K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

徳川綱吉

2006年2月27日曇り

この建物は中野区役所
今日は父の準確定申告を提出に中野税務署に行ってきました。
中野区役所や税務署などの区の役所が集まっている中野駅周辺は江戸時代5代将軍徳川綱吉の生類憐れみの法令にもとづく犬屋敷があったところです。


綱吉は5代将軍になると武家諸法度天和令で、主君に対する孝、礼儀による秩序を武士に求める、文治政治をおしすすめました。また将軍自ら易経を講義するほどの学問好きでもありました。将軍になったばかりの頃は政治を引き締めましたが、側用人の柳沢吉保を抜てきして将軍の補佐をさせるようになると、幕府の伝統的な重職である老中・若年寄に左右されない将軍の専制政治を始めました。綱吉は生母桂昌院の願いで建立した護国寺の僧亮賢らの勧めによって1685年からしばしば生類憐れみの令を発しました。初めは鷹狩りを廃し、馬の筋をのばしたり尾を切ることを禁じるなど仏教の慈悲を政治に示そうとするものでしたが、1687年以来しだいに迷信化し極端な悪法となりました。犬を切ったものが死罪になったり、蚊を殺してお役ごめんになったり・・。怪我をした犬は犬医者に見せなければならなかったりと・・。このようなことで捨て犬が多くなりました。幕府は四谷大久保に2万5000坪、中野に16万坪の犬小屋を建て、4万8700余匹の野犬を収容して、1日1匹白米3合、味噌50匁、干鰯1合ずつ与えていました。この費用は関八州の農民・江戸市民から出させてまかないました。綱吉は死に際に「この法令だけはやめるな」と遺言しましたが、6代将軍家宣は真っ先にこの法令を廃止しました。


囲町(かこいちょう)公園の入口には皮肉にも

囲町公園の南側には
中野警察学校です
「警察の犬」っていつごろからの言葉でしょうか


お詫びと訂正 この警察学校は2001年に府中に引っ越しました。今はNTTドコモ中野ビルです。
綱吉は三代将軍家光の4男で、上州館林の藩主でした。本人もまさか将軍職につくことなど考えていませんでしたが、4代将軍の家綱に世継がいなかったので、大老酒井忠清(下馬将軍)は京都から宮将軍を迎えようとしました。鎌倉時代の再現を考え、自分が幕府の実権を握ろうとしたのでしょうね。ですが、老中の堀田正俊は将軍の弟である館林の綱吉がいるではないかと、綱吉を呼び戻して継がせることを主張しました。綱吉は将軍の器には見えない人物だったようですが、堀田正俊の主張が多数意見となり、家綱の病床に綱吉がよばれて、養子となり将軍職に就きました。綱吉が真剣に政治に取り組んだのは最初の4年間で堀田正俊が存命中だけでした。綱吉の時代は(1680年から1709年)元禄文化がの時期にあたりますので、井原西鶴や近松門左衛門、松尾芭蕉、市川団十郎、坂田藤十郎などが活躍しました。また、湯島聖堂が完成しました。綱吉の晩年には赤穂事件もありました。綱吉には世継がいなかったので、家光の孫にあたる甲府藩主が6代将軍に就任しました。6代将軍家宣は真っ先に生類憐みの令を廃止しました。6代7代将軍の時期に政治を行ったのは新井白石でした。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「中野区」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事