やっと久々の晴れの一日です。
もうレンギョウも葉ばかりになり、紫木蓮も大きな花びらを路上に落としています。
今年の春は短かったなあ。
さて、ただいま「掛川奮闘記」から「北の心の開拓記」ブログへの移行推進運動中です。こちらへの移行をよろしくお願いします。
さて今日は、
■広報マインド の1本です。
【広報マインド】
今日は「広報」について、仲間と意見を交換しました。
やれどもやれども、なかなか成果らしい成果の見えない世界でもある広報ですが、やらないと成果が期待できないけれど、やったから成果が出たのかどうかも分からないという、なかなか難しい分野ではあります。
「相手(マスコミや一般の国民)の立場に立って、欲しい情報を提供しよう」とか「マスコミとのネットワークを大事にしよう」などと言った、やるべきことや、伝達スキルは当然にやらなくてはならない。
一方で、「この情報は早く多くの人に知らせてあげたい」という何か意欲のようなものがあって、このような「広報マインド」みたいなものも醸成しなくてはならないのだろうな。
「広報マインド」と「広報スキル」、ここにも「意志」と「能力」がかいま見えますね。
* * * *
ついでに述べておくと、良く進歩派のニュースキャスターなどが政府が説明責任を果たしていないという態度を批判するのに、「『民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず』と昔の人は言いましたが、まさにその態度だ。もっと情報を公開しなくてはならない」と言うことがあります。
この原文は論語なのですが、「子曰、民可使由之、不可使知之」で、読み下し文は「子曰わく、民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず」とされます。
これは一見、「べし」を英語のshould、つまり「~すべきである」と解釈するのでそう思えるのですが、この「べし」の正しい解釈は英語のcan、つまり「~できる」という「可能のべし」なのです。
だから正しい解釈は「(政権は)人民に信頼をされることはできても、(説明しても)分かってはもらえないものだ」ということになります。
信用できない方は、本屋さんへ言って論語の該当箇所の日本語訳をご覧になってくださればよいでしょう。
まさに広報活動のある意味限界を示しているとも言えるのですが、人民全体に分かってはもらえなくても、信頼を得るための広報がやはり必要です。
最近の行政は、心を尽くして情報を提供しているのだが、分かりづらかったり表現の稚拙さ、一方的といったことで、まだまだ短時間に理解してもらうのが難しい状況が脱却できないでいるのも、一方の現実である。
広報の目的として私は「認知→共感→参加→情熱」という近さの4段階がここでも適用されると思っていて、まず知ってもらい、そのことで「ああ、彼らも彼らなりにがんばっているのだな」という共感・シンパシーを呼び起こす。
そこで初めて、「もっと勉強してやろう、いっしょにやってやろう」という気運が高まり、最後には「これはやらなくてはダメだ」という確信を持った情熱になる、というのが私の考え方である。
関わった人たち全てが情熱を持ってくれるわけにはいかないが、せめてある広報の目的が「認知」なのか「共感を得ること」なのか、によっても作り方やターゲットの相手も変わることだろう。
そういう作り方で、わが組織も少しでも多くの人の共感を得たいものである。
少しでも「民は知らしむべからず」に挑戦する広報マインドを忘れてはいけませんね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
今年の春は短かったなあ。
さて、ただいま「掛川奮闘記」から「北の心の開拓記」ブログへの移行推進運動中です。こちらへの移行をよろしくお願いします。
さて今日は、
■広報マインド の1本です。
【広報マインド】
今日は「広報」について、仲間と意見を交換しました。
やれどもやれども、なかなか成果らしい成果の見えない世界でもある広報ですが、やらないと成果が期待できないけれど、やったから成果が出たのかどうかも分からないという、なかなか難しい分野ではあります。
「相手(マスコミや一般の国民)の立場に立って、欲しい情報を提供しよう」とか「マスコミとのネットワークを大事にしよう」などと言った、やるべきことや、伝達スキルは当然にやらなくてはならない。
一方で、「この情報は早く多くの人に知らせてあげたい」という何か意欲のようなものがあって、このような「広報マインド」みたいなものも醸成しなくてはならないのだろうな。
「広報マインド」と「広報スキル」、ここにも「意志」と「能力」がかいま見えますね。
* * * *
ついでに述べておくと、良く進歩派のニュースキャスターなどが政府が説明責任を果たしていないという態度を批判するのに、「『民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず』と昔の人は言いましたが、まさにその態度だ。もっと情報を公開しなくてはならない」と言うことがあります。
この原文は論語なのですが、「子曰、民可使由之、不可使知之」で、読み下し文は「子曰わく、民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず」とされます。
これは一見、「べし」を英語のshould、つまり「~すべきである」と解釈するのでそう思えるのですが、この「べし」の正しい解釈は英語のcan、つまり「~できる」という「可能のべし」なのです。
だから正しい解釈は「(政権は)人民に信頼をされることはできても、(説明しても)分かってはもらえないものだ」ということになります。
信用できない方は、本屋さんへ言って論語の該当箇所の日本語訳をご覧になってくださればよいでしょう。
まさに広報活動のある意味限界を示しているとも言えるのですが、人民全体に分かってはもらえなくても、信頼を得るための広報がやはり必要です。
最近の行政は、心を尽くして情報を提供しているのだが、分かりづらかったり表現の稚拙さ、一方的といったことで、まだまだ短時間に理解してもらうのが難しい状況が脱却できないでいるのも、一方の現実である。
広報の目的として私は「認知→共感→参加→情熱」という近さの4段階がここでも適用されると思っていて、まず知ってもらい、そのことで「ああ、彼らも彼らなりにがんばっているのだな」という共感・シンパシーを呼び起こす。
そこで初めて、「もっと勉強してやろう、いっしょにやってやろう」という気運が高まり、最後には「これはやらなくてはダメだ」という確信を持った情熱になる、というのが私の考え方である。
関わった人たち全てが情熱を持ってくれるわけにはいかないが、せめてある広報の目的が「認知」なのか「共感を得ること」なのか、によっても作り方やターゲットの相手も変わることだろう。
そういう作り方で、わが組織も少しでも多くの人の共感を得たいものである。
少しでも「民は知らしむべからず」に挑戦する広報マインドを忘れてはいけませんね。
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