今日は朝から雨(--;)。気温は5℃。北海道では9年ぶりに5月の雪だそうです。
「花散らしの雨」という綺麗な言葉を聞いて以前感動したのだけれど、「花散らしの雪」では季節感が分かりません! …ヒロシです…か?
ただいま「掛川奮闘記」から「北の心の開拓記」ブログへの移行推進運動中です。こちらへの移行をよろしくお願いします。
さて今日は、
■オートマチックの恐怖 の1本です。
【オートマチックの恐怖】
手始めに、面白い記事を一本ご紹介。これは知人のブログにあったもので、面白いので私の方でもご紹介します。
危険で間抜けな強制自動保護システム
パソコンに詳しい人ならご存じだと思うけれど、インターネット通信の世界はウィルスソフトの嵐の中を泳ぐ船のようなもので、メールを開けば誰からか分からないメールが私などでも一日20通くらいは来るし、そのくらいなら1通くらいはウィルスの仕込まれたメールがあるものだ。
そういう現実だから、ネット世界を泳ごうと思えばそういった危機から自分のパソコンと情報をガードする「意志」と「能力」は絶対に必要なのである。
私の場合は、契約しているプロバイダの有料ウィルスチェックサービスを受けているのに加えて、ウィルス防御ソフトのウィルスバスターというソフトを購入して、これでウィルスの侵入を防いでいるのである。
ウィルスソフトは世界中にハッカーと呼ばれる主にいたずら好きなソフト作り屋がいて、毎日いくつもの種類がばらまかれる。
そのため、ウィルス防御ソフトメーカーは購入後のサービスとして、それらがパソコンに入り込んで悪さをする仕組みを解明して、それを未然に防ぐパターンファイルと呼ばれるファイルを配布してくれる契約になっているのである。
だからパソコンをネットにつなぎ放題にしている環境においている場合は、このパターンファイルを自動的に探して、配布されればそれを取り込むようにセットしておくのがごく日常化している。
ところがこのシステムへの信頼が根底から覆されたのが、パターンファイルを配布するに当たってちゃんと動くかどうかと言う動作確認をしないまま配布してしまった、というトラブルだった。
それも時間的にほんの数時間の間だけ配布されていたファイルにそのプログラムミスがあって、気づいた時点で修正が加えられたのだが、そのわずかな時間帯に接続していて自動的にパターンファイルを受け取ってしまった私もその被害者になってしまったのだった。
その誤ったファイルを受け取ってしまうと、ソフトの中で受信したメールの中にウィルスがあるかどうかをチェックする上で、判定の場合分けが同じところぐるぐる回り続けて、結末に至らないままひたすら計算を続けるという症状になるのだった。
そのため、CPUという計算をしているところがひたすら終わりのない計算に使われてしまって、他のことができないという状態に陥って、一見パソコンが止まってしまったような症状になるのだった。
娘に「お父さん、パソコンが動かないよ」と言われて診断をしていたときには全く訳が分からなくて、(ハードの故障かも知れない)と思ったものだが、知人に相談しているうちに、「小松さん、ウィルスバスターのミスじゃないですか」ということになり、原因がつかめたのだった。
ところがそこからがまた大変で、なにしろその状態からの復旧方法をどうやって入手したらよいかが分からないのである。
幸い私の場合はその知人が丁寧に、「ここのフォルダに○○…というファイルがあるはずですからそれを削除すれば良いだけです」ということを教えてくれたから良かったけれど、パソコンをスイッチを入れたら後は使うだけ、という多くのユーザーには修復も難しいのではないかと思われた。
インターネットを使うようになると、いかに情報が簡単に手にはいることかとそのありがたみを味わう反面、インターネット以外からの情報入手手段がいかに乏しいものであるか、を改めて思い知ることになる。
この間、ウィルスバスターを出しているトレンドマイクロ社からはゴールデンウィーク返上で、対処方針のお知らせとお詫びが寄せられるのだが、それがメールで来るというのが何とも皮肉に見えて仕方がない。
何しろ、その症状に陥ってしまえば、ネットに接続することができなくなるのであって、復旧のためには実に役に立たない情報の伝え方になってしまっているのである。
便利なものに頼る依存度を高めれば高めるほどに、それが失われたときのダメージが大きいかという危険やリスクと隣り合わせにいることを忘れてはいけないことを改めて思い知らせてくれる事件ではあったけれど。
自動ドア、自動アップデート、自動処理…、オートマチックの便利さに裏切られるリスクとそのときの恐怖への想像力が働くかどうかである。
* * * *
