【冒頭の陳謝】
お恥ずかしいことに、掛川で榛村市長さんから教えていただいた内山節さんと内田樹さんを勘違いした文章をアップしてしまいました。
コメントでご指摘を頂いて、誤った部分を修正したうえで再掲します。改めてお詫び申し上げますとともに、ご指摘くださった読者の方に感謝申し上げます。
大変失礼いたしました。
ーーーーーー【以下、勘違い部分を書き改めてうえで再掲します】
内田樹(うちだ・たつる)」さんの本を読みました。
今年の春に刊行されたエッセイ集「だからあれほど言ったのに」(マガジンハウス新書)です。
さらりと読み流せるエッセイの数々で、様々な媒体で書いたものを集めて編集した一冊とのことで、深い知性と教養が味わえました。
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今の内田さんの肩書をWikipediaで探ると、「日本のフランス文学者、武道家(合気道凱風館館長。合気道七段、居合道三段、杖道三段)、翻訳家、思想家、エッセイスト、元学生運動家、神戸女学院大学名誉教授」となっています。
Wikipediaでは最後に「立憲民主党パートナー」とも書かれていて、まあ政治を語るときには今の国のありようや政治体制、与党体制にちょっと辛めの批評が登場します。
それはそれとしても、フランス文学者や思想家、武道家としての立場から書かれたエッセイでは知らない知識からのアプローチに「へえ~」と感心したり、「まさに!」と激しく同意する気持ちに膝を打ったりして、自分の心の中を掻き乱される思いがする語りでした。
あとがきにはご自身で「読み返してみると…、中心的なテーマは『日本の未来を担う人たち』をどうやって支援するか、ということに尽くされているように思った」とあり、さらに「とくに子どもたちを『決して傷つけずに"無垢な大人"に育て上げる』ということが今の日本人にとって最優先の課題ではないかと思います」と書かれています。
実際のエッセイにも、「学校は格付けするところではない」というタイトルの文章に、「今の学校は子どもたちを成績で"格付け"する評価機関になっているが…、学校は子どもたちの成熟を支援する場だと思う」と書かれています。
続いて、「昔の日本では子供たちは七歳まで「聖なるもの」として扱うという決まりがあった」とか「子どもは七歳までは異界とつながる聖なる存在として遇された」と書かれています。
なので、「この世ならざるもの」とこの世を橋渡しするものには童名をつけるという習慣があるのだ、として、「酒呑童子」や「牛飼いも童名を名乗った」という例や「船に〇〇丸とつけるのは海洋や河川という野生のエネルギーと人間世界の間に立つものだから"子ども枠"に分類されるのだ」などと教えてくれます。
そういう視点でものを考えたことがなかったので目からウロコでした。
子どもたちがまだ半分はこの世ではない異界の存在で、だからゆっくりとこちらの世界へと導かなくてはならない壊れやすく傷つきやすいものなのだ、という感覚は、日本人としてはどこか分かるような気がしますが、今日の職業教育者の教育理論にはそういう視点はないように思えます。
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内田さんは2011年に神戸に自宅を兼ねた凱風館という道場を建てられました。
そこでは武道だけではなく様々な伝統芸能なども演じられていて、「貸しホールではなく一種のコミュニティなのだ」と考えています。
そして道場を建てたのは、「公共の体育館には神棚がないから」であり、ここで教えていることは「場への敬意」であったり、「超越的なものへの敬意」なのだと。
そして「おのれの理解も共感も絶したようなものには適切な距離を取ること」という作法を身に着けることが武道を学ぶ勘所なのだと。
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どこか、榛村さんと会話をしているときのように圧倒されるほど感心した次第。
こういうことを教えてくれる大人がなかなかいないんですよね。
年末年始のお暇な時にさらっと読むにはちょうど良いかもしれません。
内山さんと内田さんの取り違えはご指摘の通り、まったくの私の勘違いでした。
勘違い部分を修正し書き改めたうえで再掲させていただきます。
貴重なご指摘に改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。
>ご指摘ありがとうございました... への返信
恐縮です。
小松様のブログはいつも「気づき」が多く参考にさせていただいております。
これからも楽しみにしております。
よいお年をお迎えください。
>恐縮です。... への返信
重ねてのコメント、ありがとうございました。
日々何かに気がついていれば、少しずつでも魂が磨かれるような気がしています。
fukushimaさんもよい年をお迎えください。