「『あんな奴のために?ヘン!』って何度もそう言われましたよ、ははは」
そう笑うのは、市内で石川啄木の研究一筋、市井の大家であるK先生。
「啄木の銅像を作ろうということで市民に募金をお願いした時のことなんですが、みんな啄木を女たらしのろくでなしだと思っているんです。そういうイメージが染み込みすぎていますね」
今日は釧路に歴史の一ページを刻んでくれた石川啄木について知りたくて、人づてにK先生をお訪ねしました。そして啄木のイメージについて尋ねた時に発せられたのが冒頭の言葉でした。
一体石川啄木ってどういうイメージで理解されているでしょうか。
※ ※ ※ ※ ※
石川啄木は明治41(1908)年1月21日に釧路駅に降り立ち、その年の4月5日に船で釧路港を離れます。釧路に滞在したのはわずかに76日間でしたが、釧路に招かれたのは当時の釧路新聞の編集長的な役割を期待されてのこと。
給料はそれほど多くはなりませんでしたがやたら高級料亭に足を運べるような生活になりました。
そしてその際に出会ったのが小奴(こやっこ)と言う名の芸奴で、多少仲が良くなって彼女の名が出てくる歌もうたっています。
小奴といひし女のやはらかき耳朶なども忘れがたかり
女の耳たぶを歌にするほど仲が良かったのか。さらには梅川操と言う女性も登場したりして、たった76日間の滞在中にも浮名を流します。
しかも釧路に滞在中、彼は妻子と母親を小樽に残しながら仕送りもせずにいたため、家族は赤貧に甘んじた生活に苦しんでいました。
家族を大事にせず女やサケに遊び歩き、おまけにたった76日間でぷいっと釧路を離れて東京へと去ってしまった啄木。なんだかずいぶん自分勝手で放蕩な男の印象が強くって、それで(特に女性には)人気がないのかもしれません。
※ ※ ※ ※ ※
「啄木がぷいっと東京へ行ってしまった理由はどのようにお考えですか」良くある質問ですが、K先生に訊いてみました。
するとK先生は「私はやはり東京へ行きたいという思いが強かったのだと思いますよ。ちょうど東京では田山花袋が『布団』を出したころで、『あれくらいだったら俺だって書ける』という自負もあったでしょうね」というご意見。
「小奴はその後世間で言われるほどには男女の関係はなかったようです。彼女にはそのときすでにパトロンがいましたしね。それよりは梅川操との関係の方がずっと親密でした。ところがその間に同僚の佐藤衣川という男が割って入って問題を起こします。これが啄木にはショックだったのです。いろいろな人が書いていますが、啄木が釧路にいた前半の40日間は希望に満ちた明るい論調が目立ち、しかしその事件があった後の30日は人が変わったように生活に暗い影を落としています。それもまた彼が釧路に居たくなくなってしまった原因の一つでしょうね」
※ ※ ※ ※ ※
K先生は、私が一つ質問をするたびにご自身の作られた資料をファイルから取り出してそれで説明をしてくれます。机の上はすぐに資料の山になりました。
「私は調べて新しいことが分かったら資料を修正してすぐに配ってしまうのですが、妻は『せっかく苦労して調べたのに人にあげてしまうなんてもったいない』と言いますが、私はそれに抵抗がないんです、ははは」とも。
K先生が啄木と出会ったのは小学生の時に担当の先生が啄木の短歌を教えてくれたことがきっかけだったそう。もう啄木研究は60年以上になり、書籍の収集や啄木に関するありとあらゆる関心ごとを徹底的に調べ上げる情熱とその実績は下手な大学の先生では太刀打ちができないほど。
ニコニコと楽しそうに話す先生ですがその執念は凄まじいものがあります。
※ ※ ※ ※ ※
「釧路に啄木がいたということはどういう意味があるとお考えですか?」
「彼は北海道に約一年いました。函館に約120日、小樽に約85日、札幌には14日、そして釧路には76日間というわけです。日数だけを見ると函館や小樽の方が長いのですが、彼が物書きとしてもっとも充実していたのが釧路でした」
「なるほど」
「函館の時は臨時雇い、代用教員、遊軍記者でしたが、さほど充実した記事は書いていません。小樽では最初遊軍記者として、後に三面記者として働きますがやはりその程度の記事でしかありません」
「はい」