尼崎のJR事故を見るにつけても、乗客の多くはその便利を享受してきたわけで、便利の陰で安全に対するリスクがいかに現場の努力でカバーされてきたか、ということも、知らないままの幸せであったか、ということにいかにも不幸な形で気づいた形になるのだろう。
福知山線はドル箱路線なので、一日も早く営業を開始したいJR西日本側に対して、国土交通省としては安全策が確立されない限り認めない方針という新聞報道がなされていて、その証が新型ATSの導入ということのようだから、JR側とすれば、もうそれをするしかないところまで追い込まれていることだろう。
ただ危険なのは、そうやって「新型ATSを導入しさえすれば安全は保証された」として再び日常のリスクに対して意識をさせなくする風潮なのであって、いつ何時どのようなリスクに見舞われる可能性があって、いざそのときに自分自身はどのような対応を取るべきか、という自立した自分でいようとする努力を自分自身もしなくてはいけないのだろう。
行政の多くは、行政サービスという形で住民から不安と不便を取り除くことが良い行政だと信じて疑わないのだけれど、行政の限界や財政の限界を常に知らせる中で、「行政としてできるのはここまで」「わが町の財政が許すのはここまで」という、その町の分相応がどのあたりにあるか、ということを常に知らせなくてはならないはずで、それこそが実は本当の情報公開なのだと思う。
住民から言われて渋々出すような情報公開ではなくて、常に行政の側から啓発運動を日常的に続けなくては市民には浸透しないものだ、という実感や肌感覚があるかどうかもポイントなのだろうと思う。
そういう感覚がないから多くの行政は、一度新聞記事に紹介されたことやパンフレットを作成しただけで、「住民には伝えているはずだ」「伝わっているはずだ」という自己満足と自己弁護に陥ってしまうのだ。
農夫が作物を作るのに、土を耕さないまま、「種を蒔いたのだから作物は発芽して育ってくれて当然だ」と言わんばかりなのだ。
だから人の心を耕さない限り、伝えたいことは伝わらない、というのが私の信条である。
今回のブログの「北の心の開拓記」にはそういう意味合いが込められていて、心を耕してから種を蒔きたいという農夫の気持ちでまちづくりを進めたいと思う。
畑は耕されていないのが見えるけれど、人の心が耕されているかどうかは全く見えない。
見えない財産、見えない資質というものをきちんと評価する眼力がなくては、すべきことも見えないのだ。
「花散らしの雨」という綺麗な言葉を聞いて以前感動したのだけれど、「花散らしの雪」では季節感が分かりません! …ヒロシです…か?
ただいま「掛川奮闘記」から「北の心の開拓記」ブログへの移行推進運動中です。こちらへの移行をよろしくお願いします。
さて今日は、
■オートマチックの恐怖 の1本です。
【オートマチックの恐怖】
手始めに、面白い記事を一本ご紹介。これは知人のブログにあったもので、面白いので私の方でもご紹介します。
危険で間抜けな強制自動保護システム
パソコンに詳しい人ならご存じだと思うけれど、インターネット通信の世界はウィルスソフトの嵐の中を泳ぐ船のようなもので、メールを開けば誰からか分からないメールが私などでも一日20通くらいは来るし、そのくらいなら1通くらいはウィルスの仕込まれたメールがあるものだ。
そういう現実だから、ネット世界を泳ごうと思えばそういった危機から自分のパソコンと情報をガードする「意志」と「能力」は絶対に必要なのである。
私の場合は、契約しているプロバイダの有料ウィルスチェックサービスを受けているのに加えて、ウィルス防御ソフトのウィルスバスターというソフトを購入して、これでウィルスの侵入を防いでいるのである。
ウィルスソフトは世界中にハッカーと呼ばれる主にいたずら好きなソフト作り屋がいて、毎日いくつもの種類がばらまかれる。
そのため、ウィルス防御ソフトメーカーは購入後のサービスとして、それらがパソコンに入り込んで悪さをする仕組みを解明して、それを未然に防ぐパターンファイルと呼ばれるファイルを配布してくれる契約になっているのである。
だからパソコンをネットにつなぎ放題にしている環境においている場合は、このパターンファイルを自動的に探して、配布されればそれを取り込むようにセットしておくのがごく日常化している。
ところがこのシステムへの信頼が根底から覆されたのが、パターンファイルを配布するに当たってちゃんと動くかどうかと言う動作確認をしないまま配布してしまった、というトラブルだった。
それも時間的にほんの数時間の間だけ配布されていたファイルにそのプログラムミスがあって、気づいた時点で修正が加えられたのだが、そのわずかな時間帯に接続していて自動的にパターンファイルを受け取ってしまった私もその被害者になってしまったのだった。
