いよいよ今日でゴールデンウィークも終わり。挨拶状のデータ打ち込みも思うように進まず情けない。
ただいま「掛川奮闘記」から「北の心の開拓記」ブログへの移行推進運動中です。こちらへの移行をよろしくお願いします。
さて今日は、
■蕎麦の道を再び歩き出す の1本です。
【蕎麦道を再び歩き出す】
掛川の知人と電話で話をしていて、「小松さん、今度の開拓記は掛川の時と違って、なんだか冴えてないですね」というお叱りをいただきました。
確かに今はそうかも知れませんね。地元の利で、3年前までの、いくらかの人脈はあるものの、そこから先への展開がなかなか進まないでいます。
話題も、道内のことが多いですから、掛川の人たちから見たらちんぷんかんぷんの内容かも知れません。
まあ4月は焦らずに周りを観察して、5月から少しずつ行動半径を広げて行くといたしましょう。
* * * *
そば屋さんへ行きました。家の近くの「古一」さん。
店構えはビルの一階で、カウンターに6人掛けと4人席が一脚と小上がりが2席ほど。
注文したのは十割蕎麦と二八の細切りの合わせ盛り。なかなか珍しい取り合わせだと思って頼んでみた。
十割蕎麦は太くて短めで、二八の方はそれよりは細くて長い。十割は文字通り黒くて田舎蕎麦そのものでのど越しはやはりもそもそした感じが強い。
細い蕎麦の方はそれよりは白くて、二八だけあってつるんとした食感である。
しかし残念なことにどうもコシが足りない。5月というのはいかにも季節が悪い感じはするが、やはり残念なことだ。
そこでご亭主にこの二種類の麺の違いをお尋ねしてみた。すると「十割と二八ですが、蕎麦粉は違います。十割の方は三番粉ですね」とのこと。
三番粉というのは、粉を挽いた後でふるいに掛けて三番目に出てくる粉のことである。一番粉に近いほどつながりが悪いので、十割蕎麦ともなると三番粉くらいを使わないと蕎麦が繋がってくれないのだ。
それに番数が上がるほど蕎麦らしい黒みと田舎らしい蕎麦の風味が出てきて喜ばれるというわけである。
「粉はどこの粉ですか?」と訊いてみると、「うちは輸入物を使って製粉だけは道内です」とのこと。
「北海道の粉は使わないのですか?」と尋ねてみると「北海道の粉は高くて、それを使ったのでは盛りを500円で提供することができません。私はやはり蕎麦を安く提供したいですし、その上で美味しければよいのではないかと思っています」とのことであった。
なるほど、それはそれで一つの店主の主張と言うことなのだろう。それにしても、道内の蕎麦店が道内の粉を使えず、信州安曇野ならば北海道の粉をわざわざ運ばせてでも商売になる、というこのあたりの機微が商売であり、経済ということになるのだろう。
個人的にはもう少しコシのある蕎麦が良かったと思いました。なお汁(つゆ)は出汁がつーっと伸びて行くので美味しくいただきました。やはり商売になる汁でした。
どうもごちそうさまでした。
* * * *
さて、蕎麦を安く食べる一食と思えば、安いに越したことはないし、所詮店に来る人も底までの味を求める客も少ないのが実態だろう。
しかしそれが観光地などで、客の側の意識が高いものを要求されていて、それに応えるためであればプラスαのお値段も客は納得するのだ。
掛川の榛村市長から教わったことに、「お金の出し方五段階」というのがあって、人がお金を出すときには五つの感情があるという。
恋人などに出したくてたまらない状態は「いそいそ出す」、孫くらいだったら「ほのぼの出す」だという。
まあ普通に出すのは「しみじみ出す」で、出すのが少しいやになってくると「渋々出す」ということになり、出したくないのに出さなくてはならない状態は「ぷりぷり出す」ということになるのだそうだ。
行列をなすようなそば屋ならば、「値段はどうでも良いから早く食べさせてくれー!」というところだろう。まさに「いそいそ出す」状態だ。
とてもまずければ「しぶしぶ」か「ぷりぷり」になるのであって、商売をする以上、一見客相手とはいえ、そんなことでは困りものだろう。必ず評判になって跳ね返ってくるものだからである。
お客にお金をいそいそ出させる一番大事な要素は何か?
