ラフカディオ・ハーンは、1890年(明治23年)4月4日に横浜港に到着しました。
7月には米国で知り合った服部一三(文部省官僚)のあっせんで島根県尋常中学校と同師範学校に英語教師に任命されました。
8月30日松江到着。
当時、松江では外国人が非常に珍しく、文部省からのあっせんということもあり時の人となっています。新聞報道もされました。
県知事自ら競馬や武術競技、相撲大会、能舞台などに招待したという歓待ぶりです。
ハーン自身、「初めての外国人」という勲章を喜んでいます。
翌年正月には、小泉セツ(節子)と結婚します。セツは士族の娘でありながら家が没落しており高等小学校にも行くことができませんでした。
しかし読み書きはできました。女子師範に行って教職に就きたかったと。
現実は厳しく12歳から働き始めています。
22歳の結婚でした。周りの人の「あっせん」でした。
義母からは「22歳で若さも尽きようとしている」と言われています。
だれでもいいから早く結婚せい、ということでしょうか。
「洋妾」という言葉も聞かれました。
さぞ心を痛めたことでしょう。
しかし、ハーンとセツの間には本物の愛情がありました。
ハーンが小泉八雲になったのは長男一雄の誕生後でした。
小泉家の戸主になるための改名でした。
ハーン45歳、1896年のこと。
書類上も日本人となり世界を一人で旅した人生で初めて家族を持ちました。
冬の寒さに耐えられないハーンはすでに松江を後にして熊本、神戸、東京と移り住んでいました。
家族を養うために仕事を求めて転居を繰り返しています。
しかし彼の日本とはセツの語る説話の中にあったのかしれません。
熊本では11人の家族を一人で養っていたのです。
1896年は東京大学の教職を得た年でもあります。生活のゆとりがこれからの人生を考えることに繋がったのかもしれません。
本人の健康状態を自覚していたのかもしれません。
さらに男子二人が生まれました。
1903年 - 東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子誕生。
1904年3月 - 早稲田大学の講師を務め、9月26日に狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。戒名は正覚院殿浄華八雲居士。墓は東京の雑司ヶ谷霊園。
1915年 - 贈従四位。wikiから
残された一家にとって暮らしの糧は印税しかありませんでした。
セツがエリザベス・ビスランドに催促されていたハーンに関する文章は、一家を支える収入源なのです。
ハーンの日本滞在は14年に及び、その文学は日本だけではなく世界の紀行文学として揺るがないものになりました。
最後に訳者の吉田恭子さんの文章です。
ハーンほど身軽に国境を超えることができなかった三人の女たちは、複数の文化、複数の言語の境界線という隘路を時に譲歩し、時に切り抜けたりやり過ごしたりしながらひと針ひと針縫うよう生きてきた。
そう、この物語はハーンを取り巻く女性というよりは、ハーンと共に生きた主役としての女性たちだったのです。
お読みいただきありがとうございました。
💛ウクライナに平和を💛