この写真は45年5月(左写真)と7月(右写真)に米軍が撮影したものです。
岡山市の北西部に当たります。
画面の右下枠外に岡山駅があります。
写真の右上半分に拡がる空き地は練兵場です。
真ん中やや右に整然と並んだ宿舎(県の官舎)が見えます(左写真)。
右写真は空襲後の写真です。
写真右下から真ん中の県官舎にかけて建物がなくなっています。
焼夷弾に燃え尽くされた地域です。
米軍は市の中心街(右下)から爆弾を落としていき、最後にこの地域で
落とし終わったようです。
飛行コースが右下から左上ということになります。
なぜ、この部分をピックアップしたかと言いますと、写真中央からやや上の地点に
私の自宅があるからです。
親から聞いた話では裏の田んぼに爆弾が墜ちたが爆発しなかったとのことです。
(ただし、父親は招集されて自宅にはいませんでした)
そのおかげで、右写真にも自宅が映っています。
この写真の左手には陸軍病院や小学校が映っています。
被災者の救護場所になったと聞きます。
米軍が攻撃目標を設定するために撮影した左写真。
空襲後の戦果を確認する右写真。
制空権を失った日本はまさに丸裸になっていました。
そんな父も「後期高齢者」になり,残念ながら老いを感じさせます。改めて,空襲の話を聴かせてもらい,何か形に残せないかを考えなければと思っています。
自宅に訪問すると戦死した親族の軍服姿の写真もよく拝見します。
私自身はよく祖父から戦争の話を聞きました。
たまたま私も昨日のブログで戦争にまつわる話を記事にしたものですから、コメントさせていただきました。
富山市が空襲にあった日
満4歳の私は
富山県砺波平野の祖母宅に疎開
神社の境内に掘られた防空壕から
父母が住む富山市が炎上する風景をみていた
あとは
一気に
占領下の
アメリカ軍のジープから
まかれたキャラメルなどを拾った記憶へ
masaさん
bonn1979先生
コメントありがとうございます。
身近な人が戦争を体験しているということが
よくわかります。
65年たって、昔以上に戦争が身近に感じられます。
これは語り出す人、書くことを始める人がいるかに他なりません。
戦争の記憶をかたちに残す作業を進めなくてはならないと思います。
私が日々接している方々に空襲の写真を観てもらうと当時のいっぱい話してくださいます。
匿名できちんと記録しておかなくてはなりませんね。
いま、その場所を特定しようと、練兵場の航空写真をネットで探していてここにきました。
デジタルミュージアムでもらったのをスキャンすればいいんですが・・・今年はうちにあった写真が二枚パネルになって展示されていました。
コメントありがとうございます。
お母さんの実家は今や住宅の中になっていることでしょう。
少し水はけの悪い田んぼがあって、レンコンが
植えてあったことを思い出します。
私の家の辺りも江戸時代に開墾されています。
水はけが悪かったようです。
今では想像もできませんね。