今日は曇りで、雨はなんとか上がったものの相変わらず低温が続いております。農作業は大丈夫かな、ちょっと心配。
ただいま「掛川奮闘記」から「北の心の開拓記」ブログへの移行推進運動中です。こちらへの移行をよろしくお願いします。
さて今日は、
■大きな名札の運命 の1本です。
【大きな名札の運命】
いつの頃からか、人に会うためのツールとして大きな名札をつけるようになった。
それも最初の頃から転勤を重ねるごとに大きくなって、掛川ではたばこのパッケージより一回り小さいくらいになり、今回はついにたばこのパッケージほどの大きさになった。
大きな名札をつけるべきだと思ったのは、職業柄多くの関係者や営業マンに会うことが多いためである。
そうして会った多くの方の中には、一度名刺を交換しただけで、「ああ、先日はどうも」といって、さも「名刺を交換したのだから自分のことはご存じでしょうね」という前提で話をする方も多い。
とは言いながら、当然こちらとしても名刺を交換した方の名前を全て覚えているわけではないので、「あ…、ああ、どうも…」とさも名前を思い出したかのように会話を続けている自分がいるわけで、一瞬そう言う態度を取ってしまうと、なかなか「えーと、どなたさまでしたっけ?」と訊くのが恥ずかしくなってしまって、もう一生名前を聞き出すことができない、という状況に追い込まれてしまうのである。
そこでちょっとだけ想像力を働かせてみると、これは自分が名刺を渡した相手も、自分に対してそう言う思いなのだろうな、ということに気づくはずだと思ったのである。
自分も名刺を数多く配るけれど、自分が渡した相手というのは大抵覚えているものだ。なるほど、渡した側ともらった側の立場の違いだろう。
こうなると、相手の方も私のことを覚えているふりをしなくてはならず、なんとも気まずいのだろうな、と思う。
そこで、そういう気遣いを相手にさせないためにも、遠くからでも読める大きな名札をつけようと思ったのだ。
これは結構効果があって、霞ヶ関を訪ねるときでも、挨拶をすると一瞬相手は私の胸の名札を見てから「ああ、小松さん、お久しぶり」と言ってくれるのである、さも名前を覚えていたかのように。
そのうち、名前は覚えていなくても「名札の大きな人」という印象だけは持ってくれて、「名札が大きいですねえ」と話しかけてくれる人もいたりして、そうなると営業は80%は成功したも同然というわけである。
…とまあ、こういう話をすると、「いい!それはいいですねえ!」と共感してくださる方が結構いて、こちらも意を強くするのだが、それをまねて実際にやってみようという方はほとんどいない。
とすると、本当にいいと思っているわけではないのだな、と気づいて、やっぱり孤独な気持ちにもなるのだが、まあこんな馬鹿も一人くらいいてもいいだろうと思って続けているのである。
* * * *
ところでこの名札、特注のために結構値段も高くて、3~4千円くらいはするのである。
北海道に帰ってきて、早速これを作ってください、と課内の担当者にお願いをしたところ、「今全庁的に、首からぶら下げる名札に切り替えているので、公費では買えないかも知れません」と言われてしまった。
首からぶら下げる名札にどのような意味を持たせているのか、果たしてその意味が妥当なのかはよく分からないが、どうやら首からの名札は義務化はされないようなので、私としては遠くからでも読めるタイプで続けようと思っている。
別の担当者が「大丈夫でしょう、何とか掛け合ってみますよ」と言ってくれていたのだが、今日その彼が机の前へ来てすまなそうな顔で、「小松さん、すみません、決済が認められませんでした」と謝ってきた。
別に謝られるほどのことでもないので、「ああ、そうですか(^-^;)、そりゃ残念でした。いいですよ、自分で払いますから」ということにした。もちろん、なんでも公費に頼るのが良いわけでもなくて、ルールに従うだけのことだから、別に構わない。
ただ、名札を本人識別ツールとだけ見ているとそういう判断にしかならないだろうが、営業用ツールなのだと思えば、別の考え方もあるのかも知れない。
ただし、誰が営業用ツールを使うか、どこまでの大きさが許されるのか、といった指針やルールがないから、やはり担当者は判断できないのかも知れない。
説明は聞かずにやらないほうが手っ取り早いのかも知れないし、それが国民の皆さんの税金で仕事している我々の限界なのかも知れない。
まあ自分はそう言う世界で仕事をしているのだ、というだけのことであるが。
* * * *
さて、そうして転勤するごとに大きくなる胸の名札であるが、あと3回も転勤する頃には、体の前後を名札が挟んでいるくらいになっているかも知れない。
合同庁舎にサンドイッチマンがいる、と噂の男がいたとしたら、たぶんそれは私のことだろうと想像していただきたい。
