なぜ体育の授業で懸垂をするかというと、戦前の軍事教練で小銃を扱うには自分の体重と同じくらいの物を持ち上げるのが望ましいとされた名残。一方で運動会の棒倒しや騎馬戦は、自由民権運動の政府を倒し、権力を奪取する呼びかけを競技化したもの、など、歴史的にへーっと思う知識が豊富。
クーベルタンが晩年ナチスから年金をもらっていたとは知らなかった。今みたいに国威発揚とメディア戦略の結合としてのオリンピックはナチスによるベルリン・オリンピックが原型なのであり、オリンピックは「平和の祭典」というより「戦争の代わり」と考えた方がいいのだろう。
オリンピックのアマチュアリズムというのは、ヨーロッパのブルジョワの生活の余裕の現われとして定義されるのであって、まったくのエリート主義の産物。1920年代の日本では車引きなとのように走るのが仕事になっている職業出身者がオリンピック予選の上位五位までを占めてしまったのを「車夫馬丁の類に国を代表させられるか」と全部落としてしまったという。ヒドい話。
スポーツとは政府や企業やメディアに利用されるためにあるのでなく、本来的にそれを軽々と越えられる人間の自由な楽しみであり、それには文化としての認知と普及が必要と説く。