私は多分それは「曰く因縁の多様さ」「ドラマ性」なのだろうと思っている。美味しい蕎麦でも「どうぞ」と言って出したのでは多くの客はその背景が分からず、味という要素だけしか感じることができない。
それに対して、「うちの蕎麦は何にこだわっているか」ということを嫌みのない程度に説明を加えたり、情報提供することで同じ味が二倍三倍に「楽しめる」ということになるのだ。
客にとってはこの「楽しむ・楽しめる」という要素が大事なのであって、楽しみ方を教えてあげることすら店には求められると言っても良いだろう。
だから蕎麦屋は粉の産地、粉のひき方、水、長さ、細さ、固さ、出汁、醤油、砂糖、みりん、器、店構え、道具などの要素をふんだんに使って店のこだわりを徹底的に示すことで他店との差別化を図ろうとしているのである。
またそこにこだわりを示す要素がふんだんにあるところが蕎麦屋巡りの楽しさでもあるのだ。
だからこだわりのない蕎麦屋では、なんとも味気ない蕎麦を食べておしまいということになって、何のおまけのお楽しみがついてこないのである。こんなにつまらないことはない。
素人の蕎麦打ち道は、自分のこだわりを見つける旅路である。
それを探して食べ続け、打ち続けるのだ。そして自分の蕎麦を食べてくださるお客さんにこだわりとウンチクを示して、最大限に楽しんでいただくのだ。
蕎麦を振る舞っていて最高に嬉しいのはお客さんが楽しんで幸せになってくれる瞬間を見ることができることだ。
観光振興もまちづくりも、結局は自分の努力の結果を訪ねてきてくれたお客さんが
、楽しんで幸せになってくれることを目指しているはずだ。
だから私の場合のまちづくりは空間アレンジではなく、あくまでも「人間原理」に向かって行くのだ。
人間が楽しまない限り、美しいだけでは楽しい空間にはならない。
美しい風景だけがあるだけでは人は幸せにはならない。幸せを感じる一瞬をどうやって提供できるかが勝負なのだ。
提供する側がどれだけの量と質と多様性をもったドラマ性を提供できるかがポイントだ。
それを自分自身が口だけでなく、どれだけ背負い、人と一緒に携わって汗をかけるかどうかも重要な要素だろう。そのことにもドラマ性がもうあるはずだ。
ドラマチックな人生を友と歩めることは無上の幸せである。
* * * *
お蕎麦を食べてから近くの書店へ行ったら、「蕎麦の基本技術」という厚い本が目に入って、思わず購入してしまいました。
柴田書店編で、社団法人日本麺類業団体連合会監修である。お値段は4,200円だが、どれだけ座学を積んでいるか、ということは自分自身へのこだわりとドラマ性の積み重ねだから仕方がない。
蕎麦の歴史やウンチクを何時間も語れるというのも、楽しんでもらうための要素ですからねえ。
ただいま「掛川奮闘記」から「北の心の開拓記」ブログへの移行推進運動中です。こちらへの移行をよろしくお願いします。
さて今日は、
■蕎麦の道を再び歩き出す の1本です。
【蕎麦道を再び歩き出す】
掛川の知人と電話で話をしていて、「小松さん、今度の開拓記は掛川の時と違って、なんだか冴えてないですね」というお叱りをいただきました。
確かに今はそうかも知れませんね。地元の利で、3年前までの、いくらかの人脈はあるものの、そこから先への展開がなかなか進まないでいます。
話題も、道内のことが多いですから、掛川の人たちから見たらちんぷんかんぷんの内容かも知れません。
まあ4月は焦らずに周りを観察して、5月から少しずつ行動半径を広げて行くといたしましょう。
* * * *
そば屋さんへ行きました。家の近くの「古一」さん。
店構えはビルの一階で、カウンターに6人掛けと4人席が一脚と小上がりが2席ほど。
注文したのは十割蕎麦と二八の細切りの合わせ盛り。なかなか珍しい取り合わせだと思って頼んでみた。
十割蕎麦は太くて短めで、二八の方はそれよりは細くて長い。十割は文字通り黒くて田舎蕎麦そのものでのど越しはやはりもそもそした感じが強い。
細い蕎麦の方はそれよりは白くて、二八だけあってつるんとした食感である。
しかし残念なことにどうもコシが足りない。5月というのはいかにも季節が悪い感じはするが、やはり残念なことだ。
そこでご亭主にこの二種類の麺の違いをお尋ねしてみた。すると「十割と二八ですが、蕎麦粉は違います。十割の方は三番粉ですね」とのこと。
三番粉というのは、粉を挽いた後でふるいに掛けて三番目に出てくる粉のことである。一番粉に近いほどつながりが悪いので、十割蕎麦ともなると三番粉くらいを使わないと蕎麦が繋がってくれないのだ。
それに番数が上がるほど蕎麦らしい黒みと田舎らしい蕎麦の風味が出てきて喜ばれるというわけである。
「粉はどこの粉ですか?」と訊いてみると、「うちは輸入物を使って製粉だけは道内です」とのこと。
