先日実家を訪ねたら、今年で90歳になった母親が「また今年も庭で家庭菜園をしなくちゃならない」と言いました。
最近は心臓が弱ってきたそうで、少し歩いても「こわい(疲れた)、こわい」という母。
畑の土を起こすのも自分ではできないなか、「爺ちゃんがスコップで起こしてくれたんだけど、あとは牛糞たい肥を買ったので、それを混ぜなくちゃ」と今年も収穫に向けてがんばる様子です。
「牛糞を撒くんだったら今やってあげるよ」と袋を開けて庭の土に撒いてやるとせっせとそれを土の中にすき込む母でした。
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「もう家庭菜園なんて疲れるんだったら止めたら」というと、「そうはいかないでしょ」と止めるとは言いません。
そんなに畑の作物が欲しいという執着心があるのか、というとそうでもなさそう。
作物への執着というよりもそれは『庭に畑がある以上、面倒を見なくてはならない』といった義務感のような印象です。
自らがやりたくてたまらない、というよりは、畑の土がなにもされずに放置されたままでいるのは可哀想だ、と思っているような感じ。
では「もう疲れたから畑もやめるわ」と言われたとしたら、きっとそれはそれで母の気力が衰えたような気がして寂しくなることでしょう。
まだまだ子供らから呆れられているくらいエネルギーがあるのだとりかいすべきなのかもしれません。
歳を取った時に、自分もこれだけはやめられないという何かを持っていることって生きる糧として大切なことなのかもしれません。
お釈迦様には「悟りの境地はまだまだ遠い」と言われるかもしれませんが、ね。