その誤ったファイルを受け取ってしまうと、ソフトの中で受信したメールの中にウィルスがあるかどうかをチェックする上で、判定の場合分けが同じところぐるぐる回り続けて、結末に至らないままひたすら計算を続けるという症状になるのだった。
そのため、CPUという計算をしているところがひたすら終わりのない計算に使われてしまって、他のことができないという状態に陥って、一見パソコンが止まってしまったような症状になるのだった。
娘に「お父さん、パソコンが動かないよ」と言われて診断をしていたときには全く訳が分からなくて、(ハードの故障かも知れない)と思ったものだが、知人に相談しているうちに、「小松さん、ウィルスバスターのミスじゃないですか」ということになり、原因がつかめたのだった。
ところがそこからがまた大変で、なにしろその状態からの復旧方法をどうやって入手したらよいかが分からないのである。
幸い私の場合はその知人が丁寧に、「ここのフォルダに○○…というファイルがあるはずですからそれを削除すれば良いだけです」ということを教えてくれたから良かったけれど、パソコンをスイッチを入れたら後は使うだけ、という多くのユーザーには修復も難しいのではないかと思われた。
インターネットを使うようになると、いかに情報が簡単に手にはいることかとそのありがたみを味わう反面、インターネット以外からの情報入手手段がいかに乏しいものであるか、を改めて思い知ることになる。
この間、ウィルスバスターを出しているトレンドマイクロ社からはゴールデンウィーク返上で、対処方針のお知らせとお詫びが寄せられるのだが、それがメールで来るというのが何とも皮肉に見えて仕方がない。
何しろ、その症状に陥ってしまえば、ネットに接続することができなくなるのであって、復旧のためには実に役に立たない情報の伝え方になってしまっているのである。
便利なものに頼る依存度を高めれば高めるほどに、それが失われたときのダメージが大きいかという危険やリスクと隣り合わせにいることを忘れてはいけないことを改めて思い知らせてくれる事件ではあったけれど。
自動ドア、自動アップデート、自動処理…、オートマチックの便利さに裏切られるリスクとそのときの恐怖への想像力が働くかどうかである。
* * * *
尼崎のJR事故を見るにつけても、乗客の多くはその便利を享受してきたわけで、便利の陰で安全に対するリスクがいかに現場の努力でカバーされてきたか、ということも、知らないままの幸せであったか、ということにいかにも不幸な形で気づいた形になるのだろう。
福知山線はドル箱路線なので、一日も早く営業を開始したいJR西日本側に対して、国土交通省としては安全策が確立されない限り認めない方針という新聞報道がなされていて、その証が新型ATSの導入ということのようだから、JR側とすれば、もうそれをするしかないところまで追い込まれていることだろう。
ただ危険なのは、そうやって「新型ATSを導入しさえすれば安全は保証された」として再び日常のリスクに対して意識をさせなくする風潮なのであって、いつ何時どのようなリスクに見舞われる可能性があって、いざそのときに自分自身はどのような対応を取るべきか、という自立した自分でいようとする努力を自分自身もしなくてはいけないのだろう。
行政の多くは、行政サービスという形で住民から不安と不便を取り除くことが良い行政だと信じて疑わないのだけれど、行政の限界や財政の限界を常に知らせる中で、「行政としてできるのはここまで」「わが町の財政が許すのはここまで」という、その町の分相応がどのあたりにあるか、ということを常に知らせなくてはならないはずで、それこそが実は本当の情報公開なのだと思う。
住民から言われて渋々出すような情報公開ではなくて、常に行政の側から啓発運動を日常的に続けなくては市民には浸透しないものだ、という実感や肌感覚があるかどうかもポイントなのだろうと思う。
そういう感覚がないから多くの行政は、一度新聞記事に紹介されたことやパンフレットを作成しただけで、「住民には伝えているはずだ」「伝わっているはずだ」という自己満足と自己弁護に陥ってしまうのだ。
農夫が作物を作るのに、土を耕さないまま、「種を蒔いたのだから作物は発芽して育ってくれて当然だ」と言わんばかりなのだ。
だから人の心を耕さない限り、伝えたいことは伝わらない、というのが私の信条である。
今回のブログの「北の心の開拓記」にはそういう意味合いが込められていて、心を耕してから種を蒔きたいという農夫の気持ちでまちづくりを進めたいと思う。
畑は耕されていないのが見えるけれど、人の心が耕されているかどうかは全く見えない。
見えない財産、見えない資質というものをきちんと評価する眼力がなくては、すべきことも見えないのだ。