「北海道の粉は使わないのですか?」と尋ねてみると「北海道の粉は高くて、それを使ったのでは盛りを500円で提供することができません。私はやはり蕎麦を安く提供したいですし、その上で美味しければよいのではないかと思っています」とのことであった。
なるほど、それはそれで一つの店主の主張と言うことなのだろう。それにしても、道内の蕎麦店が道内の粉を使えず、信州安曇野ならば北海道の粉をわざわざ運ばせてでも商売になる、というこのあたりの機微が商売であり、経済ということになるのだろう。
個人的にはもう少しコシのある蕎麦が良かったと思いました。なお汁(つゆ)は出汁がつーっと伸びて行くので美味しくいただきました。やはり商売になる汁でした。
どうもごちそうさまでした。
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さて、蕎麦を安く食べる一食と思えば、安いに越したことはないし、所詮店に来る人も底までの味を求める客も少ないのが実態だろう。
しかしそれが観光地などで、客の側の意識が高いものを要求されていて、それに応えるためであればプラスαのお値段も客は納得するのだ。
掛川の榛村市長から教わったことに、「お金の出し方五段階」というのがあって、人がお金を出すときには五つの感情があるという。
恋人などに出したくてたまらない状態は「いそいそ出す」、孫くらいだったら「ほのぼの出す」だという。
まあ普通に出すのは「しみじみ出す」で、出すのが少しいやになってくると「渋々出す」ということになり、出したくないのに出さなくてはならない状態は「ぷりぷり出す」ということになるのだそうだ。
行列をなすようなそば屋ならば、「値段はどうでも良いから早く食べさせてくれー!」というところだろう。まさに「いそいそ出す」状態だ。
とてもまずければ「しぶしぶ」か「ぷりぷり」になるのであって、商売をする以上、一見客相手とはいえ、そんなことでは困りものだろう。必ず評判になって跳ね返ってくるものだからである。
お客にお金をいそいそ出させる一番大事な要素は何か?
私は多分それは「曰く因縁の多様さ」「ドラマ性」なのだろうと思っている。美味しい蕎麦でも「どうぞ」と言って出したのでは多くの客はその背景が分からず、味という要素だけしか感じることができない。
それに対して、「うちの蕎麦は何にこだわっているか」ということを嫌みのない程度に説明を加えたり、情報提供することで同じ味が二倍三倍に「楽しめる」ということになるのだ。
客にとってはこの「楽しむ・楽しめる」という要素が大事なのであって、楽しみ方を教えてあげることすら店には求められると言っても良いだろう。
だから蕎麦屋は粉の産地、粉のひき方、水、長さ、細さ、固さ、出汁、醤油、砂糖、みりん、器、店構え、道具などの要素をふんだんに使って店のこだわりを徹底的に示すことで他店との差別化を図ろうとしているのである。
またそこにこだわりを示す要素がふんだんにあるところが蕎麦屋巡りの楽しさでもあるのだ。
だからこだわりのない蕎麦屋では、なんとも味気ない蕎麦を食べておしまいということになって、何のおまけのお楽しみがついてこないのである。こんなにつまらないことはない。
素人の蕎麦打ち道は、自分のこだわりを見つける旅路である。
それを探して食べ続け、打ち続けるのだ。そして自分の蕎麦を食べてくださるお客さんにこだわりとウンチクを示して、最大限に楽しんでいただくのだ。
蕎麦を振る舞っていて最高に嬉しいのはお客さんが楽しんで幸せになってくれる瞬間を見ることができることだ。
観光振興もまちづくりも、結局は自分の努力の結果を訪ねてきてくれたお客さんが
、楽しんで幸せになってくれることを目指しているはずだ。
だから私の場合のまちづくりは空間アレンジではなく、あくまでも「人間原理」に向かって行くのだ。
人間が楽しまない限り、美しいだけでは楽しい空間にはならない。
美しい風景だけがあるだけでは人は幸せにはならない。幸せを感じる一瞬をどうやって提供できるかが勝負なのだ。
提供する側がどれだけの量と質と多様性をもったドラマ性を提供できるかがポイントだ。
それを自分自身が口だけでなく、どれだけ背負い、人と一緒に携わって汗をかけるかどうかも重要な要素だろう。そのことにもドラマ性がもうあるはずだ。
ドラマチックな人生を友と歩めることは無上の幸せである。
* * * *
お蕎麦を食べてから近くの書店へ行ったら、「蕎麦の基本技術」という厚い本が目に入って、思わず購入してしまいました。
柴田書店編で、社団法人日本麺類業団体連合会監修である。お値段は4,200円だが、どれだけ座学を積んでいるか、ということは自分自身へのこだわりとドラマ性の積み重ねだから仕方がない。
蕎麦の歴史やウンチクを何時間も語れるというのも、楽しんでもらうための要素ですからねえ。