え~、良い行政の窓口はこちら~。
ただいま「掛川奮闘記」から「北の心の開拓記」ブログへの移行推進運動中です。こちらへの移行をよろしくお願いします。
さて今日は、
■大きな名札の運命 の1本です。
【大きな名札の運命】
いつの頃からか、人に会うためのツールとして大きな名札をつけるようになった。
それも最初の頃から転勤を重ねるごとに大きくなって、掛川ではたばこのパッケージより一回り小さいくらいになり、今回はついにたばこのパッケージほどの大きさになった。
大きな名札をつけるべきだと思ったのは、職業柄多くの関係者や営業マンに会うことが多いためである。
そうして会った多くの方の中には、一度名刺を交換しただけで、「ああ、先日はどうも」といって、さも「名刺を交換したのだから自分のことはご存じでしょうね」という前提で話をする方も多い。
とは言いながら、当然こちらとしても名刺を交換した方の名前を全て覚えているわけではないので、「あ…、ああ、どうも…」とさも名前を思い出したかのように会話を続けている自分がいるわけで、一瞬そう言う態度を取ってしまうと、なかなか「えーと、どなたさまでしたっけ?」と訊くのが恥ずかしくなってしまって、もう一生名前を聞き出すことができない、という状況に追い込まれてしまうのである。
そこでちょっとだけ想像力を働かせてみると、これは自分が名刺を渡した相手も、自分に対してそう言う思いなのだろうな、ということに気づくはずだと思ったのである。
自分も名刺を数多く配るけれど、自分が渡した相手というのは大抵覚えているものだ。なるほど、渡した側ともらった側の立場の違いだろう。
こうなると、相手の方も私のことを覚えているふりをしなくてはならず、なんとも気まずいのだろうな、と思う。
そこで、そういう気遣いを相手にさせないためにも、遠くからでも読める大きな名札をつけようと思ったのだ。
これは結構効果があって、霞ヶ関を訪ねるときでも、挨拶をすると一瞬相手は私の胸の名札を見てから「ああ、小松さん、お久しぶり」と言ってくれるのである、さも名前を覚えていたかのように。
そのうち、名前は覚えていなくても「名札の大きな人」という印象だけは持ってくれて、「名札が大きいですねえ」と話しかけてくれる人もいたりして、そうなると営業は80%は成功したも同然というわけである。
…とまあ、こういう話をすると、「いい!それはいいですねえ!」と共感してくださる方が結構いて、こちらも意を強くするのだが、それをまねて実際にやってみようという方はほとんどいない。
とすると、本当にいいと思っているわけではないのだな、と気づいて、やっぱり孤独な気持ちにもなるのだが、まあこんな馬鹿も一人くらいいてもいいだろうと思って続けているのである。
* * * *
ところでこの名札、特注のために結構値段も高くて、3~4千円くらいはするのである。
北海道に帰ってきて、早速これを作ってください、と課内の担当者にお願いをしたところ、「今全庁的に、首からぶら下げる名札に切り替えているので、公費では買えないかも知れません」と言われてしまった。
首からぶら下げる名札にどのような意味を持たせているのか、果たしてその意味が妥当なのかはよく分からないが、どうやら首からの名札は義務化はされないようなので、私としては遠くからでも読めるタイプで続けようと思っている。
別の担当者が「大丈夫でしょう、何とか掛け合ってみますよ」と言ってくれていたのだが、今日その彼が机の前へ来てすまなそうな顔で、「小松さん、すみません、決済が認められませんでした」と謝ってきた。
別に謝られるほどのことでもないので、「ああ、そうですか(^-^;)、そりゃ残念でした。いいですよ、自分で払いますから」ということにした。もちろん、なんでも公費に頼るのが良いわけでもなくて、ルールに従うだけのことだから、別に構わない。
ただ、名札を本人識別ツールとだけ見ているとそういう判断にしかならないだろうが、営業用ツールなのだと思えば、別の考え方もあるのかも知れない。
ただし、誰が営業用ツールを使うか、どこまでの大きさが許されるのか、といった指針やルールがないから、やはり担当者は判断できないのかも知れない。
説明は聞かずにやらないほうが手っ取り早いのかも知れないし、それが国民の皆さんの税金で仕事している我々の限界なのかも知れない。
まあ自分はそう言う世界で仕事をしているのだ、というだけのことであるが。
* * * *
さて、そうして転勤するごとに大きくなる胸の名札であるが、あと3回も転勤する頃には、体の前後を名札が挟んでいるくらいになっているかも知れない。
合同庁舎にサンドイッチマンがいる、と噂の男がいたとしたら、たぶんそれは私のことだろうと想像していただきたい。
え~、良い行政の窓口はこちら~。