「それが釧路では一転、釧路新聞(当時)の主筆という、事実上の編集長の役割を与えられました。そして紙面の構成も思うように変え、紙面上で時事評論、随筆、詩、論文、短歌と相当な数の作品を残しています。ただ女遊びに呆けていたわけではありません」
「なんだかイメージと違いますね」
「確かに、給料が25円の時に一晩5円と言われた高級料亭に何度も通えるような生活もする一方で家族に仕送りをしていないというあたりはやや性格に偏りも観られますが、後にも先にも彼の人生の中でもっとも充実した生活の中で多くの作品を書き上げた一時期であったことは間違いありません」
「釧路時代こそが彼の文芸才能を一気に広げた時代だということですね」
「そうです、そして釧路を離れた後に彼は東京へ移り、そこで小説を書いたりもしていますがやがて病気になり不遇のまま生涯を終えます。彼の文芸活動を花開かせたのが釧路だという意味をもっと誇ってよいと思いますよ」
※ ※ ※ ※ ※
K先生は丹念に資料を読み込んで真実がどこにあったのかを徹底的に追及する姿勢で啄木に臨んでいます。
その姿勢はあたかも真理を求める科学者のそれであり、推理小説の犯人を追い求める探偵のようでもあります。
釧路における啄木の意味は、単なる観光の話題の一つと言うのではなく、もっと深く読み込むことでますます輝きを増してくるようです。
啄木の価値、そしてK先生の価値。釧路っ子はどれだけ理解しているでしょうか。
【啄木が務めた釧路新聞社を復元した港文館】
そう笑うのは、市内で石川啄木の研究一筋、市井の大家であるK先生。
「啄木の銅像を作ろうということで市民に募金をお願いした時のことなんですが、みんな啄木を女たらしのろくでなしだと思っているんです。そういうイメージが染み込みすぎていますね」
今日は釧路に歴史の一ページを刻んでくれた石川啄木について知りたくて、人づてにK先生をお訪ねしました。そして啄木のイメージについて尋ねた時に発せられたのが冒頭の言葉でした。
一体石川啄木ってどういうイメージで理解されているでしょうか。
※ ※ ※ ※ ※
石川啄木は明治41(1908)年1月21日に釧路駅に降り立ち、その年の4月5日に船で釧路港を離れます。釧路に滞在したのはわずかに76日間でしたが、釧路に招かれたのは当時の釧路新聞の編集長的な役割を期待されてのこと。
給料はそれほど多くはなりませんでしたがやたら高級料亭に足を運べるような生活になりました。
そしてその際に出会ったのが小奴(こやっこ)と言う名の芸奴で、多少仲が良くなって彼女の名が出てくる歌もうたっています。
小奴といひし女のやはらかき耳朶なども忘れがたかり
女の耳たぶを歌にするほど仲が良かったのか。さらには梅川操と言う女性も登場したりして、たった76日間の滞在中にも浮名を流します。
しかも釧路に滞在中、彼は妻子と母親を小樽に残しながら仕送りもせずにいたため、家族は赤貧に甘んじた生活に苦しんでいました。
家族を大事にせず女やサケに遊び歩き、おまけにたった76日間でぷいっと釧路を離れて東京へと去ってしまった啄木。なんだかずいぶん自分勝手で放蕩な男の印象が強くって、それで(特に女性には)人気がないのかもしれません。
※ ※ ※ ※ ※
「啄木がぷいっと東京へ行ってしまった理由はどのようにお考えですか」良くある質問ですが、K先生に訊いてみました。
するとK先生は「私はやはり東京へ行きたいという思いが強かったのだと思いますよ。ちょうど東京では田山花袋が『布団』を出したころで、『あれくらいだったら俺だって書ける』という自負もあったでしょうね」というご意見。
「小奴はその後世間で言われるほどには男女の関係はなかったようです。彼女にはそのときすでにパトロンがいましたしね。それよりは梅川操との関係の方がずっと親密でした。ところがその間に同僚の佐藤衣川という男が割って入って問題を起こします。これが啄木にはショックだったのです。いろいろな人が書いていますが、啄木が釧路にいた前半の40日間は希望に満ちた明るい論調が目立ち、しかしその事件があった後の30日は人が変わったように生活に暗い影を落としています。それもまた彼が釧路に居たくなくなってしまった原因の一つでしょうね」
