先日ある友人と話をしていたところ、彼の知り合いの息子さんにサッカーの公式審判員、それもJリーグで審判を務められる1級という資格を目指している子がいるという話になりました。
サッカーの審判員ともなるとルールを知っているだけではなく、体力も必要でしょう。
「うん、その子はハーフマラソンで5位に入るくらいの体力があるというから、体力は大丈夫だと思うんです」
「その時点でもうすごいです」
「でね、審判員になるための知識や素養ということが大事になってくるんです」
「そりゃ、体力に加えて、ルールの知識はもちろん、その一瞬の動作が反則かどうか、という判断力も求められるのでしょう?」
「問題はそれだけじゃないんですよ」
「まだまだあるんですか?」
「ええ細かく言うと、フィールドのどこに動いてボールを見るかというポジショニングも大切ですし、ゲーム全体をまとめ上げるゲームマネジメントの力も求められます」
「ゲームを審判がマネジメントするんですか?」
「そう、揉めたり睨み合ったりなんてことはしょっちゅうありますね。そのときに、集団的対立をどうマネジメントするのかを考えなくてはなりません。揉めそうになっている2人のうち、どちらを抑えれば対立を素早く収束できるのか、とかね」
「はあ、深いなあ」
「でも僕が面白いと思ったことがあるんです」
「それはなんですか?」
「それは彼が見せてくれた教科書と言うか資料のなかに『選手に信頼されること』という項目があったことです」
「信頼ですか」
「そう、感情が揺らがずに判定が安定しているとか、誠実な姿勢を見てもらうことで、『この人は大丈夫だ』とか『この人を試しちゃだめだ』と思ってもらえるような信頼を選手から得られれば、試合運びはスムースで安定するというわけです。そういう感情とは一見無縁なようですが、スポーツのプレイヤーと審判の間にもそういうことが言われるんだなあ、と思って面白く思いました」
これって逆に言えば、ひとたび審判の力量が不足しているとみられてしまえばゲームは荒れるということにもなりかけないわけですね。
どんなことにも欠かせないのが信頼。
失うのは一瞬ですが、得るのには時間がかかる代物です。