛中御土居(土塁)の案内板です。
近くに非田院の案内板もありました。
平安時代の救護施設です。
世界に向かって誇れる福祉施設だったとあります。
ここにあったとは、びっくりでした。
シャバリバでランチいただきました。手捏ねハンバーグ美味しかった。
河原町通りから本能寺への路地があります。
境内を入ると織田信長の墓所の脇に、浦上玉堂親子のお墓がありました。
これには驚きました。
玉堂が右側、長男の春琴が左側です。
前は墓地の中にあったのでしょう。
ここに置かれたのは平成になってからです。
左手のイチョウの木は保存木指定です。
お墓自体はひび割れするほど傷んでいます。
風雨に晒されていたのを子孫の方が廟所にされたのではないかと思います。
浦上玉堂さんは本当に興味深い方です。
信長の墓所です。
寺町通に出ました。
お読みいただきありがとうございました。
💛ウクライナに平和を💛