※ ※ ※ ※ ※
K先生は、私が一つ質問をするたびにご自身の作られた資料をファイルから取り出してそれで説明をしてくれます。机の上はすぐに資料の山になりました。
「私は調べて新しいことが分かったら資料を修正してすぐに配ってしまうのですが、妻は『せっかく苦労して調べたのに人にあげてしまうなんてもったいない』と言いますが、私はそれに抵抗がないんです、ははは」とも。
K先生が啄木と出会ったのは小学生の時に担当の先生が啄木の短歌を教えてくれたことがきっかけだったそう。もう啄木研究は60年以上になり、書籍の収集や啄木に関するありとあらゆる関心ごとを徹底的に調べ上げる情熱とその実績は下手な大学の先生では太刀打ちができないほど。
ニコニコと楽しそうに話す先生ですがその執念は凄まじいものがあります。
※ ※ ※ ※ ※
「釧路に啄木がいたということはどういう意味があるとお考えですか?」
「彼は北海道に約一年いました。函館に約120日、小樽に約85日、札幌には14日、そして釧路には76日間というわけです。日数だけを見ると函館や小樽の方が長いのですが、彼が物書きとしてもっとも充実していたのが釧路でした」
「なるほど」
「函館の時は臨時雇い、代用教員、遊軍記者でしたが、さほど充実した記事は書いていません。小樽では最初遊軍記者として、後に三面記者として働きますがやはりその程度の記事でしかありません」
「はい」
「それが釧路では一転、釧路新聞(当時)の主筆という、事実上の編集長の役割を与えられました。そして紙面の構成も思うように変え、紙面上で時事評論、随筆、詩、論文、短歌と相当な数の作品を残しています。ただ女遊びに呆けていたわけではありません」
「なんだかイメージと違いますね」
「確かに、給料が25円の時に一晩5円と言われた高級料亭に何度も通えるような生活もする一方で家族に仕送りをしていないというあたりはやや性格に偏りも観られますが、後にも先にも彼の人生の中でもっとも充実した生活の中で多くの作品を書き上げた一時期であったことは間違いありません」
「釧路時代こそが彼の文芸才能を一気に広げた時代だということですね」
「そうです、そして釧路を離れた後に彼は東京へ移り、そこで小説を書いたりもしていますがやがて病気になり不遇のまま生涯を終えます。彼の文芸活動を花開かせたのが釧路だという意味をもっと誇ってよいと思いますよ」
※ ※ ※ ※ ※
K先生は丹念に資料を読み込んで真実がどこにあったのかを徹底的に追及する姿勢で啄木に臨んでいます。
その姿勢はあたかも真理を求める科学者のそれであり、推理小説の犯人を追い求める探偵のようでもあります。
釧路における啄木の意味は、単なる観光の話題の一つと言うのではなく、もっと深く読み込むことでますます輝きを増してくるようです。
啄木の価値、そしてK先生の価値。釧路っ子はどれだけ理解しているでしょうか。
【啄木が務めた釧路新聞社を復元した港文館】
釧路の啄木について、大変良い紹介をされてますが、その点に感激して神奈川からエールを送りたくなりました。
釧路のK先生とは、多分、私も存じ上げている、あの方だと思いますが、私もK先生のファンの一人です。
最近、釧路市教育委員会から発行されている<釧路新書>の名著でもある、鳥居省三著『石川啄木 その釧路時代』に補注を加えて【増補版】を出されましたが、K先生が釧路におられなかったならば、鳥居先生の名著が埋もれてしまう所でしたね。
故人となってしまった鳥居先生の学恩を受けた人は多いと思いますが、K先生のように「縁の下の力持ち」の役割を担う人は少ないので、本当に感謝したいという気持ちで、再販された釧路新書の『増補・石川啄木』を読みました。
釧路の啄木を知りたい人で、まだ、増補版を手にして無い人には、ぜひ、とお薦めしたい本なのです。
これからも、釧路や北海道での啄木の紹介を宜しくお願い致します。
何より手作りの資料、資料、資料でご自身が一つ一つ確認したものを丁寧にまとめられていて、とにかく『理解する』ということを徹底的に追究されようとする姿に感銘を受けました。
これからも釧路市民のための啄木論を掘り起こしてゆこうと思いますのでよろしくお願いします。